8 分裂する男と仮面の男
「話は聞いていたよ。君がクランツ・レンバッハ君だね。自己紹介をしよう。ぼくはアダム・ベロフ。魔法動物系統研究のいちおう責任者――ということになるのかな」
「は、はい。ええとはじめまして……」
隣の寝袋から声がした。
「あーえっと聞いた話だと第二皇女と城へ無断で侵入し、そこで魔性に傷をつけられて感染したっていう話だけど」
「合っています」
袖をまくると、今でも塞がりきっていない傷がある。ベロフの無言の視線に促されて、傷を見えるようにすると彼は考えこむように顎に手を当てた。
「ううむ。たしかに感染しているはずだがまだ正気を保っている、と」
「人肉食べたい?」
「いいえ」
「暴力を振るいたいとかは?」
「ないです」
寝袋たちが緩慢な動作で動き出してクランツのほうへと寄ってくる。表情筋が引き攣る。彼らは彼らでクランツを怖がっていたようだが、クランツとしては彼らのほうに恐怖を感じていた。なぜならば、みんな同じ顔をしていたからだ。
アダム・ベロフが五人いる。白皙の肌に真面目そうな若い顔。声も仕草も似通っている。別人に同じ顔が付いているだけだとは到底思えない。一人が分裂したと説明されたほうが納得がいく。
呆気にとられているクランツを置いて、五人のアダム・ベロフは話し合っていた。
「魔性にはなってない例だって? 興味深いね」
「うーん、だとすればこちらより魔法傷病系統の研究室のほうがいいんじゃない? ゾーヤが管理しているところ」
「抗体とか調べてもらえるだろうし、いまの状態がなんなのかもよくわからない。その傷もうちの設備じゃ診ることができない」
「傷病系統で調査してもらったあと、もし発症したらまた来てほしいね」
「魔性に変貌するのに時間がかかった例なんて、まあ……ロクに報告されていないしね。興味深いよね。うんうん」
「ああ、興味深い。クランツ・レンバッハ君、君が魔性に変貌したあかつきには、ぜひうちの研究室で剥製にして飾ろう」
アダム・ベロフ五人がクランツに目を向けた。
一斉に同じ顔と同じ目に見つめられて、ぞっと全身を悪寒が駆け巡った。
「あ、あの……ところで、なんでベロフさんは五人いるんですか?」
「これはエリシュカの研究の産物だよ。彼女は魔法人造生命系統の天才で、忙しすぎて分裂したいという希望を叶えてくれたんだ」
「ここはそんな地獄めいた場所なのかって言いたいのか? 顔に書いてあるぞ?」
「ああ、そうさ。研究室という名の地獄にようこそ。君はこの地獄に検体として招かれた哀れな実験動物さ。歓迎するよ」
一人のアダム・ベロフが芝居がかった調子でおどけると、つられて二、三人のアダム・ベロフも笑い始めた。
不気味な光景だった。
早めに離れないと、思考が汚染されそうだった。
「ええっと、その傷病系統に行けばいいんですよね。道順を教えてください」
退室に成功し、教えられた通り傷病系統の研究室に向かった。
「君、うちじゃ診られない。実験動物の世話なんてできない。アタシ忙しい。魔法薬学系統のドラニカのところへ行くといいよう。隣の隣にいるはずだから!」
早口でまくしたてられて数秒で追い出された。部屋の主は研究者に似つかわしくない背丈の低い少女だったがよく見えなかった。なにせ相当部屋が臭く、立ち入るのが憚られた。なにかよくないものを焚いているとしか思えない。
教えられた通りドラニカの研究室へ行くが、ドラニカはクランツを見て鼻で笑った。ドラニカは巻いた金髪と豊満な胸元の開いた服の妖艶な美女だった。色気のある恰好をしているが、いかんせん部屋の汚さの度合いが過ぎて、なんの感情もわいてこない。
「あんた、一か月後に研究発表会があるって聞いてなかったの? そのあと冬の城の探索だって」
「聞いていますよ……」
クランツは机の上に注意を向けた。資料が積まれているが、何か液体を上から零したらしく茶色く変色している。見ているだけで片付けたくなる部屋だ。
「それでみんな忙しいのよ。共同発表しなきゃいけない研究室や制作物の試作がやっとできたばかりの研究室なんかもあるから。うちは原稿はそこにあるけど」
机の上にはたしかに原稿らしきものがあった。使用済みのカップが無数に置かれたテーブルの上、乱雑に詰まれた書類の隙間にある。ゴミと見間違えそうだ。殿下のそばで事務仕事を処理してきた経験からそんなに汚い机では仕事がはかどらないと思ったが口には出さなかった。
「ふん、わかったならどっか行きなさい」
ドラニカは冷淡で、言いたいことだけ言い、クランツからたいした反応がないことを見て取ると追い出して扉を閉めてしまった。
クランツは休憩室へと戻ることにした。窓の外は暗くなりはじめている。どうにかまともそうな人間を見つけて相談しないといけない。魔法局がこんなに大雑把な仕事能力しかないことに非常に問題を感じるが、いまそこを責任者に問う場合ではない。とりあえず身の置きどころを見つけなければ。疲労と空腹を感じる。
「それなら魔法素体の研究者、エリシュカのところがいいだろう」
通りがかった男が突然、そんなことを言い、クランツの足は止まる。
「え、いまなんて? 俺に言ったんですか?」
「ああ、そうさ。クランツ・レンバッハ君」
長い廊下に二人きり、敵意と興味が混じった視線が交錯する。
奇妙な男だった。白衣を着た薄い壁。そう表現したくなる縦にも横にも広がった大きな男だ。恵まれた体格をしているのに屈強という印象は抱かない。衣服の上からでも盛り上がった筋肉がないだろうことは見て取れる。
素顔は銀色の仮面で隠している。ここに来てから変な人間を数人見たが、どれもこの男ほどではなかったかもしれない。そう思わせる際立った風格があった。
処理すべきか逡巡する。誰にも知られてはいけない指令がある。周囲に視線を巡らせて、誰もいないのを確認しておく。
「ああ、物騒な思考だね。クランツ・レンバッハ君……。まあ、ここでは特段珍しい思考じゃないけどね。みんな秘密主義だから殺気を向けられることもしばしばあるよ。しばしばどころかだいたい、かな。おしゃべりなのがいけないのかな? でも困っている人を見ると放っておけないよね?」
「……なにが目的ですか? あなたは誰ですか?」
「魔法局は初めてか。これは失礼した。自分はアルタイルというものだよ。アルタイル・アルタウロス。思考を読むのは僕が作成した念波受動機をつけているからさ。ああ、安心してくれ。過去までは読めないから、断片的に覗き見た思考を僕なりの解釈でつなげて読んでいるだけさ。だから、間違っているかもしれない。どうだい、君はいま研究所を追い出されて行き先に迷っていたね?」
「……思考が読めるなら確信を持っているんでしょ?」
腕を組むと、仮面の奥で彼が笑ったのがわかった。
「それならエリシュカのところへ行くといい。エリシュカならだいたい何が起きてもどうなっても大丈夫だろう。たとえば彼女が殺されてしまったとしても誰も悲しまないし、彼女の研究が丸つぶれになったとしても僕らの良心は痛まないさ」
「それ、人助けしたい人間の思考じゃないですよね。同僚に向ける評価にしてはあまりにも悪意に満ちているように聞こえます。部外者である俺に対しての説明としても不適切でしょう」
「そう聞こえるかい? じゃあ、適切な説明として、彼女はここの研究者たちの何でも屋さんとして扱われているのだよ。べつに本人も拒んでいないしね。今この時期この局の研究者たちは多忙で殺気立っている。相手にしてもらえずに困っているなら彼女をあたってみてほしい。僕からの助言はそれくらい。ほら、窓から見えるだろう? エリシュカはあそこの小屋に住んでいるのさ」
視線の先には物置のような小さな建物があった。炉が稼働しているらしく、煙突からうっすらとした煙が出ている。
「とりあえず行ってみてダメだったら、僕のところへ戻っておいでよ。最上階にいるから。夜になると魔性は活性化するけど、君はどうだろうね? 僕は襲われても歓迎するよ」
「俺はまだ人間ですよ。なんで俺にそんなこと言うんですか?」
「ふふふ、君のことが好きだからさ。それと困っている人を助けるのが生きがいでね……。僕にはもうそれしかないのさ。みんな僕を天才とか呼んで近づいてこないし暇をしているんだ」
「あなたのような人は信用できません」
「そうだろうね。知っているよ。ただ人を頼りたいときは相談に来てほしい。それに僕は研究補助でいろいろな研究室に出入りしている者だから、どこかでまた会うかもしれない。よろしくお願いするよ」
二人は別の方向へ歩き出した。
癪に障る男だった。それ以上に、本能が警鐘を鳴らす。なにか対策を考えなければ計画は阻止されそうな予感がした。