5 拝跪
人の声を聞いた気がして、闇の中で目を開ける。クランツは再び治療室の寝台の中にいた。薬品の匂いのする暗闇、冷たい隙間風が吹きこんでいる。遠くで雷が鳴っていた。外の音に混じって、寝台の下から複数人のしわがれた声が聞こえる。
「皇女は毒を持つお方だ。心酔してはいけない」
「しかし、孤児になっても災禍に遭遇する運命とは……」
「あの方の手は血で汚れている。すでに穢れている」
老婆たちはみな皇女を好かぬらしい。
「はやく逃げたほうがいい。運命から逃れるといい」
クランツは返事をせずに、目をぎゅっと瞑った。朝がただ待ち遠しく、寝具を握りしめて時間が経つのを待った。
朝日が昇り、昼になる。上級使用人用の治療室にシルヴィアとオデットが見舞いに来てくれた。供の騎士も一緒に入ると、狭い治療室は満員になった。
寝台に横たわったクランツに、シルヴィアは案じるような表情をした。今日は彼女は簡素なドレス姿で、宝石の類も身に着けていない。身近に感じられる恰好をしていた。
「縫合以外は大きな怪我はしていないそうじゃない。命に別条ないようでよかったわ。それでも幼いうちから大きな傷を残してしまうことになってごめんなさい」
皇族が騎士らがいるところで謝罪することは滅多にない。
クランツも受け入れねばならず、渋々ぶっきらぼうな調子で応えた。
「別に構いません。こんな平民の体を案じてくださって、ありがたき幸せに存じます。それより殿下、御身を大事にしてくださいと言ったではありませんか……」
「わたくしを案じてくれているの? ありがとう」
シルヴィアは顔をほころばせた。
「敬語など堅苦しいでしょう。あなたが話したい言葉で話して。連れてきた騎士たちはみなわたくしの家族のような者たちだから、気楽にするといいわ」
クランツは深く息を吐き、ため込んでいたものを吐き出した。
「皇女殿下のことが嫌いです。心配するなんてとんでもない。くたばってくれればいいのにとすら思った」
「あら。では、わたくしのことはシルヴィって呼んでもいいのよ」
「では、の繋げ方おかしいだろ。誰が親しく呼ぶか。ばか、性悪、拷問好きの変態。あんたの家来どもはあんたに跪いているんじゃない。あんたの後ろに立つ王をみて言うことをきいている。くだらない茶番に巻き込まれた俺の身を……むぐっ」
それ以上、話せなくなる。
唇に押し付けられたのは剥かれた林檎だった。シルヴィアが剥いた林檎を押し付けている。
「そこまでにしておいて。気楽にしてとは言ったけれど、言ってはいけないことはあるわ」
シルヴィアの後ろに控えるオデットは不機嫌そうな顔でじっとりとした目をクランツに向けている。理由はわかる。林檎を剥いているのが自分なのに、食べられないから不満なのだ。
さらにオデットの後ろに控える騎士たちも硬い表情をしていた。理由はもちろん林檎ではない。
「申し訳ありません。少々言葉が過ぎました」
「わたくしの振る舞いについては謝らない。理解していないのはあなたのほうだわ。わたくしは人の上に立ち指揮をする。そんな人間が使われる立場の人間と同じ意見ならば国が滅ぶ。尊重は必要ですしやりすぎは禁物だけど、わたくしはあなたの上位者であり、上位者の意見を平民のあなたが理解しえないのは当然のこと」
「言いたいことはわかるけどぶん殴りたくなる」
「その反抗心、気に入っているわ。わたくしはクランツのことが好きよ。ねえ、そばに来なさい。わたくしと一緒に計画を手伝って。あなたも見たでしょ? あの素晴らしい夏を。リトヴァクに夏が欲しいでしょ?」
「夏は欲しいですけど……」
あの青い空と燦然と輝く太陽、萌える緑の光景は瞼の裏に焼き付いていた。
「ね。わたくしはあなたが必要なの。協力して」
クランツは、耳が自分の意志とは関係なく熱くなっていくのを感じた。
「なんのつもりですか、殿下。からかわないでください。俺は孤児で、なんの力もありません。ただの下級使用人です」
「クランツは精霊に愛されているでしょ?」
シルヴィアがクランツの足元に手をかざすと、そこにまるで初めからいたかのように、黄金色の精霊が現れる。
「レンバッハの猫。レンバッハ卿が病に伏し死を覚悟した際、自らが支援する孤児院の孤児たちを守るように言いつけたという黄金色の猫だわ」
シルヴィアは右手で猫を撫で、左手で窓枠を指さす。
「外で遊んでいるのはブラウニーたち」
窓の外の出っ張りには人差し指程度の背丈の妖精がいた。彼らは茶色の服で、お互いに口汚く罵りあいながら豆粒みたいな雪玉を投げあっている。
「どうして殿下の周りでなら、視認できるのですか。俺は人ではないものの声は聞こえますけど、呼び出せるのは猫だけです」
「皇族は魔法や精霊と相性がいいそうよ。わたくしは呼びかけできないから、ただ見られるだけ。クランツ、あなた自身では視認できないかもしれないけど、クランツの周りには精霊がたくさんいるわ。湖で死ななかったのも精霊のおかげ。精霊に愛されているの。わたくしにはない力よ」
「殿下にはないから求めているのですか?」
「そうよ。それにあなたがこの前言った、生きているなら希望はあるという言葉の意味を知りたいの。そんなものわたくしは嘘だって思うから」
「…………」
シルヴィアはクランツの様子を一切気に欠けず、自身も林檎をつまみながら続けた。
「わたくしは血の道を敷く。拷問妖精という名称を有効に使う。クランツ、これからあなたはわたくしのそばでわたくしが殺すたくさんの人間の姿を一緒に見て。そしてあなたの考えが変わらないことをわたくしの隣で証明して。わたくし、ちょうど、家門や噂話に怯えず反駁する部下がほしいと思っていたの。わたくしの血統魔法に怯える貴族の子供なんていらない。あなただけが欲しい」
クランツはシルヴィアの強い光が宿る目を向けられた瞬間すべてを悟った。
「人をおもちゃにするのも大概にしろ。……俺はあなたの部下になるのですか? 拷問仲間に? 嫌だと言ったらどうなる。殺すのか」
「…………」
沈黙が答えだった。
たとえ、いまここでシルヴィアの勧誘を受けなくても、クランツの精霊に愛されるという特性は政敵に利用される可能性がある。味方につけられなければ殺してしまったほうがよい、というのは権力者の考えそうなことだった。
「権力者なんてみんな……」
「なぜ拒むの? わたくしは大義を掲げている。それにあなたを受け止めて、認めて、支えて、褒めてあげる。君主と臣の信頼関係を築くことができる。わたくしはあなたが忠実な部下であるかぎり、あなたを大切にする。あなたの拠り所になれる。財力、名声、家門、すべてに申し分のないわたくしがあなたを守る」
「……守ってくださるのですか。平民を、孤児を。ご自身で私刑に処そうとしたくせに」
「それは申し訳なかった。では、わたくしを選ばないというなら立ち去ります。オデット、行くわよ」
シルヴィアは立ち上がった。オデットも鋭い目でクランツを見ると、そっぽを向いた。
権力はクソだ。上に立つ者は下の者を気にかけない。でも、それがふつう。口の端を上にあげる。むりやり笑う。そうする道しか残されていない。生きたいなら笑うしかない。
「待て、シルヴィ」
寝台から抜け出して、部屋を出て行こうとしているシルヴィアの背に向かって声をかけた。
「お前はそれが正しいと思っているのかよ。人と信頼を築く態度として間違っているとは思わないのかよ」
シルヴィアはクランツの前まで戻ってきた。
悪びれない顔。その綺麗な顔がむかつく。
「わたくしのなにが間違っているというの?」
「相手の上辺の情報で損得勘定して、利益を与えれば協力してくれるって思っているだろ? 貴族の世界ではそうなのかもしれない。でもふつう人間関係はそれだけじゃないだろ」
クランツは自身を指さした。
「俺は見たことがないものが見たい。たとえば夏とか、魔性とか。知らないものを知りたい」
シルヴィアは目を瞠ったものの、すぐに理解したのか表情をやわらげた。
「……では、クランツ。わたくしと友人になりましょう。一緒に冬の秘密を知りに行きましょう。一緒にわたくしの夢を追ってください」
シルヴィアの友人など、この場の言葉だけだと弁えていた。皇族の友人になれるのは貴族だけだ。ただどうしてもクランツの中で渦巻く不信感が命令に対して素直に返事をさせてくれなかった。
クランツは床に跪いた。
「はい、殿下。そしてその行為で、殺す人間よりも救う人間を多くしてください。せめてたくさんの民衆をお救いください」
シルヴィアは微笑みで応えた。
騎士たちは苦い顔をしていたが、口を挟んでこなかった。
その後、二人は十年間ともにいることになる。
そして、シルヴィアが十六歳を迎えた年。
彼女は臣下とともに冬の城へと至った。
禁忌を犯して得たのは彼女が望むものではなかった。
罪として、シルヴィアに与えられたのは軟禁と、計画の加担者の投獄と魔法管理局への追放だった。その幻想的な美貌を讃えられ、妖精姫と呼ばれていた彼女も、いまでは禁忌へ触れた姫と民衆に忌み嫌われている。