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2 水没

 腕も縄で固定されているので胴体の命綱を掴むこともできない。このまま引き上げられることもなかったらどうしよう。酸欠でもがき苦しみながら死ぬ。刹那の間にそんな想像が脳裏を駆け巡って、水中で意味もなく手足をがむしゃらに動かそうとした。


 もちろん縄で縛られた手足が自由になることはなかった。

 外気はマイナス二十度程度なのに対し、湖の水温はそれよりも高い。湖に落水だけならば血管の収縮や心臓の活動に支障を及ばすことはない。問題は外気に触れたとき。もし水中で無事だったとしても引き上げられたときに死ぬかもしれない。

 底へ近づけば近づくほど暗闇が濃くなる。怖い。ただひたすらに無への恐怖がある。酸素への強い渇望と肺の痛みのなか、あまりの恐怖を直視したくなくて意識は遠くなっていく。

 なにもない暗闇のなかで後悔が続々と浮かびあがって消えていく。

 すべては闇に飲まれた。


 目を覚ますと、あたりは光の世界だった。まぶしくてすべてがぼやけてみえる。


「かはっ」


 胸を強く押されて、水を吐き出す。口元が濡れるが全身が濡れ、勝手に震えているので気にしているような余裕はない。腕もあしも感覚がない。冷たいということはわかる。思うように動かすこともできない。

 濡れたままでいたらすぐに体は凍ってしまう。


「低体温症とか凍傷のたぐいの応急処置をするより温めるのが先です。このまま城に運びます。無理に体を動かそうとしなくて大丈夫だからね。耳は聞こえているよね。そのままじっとしていて」


 さきほど殿下との間に割って入ってくれた上級使用人の声だった。

 動かない肢体を数人が持ち上げる気配がした。担架に乗せられる。

 重くなっていくまぶたの隙間から灰色の空を見えた。

 生きている。死んでいない。

 ざまあみろ、シルヴィア皇女。

 声に出ていたかもしれない。

 城へと戻る道中、クランツはふたたび意識を失った。


 城の上級使用人専用の医務室の寝台をひとつもらい、処置を済ませ、温かな風呂にも入れてもらい数日経った。

 経過は順調で、手足の感覚は戻りつつある。皮膚感覚も戻るだろうとのことだった。

 ついでに使用人の仲間たちにやられた打撲も治療してもらった。


 ここ数日間、暇を持て余している。

 話しかけてくる使用人もいなければ、シルヴィアからの接触もない。二重窓の外は雪が積もっている。暖炉の火が点いているおかげで室内は温かく保たれている。静かな日々が続いていた。


 午前中は歩いたり体を動かしたりして、午後は世話人の持ってきてくれた本を読んでいる。日常に戻ってきて、ようやく死の恐怖と凍てついた感覚が消えてきたところだ。死――死ぬあるいは死んだという感覚。あの湖のことを思い出そうとすると落ち着かない気分になる。いまだに夢にみる。これからもこの悪夢を見続けることになるかもしれない。嫌な記憶ばかり増えていく。


 死は人間に必ず降りかかるもの。生きているかぎり、いつかは飲み込まれるもの。気が付かないだけでそいつは普段から傍らにいる。


 人間は諦めが肝心。人生にあるのは虚無と暗黒だけなのだと、孤児院の偏屈なおばあさんが言っていた。クランツはそのとき静かに話を聞いていたが、薄ら寒い負け犬の戯言だと思っていた。死が必ず終わりに待ち受けていたとしても、日々を絶望で塗りつぶして生きることに意味はない。かならず打ち勝つ。流されて生きる人生に意味はない。


 寝台の横に置かれたトレイに食器を戻そうとしたとき、ふと衝立の向こうに誰かが立つ微かな音が聞こえた。


「……誰ですか」


「謝りにきた。ごめん。殿下の愛玩している銀の鳥を逃がしてしまったのはオレだ」


 変声期を迎えていない若い男だった。同年代くらいに聞こえた。


「……あんたが」


 怒ろうかと一瞬考えた。

 王城では叩き上げの能力を持った使用人を育成するために、孤児院から素養のありそうな子供たちを引き取り養成している。衝立の向こうの少年も、自分と同じような身分かもしれない。それなら彼に当たっても無駄だ。


「謝りに来たのは勇気がある行動だと思う。俺があんたの立場なら絶対に会いに来ようとは思わなかったよ」


「許してほしい。殿下が怖くてしかたなかった。殿下は悪趣味をお持ちじゃないか。殺されてしまうと思った」


「わかるよ、とでも言ってほしいのか? 実際にあんたの代わりに氷の湖に投げ込まれた俺が?」


「ご、ごめん」


「俺はあんたを許さない。あんたがなにをしようとしても、だ」


「…………」


「誰にとっても命はひとつだ。覚えておけよ。でも同時に誰にだって間違いはあるから、いまはこれ以上は言わない。本当に悪いと思っているなら、俺が死にそうなとき、一回は助けてくれ」


「……ああ、約束するよ。それと……妖精には気をつけろ」


 衝立の向こう側の少年が出て行く。

 それと入れ違いに、医務室へと入ってくる足音があった。医師の足音ではない。今年七十になるという先生はもっと緩慢な足音をする。せわしない調子で歩いてきた足音は、衝立のところで止まる。

 クランツの表情が厳しくなる。


「誰ですか」


 そっと、彼女は姿を現すことで答えた。

 小綺麗なエプロンドレスを身に着けた女性だった。艶やかな黒髪を縦巻きにし、丸いフチの眼鏡をかけている。この周辺では珍しい、焼けた肌色をしている。背丈は高めでどこか甘い雰囲気のする見知らぬ使用人。近づくにつれて、彼女が頭になにかをつけていることに気が付く。


「ええっと、あんたがクランツ・レンバッハ? あたしはオデットというのだけどぉ。さるお方よりモノを預かってきたのぉ」


 許可も得ずにオデットは寝台の端に腰かけた。所持していた荷物をぞんざいな手つきでクランツのほうへと放る。

 用件よりも気になったのは、彼女の頭部についた黒光りする角だった。


「それ、頭についているのはなんですか? ギルモアの鉄の魔性……雪原探索機に似ていますね」


 よく見れば耳も動物らしい特徴をしている。ギルモアは人体改造について研究していたといわれ、一部の資料は書籍にまとめられている。クランツが孤児院にいたとき、孤児院にあったのでよく読んでいた。ギルモアの遺した資料はどれも眉唾モノとされていて庶民の娯楽だった。


 オデットはにやりと笑い、くねっと猫のポーズをとった。


「本物だと思うぅ? あたしが趣味で被っていると思うぅ?」

「趣味で」

「はずれぇ。血濡れ妖精の下僕が趣味でこぉんな恰好をしていたら、とんだ変態姫様って世論がうるさいでしょお」

「え。ほ、……本物の? それが本当のギルモアの民なら金属の尻尾もあるはずですよね」

「まぁ本物でも趣味でもなんでもいいのだけどぉ。尻尾があろうがなかろうが、あんたには見せないしぃ? それより、これ。うちのお姫様からぁ」


 オデットは再び放り出した手紙を読むように、爪ではじいた。とても姫君に仕えるとは思えない舐めた態度である。

 クランツはおとなしく従った。


『目覚めましたか? 命があってなによりです』


 一行目にそんなことが書いてあり、頭が痛んだ。吐き気もしてくる。せっかく豆と芋のスープを胃に収めたばかりなのに、食事を無駄にしそうだ。


「それでこれをお知らせするために殿下はわざわざ人を寄越してくださったのですか?」


 なぜか得意げにオデットは小箱に入った筆記用具も出してくる。


「返事も書けって言ってたよぉ」


「殿下から直接お手紙を頂けるなんて、この上ない名誉ですね。……返事は絶対書かないといけないんでしょうか」


「選択の自由があるって本気で思ってるのかなぁ?」


「この程度でも王族の命令に逆らったら殺されるのでしょうか。このような些末な命令違反に過大な罰をくだしていては殿下の評判に傷がつきませんか」


「そういうのって軽々しく口にしてはいけないと思うなぁ。あんたが推し量っていい問題じゃないでしょう? 天の上にいるようなお子様の考えをさぁ?」


 口調はともかくオデットはそう返答する。目線は自分の爪先。どうやら割れているらしい。

 筆記用具を手に取る。


「バカなやつが権力握ると下が苦労するんだよねぇ」


「不敬ですよ」


「はぁ? あたしは誰なんて一言も言ってないけどぉ。誰のことだと思ったのかなぁ?」


「……文章考えるんで黙っててください」


 余計なことを書かず、短い返答を心掛ける。字だって覚えたばかりなので汚い。おかしな筆記間違いをして不敬に問われることは避けたかった。なるべく日常会話を選ぶ。とりあえず無難に謝罪か、お礼。しかし、どうしても丁寧な文章は書きたくなかった。心が拒否していた。


『この間はありがとうございました』と端的に記す。


「はい、できました。これでいいですか? 短すぎてお咎めとかないですよね」


「殿下のお心など私ごときが推し量っていい問題じゃないしぃ」


「……オデットさんって字読めるんですか?」


「情報集積体が復活すれば読めるんだけどぉ」


 オデットは嘆息している。

 こんな乱暴で粗野で信頼できない使用人に手紙を運ぶ役割を与えられた理由はそれかと納得した。

 とりあえず短文でやりとりをしよう。気に食わなかったらもう接触はないだろう。

 体が痛いので休むことにする。今日はもう疲れた。


 外は雪が降り続けている。室内でリハビリを続ける。

 オデットはたびたび部屋を訪れた。殿下からの手紙を読ませて、それについての返事を書かせた。

 殿下とは数日の期間を挟み、短いやりとりを続けた。


『あなた、名前をなんと申すのですか?』

『クランツです』


 知っていたのでは、と思ったがそれをあえて指摘しなかった。殿下の代わりに誰かが名前を憶えていたのかもしれない。


『花の環っか? なぜそんな名前なの?』


『赤子のころに孤児院の軒先にフックで吊るされているのを、施設の大人たちが見つけて、まるで花飾りのようにぞんざいに引っ提げてあったねって。あと胸に花輪を抱いていたって』


『まあそれは。笑っていいのかしら』


『捨てたのはいたずら好きの妖精だろうと院長はおっしゃっていました。花が好きな妖精』

 自分で書いていて薄ら寒くなる話だ。花なんて嘘に決まっている。城にしか咲かない花を、赤子に持たせるわけがない。本当に持たされていたものがなんなのか、先生たちは教えてくれなかった。


 つぎにオデットが持ってきた手紙には『あげる』と一言。

 押し花が添えられてあった。


「……ふむ。あの妖精、とうとう頭に花が生えたか」


 困った。食べられないものをもらってしまった。処分に困る。孤児院では食べられないものや金にならないもの、体を温められないものはあまり喜ばれることはなかった。それは贅沢品だからだ。


「何その花」

「あっ、これは……。たいしたものじゃないです」


 慌ててクランツは押し花を本に戻した。他にやりようもないので、押し花は使用人用の図書館から借りてきてもらった薄い本に挟んでいた。手紙を書くふりをする。

 クランツが手紙を書いている間、オデットは厨房からとってきた菓子を盗み食いしていた。ためしにその菓子を一つもらおうと手を伸ばすと、オデットは歯を剝き出しに威嚇してきた。


「オデットさんはこの手紙を運ぶ仕事が好きですか?」


「手紙を運ぶときにねぇ、さぼれるし、厨房に寄れるし、最高よねぇ」


「じゃあすいません。殿下には手紙でオデットさんにすごく良くしてもらっているからって書くので、お願いをきいてくれませんか?」


「言ってみればぁ? 叶えるとは約束できないけどぉ」


「殿下に伝えてほしいことがあるんです。中庭で会いたいと」


「……ねえ、復讐したいの? 手伝ってあげようか?」


 クランツは目を瞬かせた。

 オデットは身を乗り出して、もう一度、繰り返した。


「殿下をちょっと脅してやろうよ。計画があるんだよぉ」


 明日には医務室から出て、仕事に戻ることを責任者と約束した。だから城にいられるのは今夜までだ。この上級使用人の医務室は本来は下級使用人がいていい医務室ではない。

 殿下と約束した日、クランツが向かったのは王宮の中庭だった。中庭には花壇があり、この凍土で花を育てるしくみとして温泉のお湯を配管で張り巡らせて土が凍らないようにしている。この帝国は氷雪地獄の中でもいちばん秩序立っていて、いちばん豊かな国である。その証左である。

 殿下は先にやってきて庭の花々をしゃがみこんで眺めていた。金色の髪が風に吹かれて揺れている。日傘を手にして花を愛でる姿はどこにでもいる少女のような素朴さがあった。

 クランツの姿に気が付いた殿下は微笑んだ。


「あはは、クランツ、一週間ぶりくらいかしら。お元気だった? もう手足は不自由なく動く?」


「はい、王宮の治療室に入れていただいたおかげです」


 口封じのために使用人棟の治療室に戻さなかったというのが事実だとは思う。


「ふふ、ところでクランツ、あなた何かわたくしに言いたいことがあるのだとか」


「ええ、殿下。申し上げたいことがあるのです」


 大きく息を吸い込む。


「殿下……。どうか、もう今後、悪評が流されるようなことは御身のためにもおやめになってください」


「拷問好きの皇女と呼ばれるような?」


「ええ、そうです。下々の者を苦しませるすべてです」


 束の間、二人の間には冷ややかな空気が流れた。


「……クランツ、あなたは自分を不幸だと思ったことはない? 生まれも不幸。生きていても不幸。運がない。そんなことを思ったことは?」


「恐れいりますが、殿下。……自分は不幸ではありません。優しい孤児院に育ててもらいましたし、城で雇っていただくこともできました。いまだって生還することができました。自分は絶対に不幸ではありません」


「……希望がある限り、絶望しないって言いたいのね? そんなの本のなかの空想の話だけじゃないの?」


「そうではありません、殿下。たとえ本当に生まれに不幸があっても、終わってしまったことを嘆いて未来を取りこぼすことのほうが不幸だと思います。だから自分はこれからの未来のためにいま絶望しないのです。嘆いて諦めて投げ出したりしないのです」


「知っていて? わたくし、あなたに無実の罪を着せて処刑の裁判にかけることもできるのよ」


「承知しております」


 そこで初めて、王女は微笑みを消す。少しだけつまらなさそうな気配。


「まあ、口先だけならなんとでも言えるものね」


「口先だけではございません。証明します。……お前なんかこうだ」


 そう言って、唐突にクランツは足元の泥を掬いあげて、ためらわず殿下に向かって投げつけた。

 白いドレスに泥が拡がった。

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