27 逢瀬
「一時間後、開けておく。もう一度、来なさい」
クランツは頷いた。シルヴィアに手荒に扱われた衝撃を受けているのを演じ、そのまま退室した。宮殿の外へ追い出される。護衛騎士たちが中に戻ったのを確認する。言われたとおりの時間に宮殿に侵入すると、騎士たちは宮殿を巡回しているようだった。うまくすりぬけながらシルヴィアの居室を訪れると、シルヴィアはネグリジェ姿で、さきほどとは打って変わって明るい顔で迎えた。テーブルの上の銀の皿も片付けられている。代わりに手紙を書いている途中だったのか、ペンと便箋が乗っていた。使用人は室内に一人だけ、震えながら椅子に座らせられている。さきほどのディという女性の使用人だ。
「殿下……その方は」
クランツが訊ねる暇もなかった。
シルヴィアの指はクランツを労わるように濡れた髪に触れた。
クランツもシルヴィアの手にとり甲に口づけした。
「さきほどは侮辱してごめんなさい。あれらはわたくしの婚約者の監視よ。鬱陶しいのよ。どうせわたくしが皇位を継ぐから、あんなやつとの結婚なんて必要ないのに。政略結婚でももっと意味のある結婚をするべきだわ」
「……それだけ殿下の力が増すのを皇帝が恐れているのです」
使用人が気になるが、シルヴィアがこうして話すということは問題ないのだろう。クランツもあまり気にしないよう、シルヴィアのほうを見る。
「わたくしは父親殺しの罪なんて背負う気なんてないのに考えすぎなのよ……。我が一族の男はみな小心者ね」
「殿下。本当に、お変わりなく安心しました」
「……わたくし、あなたに会いたかった」
心臓が跳ねて飛び出るかと思った。シルヴィアがクランツの背に手を回したからだ。口の中で言葉がまごつき、頭の中も整理できず、シルヴィアの背に手を回すわけにもいかず、結果的に両手を上げた状態で固まった。シルヴィアの髪か肌か、人の不安を和らげる優しい匂いがする。
「殿下、離してください。一介の下僕が御身に触れるのは荷が重すぎます」
「クランツはただの使用人なんかじゃない」
「じゃあ、なんですか?」
「わたくしの大切な友達。家族のようなひと」
どう振舞えばいいか把握できた。度々シルヴィアは甘えたがることがあった。クランツはシルヴィアの肩に手を乗せて、形のよい頭をそっと抑えるように撫でた。
「寂しかったのですか」
「……そんなことない」
言葉とは裏腹に、シルヴィアの腕には力がこもっている。
「俺も寂しかったですよ。シルヴィア殿下が俺の一番です。もし人生から殿下が消えたら、俺は抜け殻になって生きていくしかないでしょうね」
「そこまでじゃないでしょ。大袈裟。わたくしのことを悪女とか性悪とか帝国の腫瘍とか……。ひどい悪口言うくせに。本当は嫌いなくせに。わたくしに優しくするのはどうして?」
「さあ、どうしてでしょう? こういうとき、物語だったらどうでしたっけ?」
「食べるために優しくしているのよ。丸呑みでパクッか、オーブンに入れて丸焼きね」
「それは俺が期待していた答えと違いますね」
シルヴィアが顔を綻ばせた。
「お前はそういう柄じゃないはず。わたくしの騎士とか反吐が出るって言いそう……」
「反吐は出ないけどちゃんちゃらおかしいって思いますね。俺の任務は汚れ仕事ですから」
「……おかえりなさい、クランツ」
「ただいま、シルヴィ」
シルヴィアがようやくクランツの顔を見た。その笑顔の頬に触れ、髪にキスをする。シルヴィアは咎めなかった。婚約者でもない男に触れているのを誰かに見られたら、シルヴィアの名誉が失われる。もともと評判の悪いシルヴィアだが更に不名誉な呼び名がつくだろう。
「あなたがいない間にわたくしもいろいろあったの。見ていて」
シルヴィアはそう言って、ネグリジェのボタンを外して脱いだ。薄い下着から透けた体の傷跡が露わになる。胸から腕にかけて引き攣る火傷の痕跡、腹から肩にかけて奇妙な亀裂痕。皇女という身分からは想像もできない醜い痕の数々。結婚後、ルカの口が軽ければ社交界でひどい噂が立ちそうな傷だらけの体だった。
それらはシルヴィアの通ってきた道を示している。シルヴィアの気性を考えれば今更驚くようなことではなかった。
「火傷の痕はどうしたのですか」
「リステゴットと競ったときについたの。返り討ちにした」
「第一皇子ですか。ずいぶん幼いころの話ですね……」
リステゴットが病死とされたのは、シルヴィアが六歳になる前だったはずだ。
「ディ、こちらへ来なさい」
シルヴィアの使用人を呼ぶ声は軽やかだ。
使用人は顔を青くしたままシルヴィアのすぐそばまでやってきて、絨毯の上にへたりこんだ。
「おゆるしください、シルヴィア殿下」
「ゆるさないわ。さあ、おいで」
使用人は泣いている。シルヴィアは艶然とした姿で微笑んだまま、使用人の手をひき立ち上がらせる。細い手首をうまく首に沿わせて、晒しだした使用人の白い肌にシルヴィアは唇をそっと近づけた。
使用人の口をその白く細い手で塞いだ。じゅっと血統魔法の焦げる音がし、使用人の声帯が焼かれたのだとわかる。生きて帰す気がないのだ。
シルヴィアが使用人の首に噛みついた。制服の襟が溢れる血で染まっていく。捕食されている。
「……ふ、あっ」
苦しげな吐息が少女の口から漏れて、クランツは我に返った。
クランツはシルヴィアと使用人の間に割って入ろうとした。
「殿下、放してください」
「は、急になに? なぜ止めるの? では、あなたがこの子の代わりになる?」
凛と響く声に、クランツは姿勢を正した。
「ご希望でしたら捧げます」
「……よい心がけね」
シルヴィアは使用人を手放した。血はシルヴィア本人の体も汚している。だからネグリジェを脱いだのだ。
シルヴィアがクランツに近づく。
凍ったように動けない。幻覚や精霊ではない本物のシルヴィアが麗しい体を晒しクランツをまっすぐに見つめている。視線が絡まり離せない。
足元で使用人は目を回している。死んでいるのかもしれない。誰も二人のことなど見ていないのは確かだ。
シルヴィアの口が酷薄に歪む。
「わたくしのことを縊り殺す気でここまで来たでしょ? どう、いま、殺せる? やろうと思えば犯せるような状況じゃない?」
見慣れた邪悪な笑顔を近づけられて、クランツは顎を引く。
「……血腥い口でよく言うよな。自分大好き皇女様。俺がそういう動きをしたら、それを理由に殺す気だろう」
もはや遠慮は無用だった。
笑い声が寒寒しく広い部屋に響く。
「そんなわけないじゃない。甘んじて受け入れてあげるわ。今までさんざんわたくしのこと想像で犯したでしょ?」
「薄ら寒いことを言うな。服を着ろ、ばか」
シルヴィアの手をクランツは払いのけられなかった。絨毯に押し倒された。首筋にキスをされ、甘い声で名前を囁かれる。歯で軽く摘まむだけの愛撫で、簡単に皮が削げ、流れた血を啜る。血を流したクランツの上でシルヴィアは勝ち誇ったように笑う。蕩けた笑みに、クランツの視界もぼやけていく。
「俺を殺す気ですか、シルヴィア殿下」
「それもいいわね。クランツを殺して、わたくしのものだけにするのも。もうどこにも行かない。寂しくないわ」
「……俺はシルヴィア殿下が嫌いです」
「好かれていないことは知っている」
「嫌いですけど、生きてほしいです。殿下、逃げましょう。猶予は今夜だけです」
シルヴィアは笑うのをやめた。
「……どうしてわたくしを生かそうとする? わたくしは薄汚い使用人などに心はくれてやらないわよ。拷問妖精と呼ばれる程度には狂ったことをしてきた。下々の者をくだらぬ理由で殺すし、わたくしを生かして得はないでしょ。わたくしが死んだらお前は嬉しいはず。ずっと自分を縛っていたものがなくなるのだから」
「殿下は俺に初めての仕事で落胤の赤子殺しをさせる方です。血も涙もない、理詰めで人殺しを命令する方……」
「暖炉に薪のように使用人の子供を突っ込んだのよね。覚えているわ」
クランツはよく知っている。シルヴィアは感情に蓋をしている。クランツのことをさきほど家族と呼んだのも、甘えたのも、すべては一時の感傷。もしクランツの処刑が必要であれば行うし、罪の追加すらするだろう。逆に利用できる間は、クランツに甘い言葉を吐き権威をみせつける。血も涙もない、他人のことを利用する支配者。そういう人間だ。
「それでも俺は殿下が一番だ。俺のことを大切だと思う気持ちと一緒ですよ。悪だと知っても、俺は殿下に惹かれる。どうにもならないものなのです」
「……」
「シルヴィア殿下は俺のことを本心では好いていらっしゃるでしょう? でなければ、招かない。血を吸わない。魔性であることを明かさない。文通をしない」
「それ以上言うな」
クランツはシルヴィアの指示通り、口を噤んだ。
「このまま去って。どこかへ行って。わたくしが間違っていたと認めるから。わたくしに逃亡を持ちかけたことは黙っているから」
シルヴィアは、クランツから離れた。
しんと静まり返っている。お互いの呼吸の音すら聞こえそうな静寂。
手に取るようにクランツはシルヴィアがなにを恐れているのかわかった。シルヴィアが長い間、焦がれているもの。与えられず苦しみ、孤児であるクランツに興味を示した最も大きな理由。人の血に手を染めるたびに、彼女自身が殺そうとしてきた。それでも完全に凍ることはなく、おそらく奥底で封をされてしまった――愛情への渇望。それを揺り動かして目を覚まさせようとするのを、シルヴィアは忌避している。
クランツはいまだに血が止まらない首を抑えながら身を起こした。彼女に向かって、腕を広げてみせる。
「なにを間違っていたのですか。この世界に人間が決めた法律はありますが、人の愛し方に大も小も上も下もありはしません。殺すほど愛しているならそれもひとつの愛でしょう。……歪んでいるけれど、それが殿下の愛し方ならどうか俺を殺めてください。好きなだけ惨めな姿にして踏みにじって殺せばいい。俺は殿下のなすことすべて受け入れます」
「愛しているから殺すなんて愚かね。生は誰かの手のひらで歪められていいものではないでしょ……」
「はい、俺も否定まではしませんが、愚かだと思います。愛している相手には幸福に生きていてほしいです。たとえ誰か別の人間と添い遂げるとしても」
「お前はわたくしのことが憎いのではなかったの」
「憎しみと愛情は相克の関係です。二つ割り切れる関係ではないのです。非道な第二皇女殿下のことは嫌いですが、夏を見たいと言ったあなたを俺は……。その二面性がシルヴィアという人間なら、俺はどちらも否定しません。受け入れます」
シルヴィアが嘆息した。
「去れ。そして自分の意志でわたくしの前に現れることを許さない」
シルヴィアは厳しい声でそう告げるとネグリジェを拾った。背を翻そうとしたのを見て、クランツは咄嗟にその体を後ろから抱くようにして止めた。
「待ってください、殿下」
「自分からわたくしに触れるなど。……正気ではないわね。お前を殺すことは造作もないことよ」
足元に転がっていた使用人の死体はいつの間にか消えていた。
シルヴィアの言う通り、一瞬でクランツを殺すことは簡単だろう。しかし、愛しているから殺すのは愚かだとシルヴィアは言ったばかりだ。今夜シルヴィアを説得できなければ後がない。永遠に失うかもしれない。そんなのは耐えられない。
「殿下、お願いだから聞いてほしい。俺は最初から正気だ。正気で今までお前の拷問に付き合ってきた。お前の性悪な、お前が生きるためだけに城での地位を確保するためだけに行う数々の残虐な行為を黙って見てきてやった。お前が口にする戯言も真剣な顔で聞いてやった、そうだろ? おかげで俺のあだ名はお前の犬だぞ。拷問に関する知識は飛びぬけ、人間の裸を見ても性的な興奮より、その皮膚と脂肪の下の臓器が透ける。どう苦しめたらいいか考えてしまう。こんな俺が普通の世界で生きていけると思うか? 仕事を与えず街に放り出したら殺人鬼になりかねないぞ。お前が俺の人生を曲げた。シルヴィア・エル・リェフ。クソ悪女。最低なクズ。俺の姫様」
「…………」
「俺の普通の人生を返してくれ」
届かない星ならば知らぬほうがよかった。幾度もそう考えた。
けれど届かせようと努力したからこそ、シルヴィアにようやく感情を伝えられた。言葉での表現には限度があり、それが酷くもどかしい。
「……ごめんなさい」
ぽつりとシルヴィアはそう言った。
そう言って、シルヴィアは嗚咽も上げず涙をこぼした。後ろ頭しかわからない。クランツはシルヴィアの髪に頬をつけた。
腕を解いてもシルヴィアは逃げようとしなかった。泣いているシルヴィアを振り向かせて抱きしめる。柔らかく、温かい。寒そうな姿も見ていられないので、ネグリジェも着せてやる。どういうつもりで脱いだのか、問いただせば血で汚れるから脱いだという返答しかないのだろう。皇女なのにそういうところには関心がない。体を大事にしてほしいと何度も言ったのに通じていない。もし襲われても血統魔法で殺せるから油断している。
「わたくしは皇女であることをやめられない。それが……わたくしが殺してきた人間たちのためでもある」
シルヴィアが皇女でなければ、こんな顔をさせることもなかったのだろうかと想像してしまう。
彼女の髪の毛を指で透きながら、クランツは語りかけた。
「ではせめて約束してほしい。シルヴィ。俺はどこにも行かない」
「…………」
「ずっとシルヴィのそばにいると誓う」
「…………」
「だから、俺を受け入れて、俺の主人であり続けてくれ。俺はシルヴィア殿下を裏切らないし、愛し続けるし、血も命もなにもかも捧げる。だから……、シルヴィア殿下がどこで幸せになっても、誰と結婚するのでも構わないから、ただ俺をそばに置いて仕事をさせて、上手にできたら褒めてほしい。俺の仕事、人生、苦悩に意味があったと言ってくれさえすればいい。俺はシルヴィの影になる。たまに幼馴染か、家族ごっこもシルヴィが望むならしよう。それだけでいい。それが俺の人生を歪めた責任だ」
「……クランツはそれでいいの。わたくしを殺したいとかは」
「もし俺が殿下を殺すとすればそれはあなたがそうするように命じたときだ。死よりも恐ろしい苦痛が待っているとき、捕虜になったとき、辱めを受けかねないとき、死が救いになるとき。そのときだけだ。そうじゃなきゃ、逆に俺が脳を灼かれるだろうが。殿下に勝てるわけがない」
「わたくしはクランツを信じる」
シルヴィアは頷いた。疲れている様子だったので寝台まで付き添ってやる。皇女のための豪奢な寝台だ。ただ横に本と紙束の山が置かれているので、普段の忙殺ぶりが透けてみえた。
「寝る前の本はいりませんか」
「あまり調子に乗らないで」
「おや、さっきまで裸踊りしていた子供がなんか言っているな」
シルヴィアはクランツに向けて拳を振って、殴りつけるような動作をした。もちろん本気ではない。クランツを寝台から見上げる視線はただ眠たげだった。
「……ねえ、こんな状況でも絶望しないの? わたくしはどうしようもない悪で、もう女帝になることを目指すしかない行き詰った状況で、お前の入り込む余地などないのに。幼いころに見た夢も、もう夢でしかないとわかってしまったのに」
「しない。むしろ、シルヴィア殿下が皇女という身分を解かれれば俺のものになるってわかったから」
「ならないわよ。わたくしは絶対に女帝になる……。誰がお前みたいな下賤な……。結婚相手はわたくしより格上じゃなきゃ嫌よ」
「この地上のどこにリトヴァクの皇女殿下より格上の相手がいるというのですか」
シルヴィアが横を向いて顔を隠すので、クランツは笑い、そばを離れた。
「おやすみ、シルヴィ」
寝室を出るときに耐え切れずクランツの顔が歪んだ。
シルヴィアは気づかないはずだった。
「おやすみなさい」
返ってきた声は穏やかだった。
シルヴィアはこれから起きることを知らない。
シルヴィアが城と心中することを望むなら、クランツも彼女の意志を尊重するまでだ。




