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24 密通と掴みかけの星

 城下町は沈鬱な霧に包まれていた。氷点下五十度近いと、生活の中で発生する蒸気すべてが凍り付き街を覆う。


 夜になれば雪はほとんどの音を吸収し、わずかに開いている酒場から明るい声が響いてくるだけになる。静かな街路を、鞄をさげたエリシュカを連れて歩き、一軒の酒場に入った。


 室内は煙くさい。香辛料の匂いもする。歓声と悲鳴。若者たちが赤らんだ顔で笑いながら歌っている。そのそばを通り抜けて、狭苦しい階段を昇ると、賭博台の置かれた薄暗い部屋に行き当たる。数人の男たちが賭博台を囲み、ゲームに興じるそばのテーブルに座る男がいた。頭の右半分を刺青が覆った、独特な雰囲気を纏う男だ。クランツは迷わずその男に話しかける。


「ヴィクトル・レンバッハ」


「おう、弟よ。久しぶりじゃないか。あんた大変だったみたいだな」


 クランツの呼びかけに、刺青男は顔をあげて応えた。頭を丸めた若い男だ。刺青のほうが目立つが右の目は白濁し盲いている。

 その男が読んでいた新聞には大きな字で、リトヴァク第二皇子行方不明の文字が躍っていた。クランツはその新聞記事がシルヴィアの幽閉の禁を解くことにも触れているのを知っていた。


「手紙でもいった。取引の話だ」


「ようやっとその気になったか。いいぜ、準備はできてる」


「紹介する。彼女はエリシュカ、あなたたちの旗頭になるだろう」


「初めまして。……よろしくお願いします」


 ここまで戸惑った顔でついてきたエリシュカは、やや遠慮がちに男と握手した。


「彼女をよろしくお願いします」


 ヴィクトルは不気味な笑いをもらし、給仕の女を呼んだ。呼びつけた給仕に、エリシュカを連れていかせようとしている。エリシュカとクランツの視線が一秒にも満たない刹那、交錯し、エリシュカの表情が突然歪んだ。


「クランツさん、わたし、やっぱり嫌です」


「え?」


「一緒じゃなきゃ、嫌です」


 クランツは戸惑ったが、感情を表に出さぬように口を引き結んだ。

 泣き出したエリシュカに、給仕は突っ立ってヴィクトルを窺っている。


「おいおい、話はついてたんじゃねえのかよ」


 エリシュカはヴィクトルに向けて嫌々するように首を振り、クランツを見つめた。


「お願いです、わたしを箱に詰めないでください……。一緒がいいです。一緒に行きたいです」


 クランツは少し息を吐いて、エリシュカの手をとった。


「ヴィクトル、手紙ではお話しましたが変更してもいいですか?」


「お前……こういう取引に二言はねえだろ」


 椅子を蹴る音がした。賭博台に群がっていた客たちがクランツたちに銃を向けていた。

 エリシュカが息を呑み、後退した。


「おろせ」


 煙たそうにヴィクトルが手をはらってみせると、銃をおろし、客たちは元通りの位置に戻る。室内はさきほどとは打って変わり、空気が張り詰めていた。


「お前は弟だから助かった。弟じゃなきゃ穴だらけになってかもな」


 エリシュカの手が震えている。クランツはそっと握りこんだ。


「わかっています、ヴィクトル。ありがとうございます。……少しだけ計画変更するだけです。俺がエリシュカを連れて城にあがります。そのあとは同じです」


「じゃあ、俺も好き勝手やらせてもらうぜ。逃げんなよ? 逃げても地の果てまで追いかけてやるからな」


「逃げません。性悪女がくたばる前に伝えないといけないことがあるので会いにいかないといけないですから。今日のところはエリシュカを連れて帰ります。城で会いましょう」


 エリシュカから先に退室させようとする。その背中にヴィクトルの声がかかった。


「助言してやる。お前のご主人様は危険だ。最高潮に危険だ。行方不明って話は嘘だな。このあたりのやつは勘づいているやつも多い。城の人間が減っているみてえだ。追い出されているのも少しいる。まあなんか変だ。その悪名名高きご主人様が実権を振るっていらっしゃる。臭い、とっても臭い」


「まあ……皇帝は以前から酒と女ばかりでしたので」


「ああ、そうだな。クソ皇帝。権力者なんてクソだ。ああ、ついに俺らの悲願が達成される。まさか生きているうちに裏切りの家系の滅びを見届けられるとは。興奮するな」


 ヴィクトルは笑い、タバコに火をつけた。


「気をつけろよ。急いでいるときにあんたが道に急に飛び出してきたら、勢い殺せなくて刺しちゃうかもしれねえ。用が済んだらぐずぐずしてねえで、俺の目が届かないところに行けよ。弟を殺したくねえ」


「わかっていますよ」


「じゃあ、とっととここから消えるんだな」


 タバコの煙を吐きかけられる。

 周りにいた賭博台の客や給仕たちが、クランツを揃ったように見た。冷ややかな視線。クランツはおべっかのために笑うことすらせず、勧められたまま踵を返した。



 宿に戻る。エリシュカとは別の部屋だ。別れて部屋に入る前に、エリシュカは立ち止まってクランツに頭を下げた。


「あの、ありがとうございました……。わたしの意志を尊重してくれて。あの場では無視することもできたのに」


「そんなことしません。それじゃあ、今まであなたにひどい仕打ちをした人間と俺が一緒みたいじゃないですか」


 エリシュカは安堵に表情を緩めた。




 部屋に戻ると、温かな暖炉の前でオデットが足を伸ばして座っていた。毛の長い絨毯を裸足で踏んでご満悦そうだ。


「エリシュカを連れて帰ってきたの?」


 生の果物を皮ごとかじりながら、オデットはそう訊ねてくる。クランツは外套を脱ぎ、楽な服装に着替えてから寝台に潜った。なにも食べる気が起きない。


「嫌だってさ」


「ふうん、自分の主張ができるようになったのねぇ。成長ねぇ。懐かれてうれしい?」


「考えものだな。俺は誰かを救うような高潔さとか持ち合わせてないから期待されても重いだけだ」


「じゃあ押し倒して、とりあえず言うこと聞かせとけばぁ? いま抱いておいて未来の女帝の寵愛を得ておくのぉ。得でしょ? 快楽も得られて、彼女を助ける理由もできて、ちょうどいいじゃなぁい」


「それは下種の考えだろ……」


 咀嚼音が聞こえる。


「自分が何も持っていないと思い込んでいる人間ほど、醜い欲望を持つでしょぉ? 一度も考えたことはないって言えるぅ? 不老不死の美少女に、つけこんでみたいって思わないのぉ? 優しくして依存させてぇ、自分だけを愛すようにぃ」


「……エリシュカさんはたしかに傷ついてはいるが、強い人だ。俺はそういう人が壊れるのを見たくない。それに俺は自分が奪われただけの人間だとも思っていない」


 オデットはいたずらっぽく笑った。


「まあ、あのモドキに不埒なことをする人間は首を刎ねてあげるけどぉ。あんたも例外じゃないわぁ」


「心配しなくてもいい。俺にはシルヴィア殿下がいるから。エリシュカは心が清らかだし、容姿も端麗、老いない、衰えない。愛でてよし、眺めてよし、仕えてよし、逸材だ。俺以外にもエリシュカの隣に立ちたがるやつはいる。エリシュカが選べばいい。より取り見取りだろう……」


 クランツはあくびをした。疲労が溜まっていた。


「あたしはシルヴィアもエリシュカも嫌いだけど……。もし、誰かががあんたに死なないでって縋り付いたらやめる?」


 クランツは寝返りをうった。火の粉が爆ぜる音だけが聞こえる。数秒の沈黙を挟み、息を大きく吐いた。


「死なない。死ぬつもりもない」


「シルヴィアと心中するつもりは?」


「……ない。誰があんな高貴なだけの人でなし女と。俺はまだまだ生きる。生き汚く足掻いて生きる」


 返事はなかった。


 会話は途切れる。


 無言で天井を眺めていたクランツは寝息が聞こえるのに気が付いた。目を瞑って考える。


 代々、リトヴァクは血で血を洗うような戦争が起きていた土地である。現在リトヴァクを治めるリェフは、アレクシア女帝の代でいうところの縁戚にあたり、アレクシア女帝の直系は何代か前の内戦で皆殺しにあった。


 国民の間ではリェフは本筋の皇家を裏切り、生き残った家系といわれている。リェフの残虐な性質を国民は知らないが、そうでなくても歴史的な事実からあまり好かれていない。

 リトヴァクの外の攻撃的な非政府組織のおかげで、国内の貴族たちは皇族の元に団結しているように表向きは見えるが、腹の内では皇族を畏怖し排除を願う輩は多い。非政府組織はそれらの反乱分子を利用し、国を浸食していた。


 歴史が動く大きな渦。これにクランツはエリシュカを巻き込むつもりだった。エリシュカの抱える秘密を白日の下に晒そうとしているのは、彼女に対しての善意が理由ではない。エリシュカを利用して、生涯、触れえぬと思っていた星に近づける予感がしたからだ。


 闇の中に薄い青い目の幻覚を見る。彼女は笑っている。焦げた匂いの中で、彼女は苦しみ悶える人間を嘲り、偏執的に痛めつける。クランツにとってシルヴィアは精神的苦痛の根源であり、罪悪の象徴であり、この手で摘み取りたいものである。


 端っこでも、目的へ近づく欠片を掴んだなら放すべきではない。

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