25 登城
城へと上がるのは難しいことではなかった。
ヴィクトル・レンバッハが手を回し、エリシュカとクランツは番兵によって通される。兵士たちはクランツとエリシュカを城で生活している貴族の客人だと思っている。クランツの顔を覚えている者がいるかもしれないので、クランツは上着を着込んで体型を変えていた。いまのクランツは男爵、エリシュカはその妹ということになっている。
滞在の許可は出ていないが、出入りの制限は貴族に対しては緩いので見逃してもらえるだろう。
「クランツさん、あれ。喧嘩ですか?」
ひとまずヴィクトルが手回ししたその貴族に会いに行こうとしていると、通路の端でなにやら揉めている気配があった。
「いや、あれは揉めているというか……」
クランツがのけぞるのと、人ごみから黒い影が飛び出すのは同時だった。
「魔性!」
魔性にかじりつかれていた兵士が血の滴る腕をものともせず、剣をふりかざし、大声で怒鳴る。
「魔法使いを呼べ! すぐにだ! 犠牲者が増える!」
エリシュカが止める間もなく魔性が飛び出した方向へと走り出した。クランツはその場に残るかエリシュカを追いかけるか逡巡し、エリシュカの後を追った。
だんだん小さくなる怪我をしていた男のほうをちらちらと見てしまう。あの男も感染しているはずだ。
腕を飲み込み跳ねるようにして逃げていくのは小さな魔性だった。通常、魔性は逃げない。今回めずらしく逃走を選んだのは、敵になりえるものが回りに多かったためだろう。走りながらエリシュカが魔法を行使する。エリシュカの手に淡い光が宿り、魔性は一回転、二回転すると、丸まっていた。雪の上に黒い玉になったものが落ちている。エリシュカはそれを抱えこみ、座り込んだ。
「はぁっ……はぁっ。こんな、小さくて助かりました。大きいのは一人じゃ無理です」
「エリシュカさんのその……血統魔法は調節できないんですか」
雪原で腹を食い破られていたエリシュカの姿が脳裏によぎる。
「難しいです。だから人を殺しかけました。アダム・ベロフたちに見せたあのくらいがいちばん楽です……」
「…………」
「これ、どうしましょう……」
二人は魔性を見つめ、しばし考える。
ふと、クランツは人の足音を聞き、慌ててエリシュカを引きずり起こした。丸くなった魔性は雪の上に落としておく。建物の陰に隠れる。すでに周囲の雪は踏み荒らされた痕跡があるので、すぐには二人に気づかないと考えられる。
「殿下、危険ですので先行しないでください」
聞き覚えのある声だった。イサーク・アルタウロスだ。城の中にいる魔法使いといえば、皇帝直属の魔法使いか、彼だけだろう。アルタウロスが現れたことは驚くべきことではない。クランツは息を潜めて様子を窺った。複数人の足音と息遣いが聞こえる。
「これを見て、局長。これは魔性? 乾眠の処理がされているの?」
軽やかな声だった。聞き違いようもない、シルヴィア・エル・リェフの声。
クランツの余裕に罅が入った。いま彼女に見つかればどう遊ばれるかわからない。魔法局長と殿下の二人だけならば普通に接するだろうが、彼女の後ろに追従しているのが貴族であれば、見せしめに残酷な遊びをしようとするに違いない。エリシュカがクランツの異変に気が付いて、心配そうな視線を送ってくる。
「そうですね。一体誰が……」
「勝手に丸まったとは考えられないの?」
「それはありません。魔性は乾燥しか弱点がないのです。乾燥すると丸まり活動不能に陥る、それに例外はありません」
「では、この城にわたくしや局長が把握していない魔法使いがいるかもしれないということね」
熱風を感じた。血統魔法で魔性を飲み込んだのだろう。ほかの人間たちが感嘆の声を漏らした。
「鼠ごときに殿下のお手をわずらわせることはありません。殿下、どうか始末する許可をお与えください……」
さらに続いた声にクランツは舌打ちしたい気分になる。
「いいでしょう。でも後にしなさい。これから会議よ。それにあの腕を喰われた可哀そうな兵士の治療は終わっているの?」
「ですが殿下、いま付近を探したほうが……」
「わたくしの命令は絶対です。後にしなさい」
渋々、といった様子で口を噤んだ気配があった。皇女一行が元来た道へと戻っていく。十分離れたと考えられる時間が経ってから、エリシュカが口を開いた。
「誰ですか? わたしたちを追跡したくてたまらないというあの男」
「彼はルカ・スコーコフ。殿下の婚約者です。シルヴィア殿下と同じ趣味をもっています。彼のほうが殿下より冷酷ですけどね……。いまの職は皇族の護衛騎士のはずです」
下種な本性を隠し持つ男だ。しかし、エリシュカに詳しく語って聞かせる時間はない。
二人は騎士たちがやってくる前に、急いでそこを離れた。
「いやぁ、見てたよ。早々魔性に出くわしてしまうとは災難だったねえ」
貴族の部屋を訪ねると、ヴィクトル・レンバッハが出迎えた。
「まさか本人が……という顔をしているね」
「そりゃ当たり前ですよ。まさか、ねえ……。城の警備がざるになっているなんて」
「君がいたころは厳しくて入れなかったんだがね、今はそうでもないってことさあ。紹介しとくよ、こいつはレナ。こう見えても医師さ。専門は性病だけどな」
派手なドレスを着崩した妖艶な美女がこちらに向かって微笑みかけてくる。
エリシュカが不思議そうな顔をしていたので、唇に人差し指をあててみせ黙らせておく。
表向きは後援となっている貴族に城の部屋を買い与えられた大娼婦といったところだろう。城の居住権は高い値段で貴族に販売されている。レナの立ち振る舞いからして、もしかしたら貴族の娘くらいの地位は持っているのかもしれない。
クランツは細かな事情に興味はないので訊ねない。城の乱れた話に疎そうなエリシュカにそのまま説明する気もない。
「さて、では計画を話し合おうか」
「待ってください、クランツさんはなぜあなたに従うのですか?」
エリシュカには事細かな説明はしていない。ただ一緒についてきて、血統魔法を示してくれとだけ伝えていた。
「従う? おかしなことを言うな、お嬢ちゃん。そこにいるクランツ君は、俺の命を救ってくれたのさ。だから俺はここにいる」
クランツの嫌そうな顔を、ヴィクトルは笑って流した。
ヴィクトルは遠い日の湖のことを話して聞かせた。ヴィクトルの代わりにクランツが湖に投げ込まれ、死ぬような目に遭ったこと。その後に偶然、ヴィクトルと再会して共闘する間柄になったこと。
「クランツもいろいろ大変だったんだぜ。なぁ、兄弟? シルヴィア殿下にこき使われて、いろいろ後ろ暗い仕事をさせられてさ。人殺しとか、ほらあの妖精姫が大好きな拷問とか手伝わされて、お前震えていたじゃねえか。夜眠れないって、殺した人間の呻く夢を見るって。今も一人で眠れねえのか? おお、かわいそうに」
「やめろ、ヴィクトル。その話はここでする必要はない」
ヴィクトルは笑いながら、その目に凄味を湛えてクランツを睨んだ。
「ああん? 誰にモノ言ってんだ、てめぇ。この前からよぉ、気に食わねえんだよな。権力者の犬っころになりさがっちまって。奪われたものを取り返す気概、なくしちまったのかって思っちゃうよなぁ? 俺に味方するって決めたなら、その女、抱かせろよ」
一触即発の空気のなか、意外にもレナがヴィクトルを抑えた。
「指令、いまは内輪揉めしている場合じゃないでしょう? それに未来の君主様にここで悪印象をつけている場合じゃないですわ」
「そういえばそうだな。ありがとう、レナ」
ヴィクトルは剣呑な空気を引っ込めた。不気味なほど朗らかな笑顔を浮かべている。
「ただ、俺の話も聞いてくれよ。俺の美しい顔の、このひどい火傷痕! シルヴィア殿下の仕業だ。あいつは拷問して喜んでいた。人間じゃない。とんでもない怪物だ。この俺が殺す」
「…………」
クランツは表情を動かさず無言を貫いた。
エリシュカだけが反応した。
「事情はわかりました。いまの皇帝に不満を抱いているのもよくわかりました」
エリシュカはそう言ったきり質問することはなかった。
計画を打ち合わせて、解散した。
隣室をあてがわれて、クランツとエリシュカはそこに滞在することになった。城は以前から高額で貴族向けに部屋貸しをしている。そこに二部屋をとっている以上、ヴィクトルは貴族の支援を相応に受けているということだ。わざわざ隣室に泊めたということはこちらの声が聞こえるもしくは、見える仕様にしているかもしれないということだ。同室に押し込まれたからといって、別にエリシュカと仲が良さそうな演技をしないといけないわけではないが、大事な話はできない。
説明しなければならないほど、エリシュカは察しが悪くない。話をしたいのなら寝台の中で小声だ。手招きされて、クランツはそばに寄った。寝ころんだエリシュカはすでにネグリジェに着替えている。同じ小屋の中で生活したとはいえ、エリシュカの薄着の姿を見るのは初めてだった。
「本当は、城に上がる前の宿で……わたし、クランツさんを待っていたんです」
「……ん? んん、それはどういう意味で?」
「どういう意味だと思いますか?」
エリシュカの目は透き通っていた。
クランツは答えず、片手の甲を己の頬に当てた。熱くはない。
「ひとつだけ教えてほしいんです。わたしとシルヴィア殿下、どちらを取りますか?」
「それは……」
てっきり過去のことを聞かれるかもしれないと考えていた。クランツの動揺を察したエリシュカが、補足した。
「クランツさんが話したくないことは訊ねません。わたしは過去のことなんて気にしないです。わたしが知っているクランツさんは残酷な仕打ちを受けても立ち直れる強い人で、わたしのことをよく考えてくれているってだけ。わたしにとってクランツさんは、新しい世界へと連れて行ってくれるひとだから」
「……俺はそんなに善良ではないかもしれないですよ」
「人間が善良だという話は嘘です。わたしはよく知っています。人間が結託するのは利害が一致する場合のみ。ただ、わたしはクランツさんどんな人でも好きなんです。好きになってしまったら、もう……。もうなんだってよくなるじゃないですか……」
言い終えて、わずか数秒でエリシュカの頬が染まった。
「エリシュカさんに命を救われてこんなことを言うのは心苦しいですが、俺なんかよりいい人はたくさんいますから考えなおしたほうがいいです」
「あー! やー! 恥ずかしい!」
エリシュカは何も聞いていなかった。寝具に頭を押し付けて意味もなく叫んでいる。苦笑を誘う光景だった。
クランツは柔らかな髪に手を伸ばし撫でた。
「好意はとても嬉しいです。でも、あなたは光の下へ行ける人だ。これまで不遇だったとしても、これからは自分の意志ひとつでなんでもできる世界へいける。俺といていい人間ではないです」
クランツがエリシュカを好ましく感じているのは本心だ。シルヴィアさえいなければ、エリシュカを望んでいただろう。一緒に歩みたいと思っていたはずだ。エリシュカは頭の回転も悪くない。一緒にいて心地いい。怪我の介護をしてくれるくらい優しい。そういう穏やかな人と巡り合い、惹かれあうのは人生で何回くらいあるのだろう。クランツの人生に光を与えてくれるのは、後にも先にもエリシュカだけかもしれない。人と人の巡り合いは奇跡。エリシュカはこの世界に一人だけ。それは理解している。
ただクランツは諦めが悪いだけ。ずっと追い続けてきた光を、追うのをやめたくない。
「……ひどい苦労までして、わたしじゃないほうを選ぶんですか? わたしじゃ、だめですか?」
「ええ、俺は生涯をかける覚悟です」
「そう、ですか……。わかりました。じゃあ、そばに来ないでください!」
エリシュカはクランツを押し出した。頭を撫でるのも終わりだ。もうクランツからエリシュカに触れることはない。エリシュカがクランツに抱いていた期待もきっと時間の経過とともに萎んでいく。
「エリシュカさん、何も訊ねないでくれて、ありがとう」
「……わたしのほうこそ、感謝しています。クランツさんに出会わなければわたしはあそこでずっと耐えていただけだっただから」
エリシュカはそう言って、笑ってみせた。




