4 殿下の願望
そこには血を浴びたオデットが立っていた。彼女の足元には複数の人間が倒れている。いずれも騎士の恰好をしたものたちで、物言わぬ躯になりはて血の海に沈んでいた。室内は骨董品や硝子の破片などで散乱しており、激しい戦闘の余韻を感じさせる。
オデットは優美な鉄の槍を持ち、顔の半分を血に染めていた。長い舌で唇についた血を舐めとる。切れたスカートから太ももが覗き、鉄製の尾が揺れているのが見て取れる。
「鉄の魔性……! 本当に、ギルモアの遺物だったんだ」
「クランツ、だめよ」
無意識に一歩近づこうとしたクランツの腕をシルヴィアが掴んだ。
「だって、こんなに間近に鉄の魔性が……」
ギルモアが滅びて以降、残された研究成果のなかの人に近いモノは金属の魔性と名付けられている。付随する噂いわく、冬の秘密に触れると金属の魔性が現れて殺される。目撃数は限りなく少なく、実在は疑われている。一部の好事家は実在すると唱えているが、こうしてクランツも実際に目の当たりにするまで信じていなかった。
「落ち着いて。近づいたら斬られる。まだ死にたくないでしょ」
「あ……」
クランツは改めてオデットの周りの死人を見て、自身が混乱していたことを認めた。冷静になると漂う血の匂いに吐き気を催す。
睨んで後退した。
「お帰りなさぁい。畜生お姫ちゃんと、奴隷ちゃん。たくさん二人で遊べて良かったわねぇ。あたしのおかげなんだしぃ、感謝してもいいのよぉ」
「この騒ぎは一体何事ですか。オデット、答えて」
「お姫ちゃんは城の盗品を持っているでしょ? どこにあるのぉ?」
オデットは殿下の声を無視し、わざとらしく部屋を見回す。
「わたくしをどこかにやってその間に探し物ですって。そして護衛に見つかれば、処理と。まるで強盗のようだわ」
「認識が間違っているわぁ。あんたが持っているものは元はあたしの主のものなので、あたしはただ盗られたものを取り返しに来ただけぇ」
「これまでわたくしの護衛として匿ってやった恩を忘れたの?」
「匿ってやっただってぇ? うふふ、上から目線、そういうとこがムカつくぅ。あたしの居場所はこれまでもこれからも、未来永劫、主君のそばだけ」
「主君ね……」
シルヴィアは痛む頭を抑えるように、こめかみに指先をあてた。
「さあ早く教えて? 遺物はどこにやったのぉ? 教えてくれたら殺さないであげるからぁ。あたしも皇族に手を出すのは疲れちゃうからねぇ、お互いに楽な選択をしましょ?」
槍を持って、オデットが近づいてくる。
殺気が肌を焦がす。
クランツは呻いて、しかし決断する。
「猫!」
こらえきれずクランツは叫んだ。
これまで隠していたことをさらけ出すのに躊躇はない。
――にゃおん
果たして呼びかけに一匹の精霊が応じた。
いつからそこにいたのか、ごく自然に、クランツたちとオデットの間に割って入るように精霊が現れていた。燐光を放ちながら黄金に輝いている。クランツは猫と呼んでいるが、それは猫よりも大型で美しい牙を持っている肉食獣だった。
――ごろごろごろ
精霊はオデットを牽制するように低く喉を鳴らしている。そして静かに獲物を狙う動きで構えると、オデットに飛び掛かった。オデットは軽く動き、それを避ける。槍は精霊のほうに向けられている。
クランツはシルヴィアの手をひいた。不敬と思うほどの余裕はなかった。ただじっとりと汗ばんだ手の感触を感じた。
「殿下、精霊のほうに注意が向いているうちに逃げましょう」
「間に合うはずがないわ。落ち着きなさい」
低い声でそう言って、シルヴィアは踏みとどまる。オデットへ意思を向けたまま、視線をけして揺るがさない。
「わたくしはあなたの主が誰であるか知っている」
「わかっているなら、あたしの取り返したい理由もわかるはず。言ってみればぁ」
「アレクシア・ユリ・リトヴァク」
オデットの反応は劇的だった。
「アレクシア陛下だよ、このまぬけ姫!」
叫び声が耳をつんざく。
天井を彩っていた採光のための硝子窓が砕ける。凄まじい破壊音を響かせ落ちてきた硝子はさらに床に当たった衝撃で細かな粒へと割れていく。
クランツは咄嗟に殿下をかばった。そうするのが使命と思われた。
精霊が咆哮する。空気が振動し、硝子破片を吹き飛ばすように暴風が吹き荒れ、破片すべてがクランツと殿下に降りかかるのを防いだ。
しかし吹き飛ばされなかった大きな破片が落下し、クランツの服を貫き生身の背に刺さる。
切り裂かれる痛みにクランツは顔を歪めながら、庇った殿下の顔がほんの少しも動かないのを確認した。
シルヴィアはここへ来た時と同様に覚悟を決めていた。
「失礼。アレクシア女帝。わたくしは彼女の城へと至りたい。守護者であるあなたがわたくしを阻もうと、女帝にはその意思はないはず。わたくしは冬の魔法の真実を求めている。真実を求める者が正当な手順を踏めば、開示してくれるんでしょう?」
オデットはすぐに返事をしなかった。
「そうねぇ。いままで為政者たちはそんなに強く冬の魔法の真実など求めたことはなかったけれど。みぃんな臆病だから。冬の魔法が解ければ不利益を被る者がだいたいだったしぃ。新しい時代っていうのかな、拷問妖精殿下?」
「そういう言い方をするということは守護者であるあなたも、この現状に嫌気がさしているのではないの? 冬の魔法はあなたの主をあの城に留め置いているのでしょう?」
「それはどうかな」
オデットは面白そうに笑う。
「取引をしましょう、守護者さん。わたくしが冬の魔法の真実に至るまで、わたくしのそばにいて、わたくしのことを殺さないと約束して」
「なぜそんなことをしなきゃいけないのぉ? あたしは世間知らずなお姫様なんか嫌いよぉ。そもそも見返りはなあに?」
「わたくしは何としてでも冬の魔法を暴き、壊したい。もしくは乗り越える手段を講じたい。この世界を変えたい! そうしなければ、わたくしは大切なものを失ってしまうから! その上であなたに差し上げるのは、あなたの主の解放はいかがですか? 国家権力とわたくしが持てる力のすべてを講じ、あなたの主の解放をしましょう」
オデットはしばし無言になった。鉄の尾が右に左に律動している。呆れているのか、熟考のためなのか、わからない。
クランツは痛みに叫びだしそうになるのをこらえ、じっと聞いていた。二人の会話が少なくはない人間の生殺を握っているかもしれない。
「ふーん、面白いじゃん? でも、これはどうするの? これ国主に見つかったらあたしぃ、謀反で断罪じゃない?」
「庇ってあげるわ」
殿下は倒れた騎士のほうに向け、手を伸ばし、宙にあるなにかを撫でる仕草をし握った。白い額から顎まで、汗が伝い落ちる。
奇跡が起きる。
焦がすような匂いがして、倒れ伏した体が真っ赤な液体に溶けると床に吸収され霧散した。鎧や武器は散乱したまま、体だけ溶けだした。そうとしか説明できない光景だった。
「血統魔法……」
「殿下……。そろそろダメみたいです」
――きゃんっ
オデットが無造作にも思える挙動で放った槍に、精霊が貫かれていた。オデットは槍を拾うついでに獣の体を蹴りつける。哀れっぽく鳴き声をあげて弾き飛ばされ、黄金の光が淡く消え去る。
「殿下、……どうか危険なことは」
「わたくしのドレスを汚したあなたがそれを言うのね。下がって。硝子片は溶かしてあげる」
じゅわっ、と。
体内から変な音がした。
「えっ」
驚愕と新たに襲ってきた別種の痛みに眩暈がして、意図せずシルヴィアの前から退いてしまう。
障害物を失った殿下は、代わりにオデットの前へと近づいて行った。
「オデット、寿命の長く天敵の少ないあなたならばわたくしの元へとくだることで不利益がないはず。だってわたくしたち人間の寿命は長くてもせいぜい八十年くらい。あなたにとって、八十年はそんなに大きな目盛じゃないでしょう? わたくしが死んだら品物はオデットが回収していい。ただわたくしには今世でやることがあるのよ。この人生で成し遂げたいの!」
張り裂けそうな感情的な声だった。
殿下はオデットにさらに近づく。
「わたくしは冬の魔法を解きたい! この世界に夏を呼ぶの! だから協力してほしい! 協力できないのであれば、せめて見守っていてほしい!」
刹那、熱波が部屋を満たした。
「……くっ」
束の間、体が高熱で溶解した錯覚を覚える。我に返ると、体は無事だが殿下の周囲が溶けていた。殿下の周囲の床がわずかに削れて波打ち模様を作っている。――それはこの凍てついた国では縁のない高熱によるもの。
「残酷だことぉ。お姫様に誠意をもって仕えていた騎士の弔いより、真実を求めるのねぇ」
オデットは武器を置いた。
話し合いは決着した。