19 エリシュカの記憶
エリシュカの記憶が始まるのは、雪原である。上も下も白。境のない白に染まった世界を彼女はひとりきりで歩いていた。
たまたま調査隊が城へ向かうために通った際に、記憶を失って防寒着も着込まず彷徨っていた異常な少女を発見し救助する。
彼女を保護管理したのは、アクスという男だ。
「彼はわたしの体の異常さに誰より早く気が付き、自分の研究資料として保管するのにふさわしいと少し強引にわたしを引き取りました。アクスは当時、わたしがいましている研究の前身――魔法生命生体研究の室長をしていました。死なず飢えず果てない、生命から逸脱した体を、彼は研究資料として大切にしておくことにしました。言葉を教え文字を教え、わたしに人格が宿っているということに気が付いたアクスは、それを尊重しようとしてくれました。まずわたしを被験者として研究に紛れ込ませて、時が経ってから、彼の魔法の研究を付加した完成品とするつもりでした。魔法の産物……つまり人間が作った人造生命だと納得させられれば、この体も畏怖の対象にはならず、魔法局の中で限定的にでも生きることをゆるされるからです」
しかし、それは失敗する。
「失敗の原因は単純にアクスの研究ではわたしにたどり着かなかったからです。後にわかったのですが、わたしには幾億もの精巧な魔法がかけられています。この冬の国を維持するのに必要な魔法と同程度です。プライドが高く勉強ばかりしていたアクスは自身の才能を疑っていませんでした。ほとんどはじめての挫折を受け止めきれず、壊れました。精神的に未熟でした。魔術師はある種の選民思想を持ち、一般市民から隔離され魔術師専用の学び舎に入れられるので、今現在もあまり幼稚さが戒められない傾向にありますけど、よくないことだと思います」
エリシュカの手が自然と自身の首を抑えた。
「わたしはアクスの手によって殺されました。そして死から戻ったわたしの体をとても狭く暗いところへ閉じ込めました。裸で……人ではないもののようにして、それで殺して……」
エリシュカは体を丸めた。両手で自分の足を抱く。
「けれど、その記憶もぷっつりと途切れます。次に目覚めたときは、今使っている小屋のただ寒いなかで一人で寝かせられていました。周辺を歩き、どうにか人と会い、事情をきくと、アクスは死んでいました。死因は心臓麻痺、七十歳だったそうです。その計算だと、わたしがアクスと話していたのは三十年くらい前の話になります。わたしから話を聞いた当時の局長は、わたしをアクスの残した研究成果として扱うことにしました。皮肉ですよね……生きている間に、アクスは苦しんだのに死後認められるなんて」
「彼はエリシュカさんを……」
「ええ、たぶん愛していました。愛していたからこそ視野が狭まり、思うようにできないことにいら立ったのでしょう」
話は途切れた。
一呼吸以上の沈黙。
「エリシュカさんは彼のことは好きだったんですか」
「……見た目が人間だからって、思考や感情が人間じみていると限りませんよ。クランツさん。当時のわたしはまだ人間というものに慣れていませんでした。ただアクスのことをずっと不思議がっていました。どうして平穏に生きることが大事なんだろうって。わたしはアクスにひどいことをしたんです。わたしがちゃんと気持ちに応えてあげられていたら、苦しみを和らげてあげることができたのにっていまは思います」
「エリシュカさんがそこまで自己犠牲をする必要はないと思います」
「いいえ、ほかにもまだあるんです。そこから小屋を居住として与えられて、アクスの研究を引き継ぎやることになってから人を殺しかけました。わたしの魔法のせいです。わたしも何度も殺されて嫌だってこと、わかっていたのに。人を傷つけるのは絶対にだめだって、わかっていたのに。どうしてか殺したいって思って止められなかったんです。雪の夜の日にわざと寮を追い出された人がいて、死ぬような仕打ちをした人たちに怒って……」
「人のために怒れるのは優しい証拠です。そういう状況なら俺も怒ります。殺せる力があるのなら殺してしまいたくなるかもしれません」
エリシュカは首を振った。目はクランツのほうではなく、ただ遠くを見ていた。
「だからもう、魔法は人のいるところでは使わないようにしています。わたしは、ただのお人形。命に見えるものを与えられた人形。人間ではない。だからクランツさんも、わたしのことをそう扱う必要なんてないです。都合よく利用して、危険になったら切り捨てればいい。人間の命はかけがえがないけれど、わたしの命は無限にあるから」
「エリシュカさんは人間です」
クランツが断言すると、エリシュカは曖昧にほほ笑んだ。それはこれ以上の対話を拒むという笑みだった。
二夜目は吹雪にあった。
三日目は視界は開けているものの、氷山が邪魔をして迂回せざるを得なかった。
「あともう少しなのに。急がないと追いつかれてしまうかもしれない。ああ……どうしよう……」
「エリシュカさん、落ち着いてください」
吹雪のなかそりを止めた。犬たちは丸まっている。城の姿は確認できない。方位磁石と地図を交互に眺めてエリシュカは難しい顔をしている。
「今日は諦めましょう。ほらお茶でも飲めば落ち着くかも」
「嫌です」
クランツは休息をすすめたが、彼女はがんとして受け入れない。
雪原のただ中で立ち往生はそうとうな恐怖だ。エリシュカの焦燥は共感するに値する。しかし彼女の慌てた様が、時間が経っても変わる様子はなくクランツも頭にきた。
「寒すぎると錯乱する場合がある。だから温まれと言っているのに」
「……クランツさんは危機感が足りません」
「エリシュカさんこそ頑固すぎる。休むときは休まないと……。飢えたら血を飲みたくなるかもしれないし、元気は温存しておいてほしいです」
「もしかして飲みたいんですか!」
エリシュカの顔が輝いた。
「飲みたくない! 顔を輝かせるな! 飲まざるをえないときには飲まないといけないっていうか……。それはいいから。今日は休もう」
茶を飲み、二人一緒に眠る。
距離から考えるとすれば明日には城に着くだろう。待ち受けるものはシルヴィア殿下への救済となるものか否か。
「眠れませんか?」
「すこし」
「子守唄でも歌いますか?」
「いやいやそういう柄じゃないだろ?」
「うーん。子供をあやした経験がないのでなにをしたらいいか迷いますね」
「子供子供って……。どうして優しくしてくれるのかずっと疑問だったんですが、子供扱いしてたんですか」
「癪に障りますか」
「リトヴァクの法律では成人しています」
「わたしからみたらだいたいの人が子供です」
「そうでしょうね。それを引き合いに出せば人は勝てませんから」
「だから安心してわたしに守られてください」
ぎゅっとエリシュカがクランツを抱きしめた。かさばる防寒着の上から抱きしめられてクランツの息が止まる。腕が自由だったならば、抱き返したはずだった。自由な腕のないクランツは抱き返すこともできないので、エリシュカはゆっくり離れていく。
親しい相手との別離を意識した抱擁だ。名残惜しいとは思わなかった。ただエリシュカにそうさせたのが自分であることが苦しかった。
このあとは黙って眠った。
猫の鳴く声がする。遥か下の、流氷が割れる音だ。最初はそう思った。寝惚け眼でエリシュカの姿を探す。テントの中には誰もおらず、薄く開いた入り口から寒い風が侵入していた。クランツは這うようにして、テントから出て、あたりを見回してみる。
ここは安全だという思い込みがあった。
油断していた。
「逃げてっ」
雪の上にのたうち回った血の痕跡、そして膝をつくエリシュカがいた。
相対しているのは魔性である。黒い体表、口の周りに短い手足、むっちりとした脂肪をたくわえる長い胴――成体の魔性。そいつはエリシュカの声を賢く聞き分けて、クランツに気が付いた。
クランツは咄嗟に体を横へと逸らす。
そこへ魔性が俊敏な雪崩のように全体重をかけて飛び込んでくる。転がることで初撃は避けたが、あとが続かない。
魔性がさらに長い胴を機敏にくねらせてクランツを弾いた。
「うわっ」
体の均衡が完全に崩れ、氷の上に投げ出される。冷たい。痛い。顔面が涙と血でぐちゃぐちゃになる。それでも顔を必死にあげて、魔性の動きを視線で追った。
魔性はクランツをあとでどうにでもできる餌と認識したらしく興味を失い、ふたたびエリシュカに狙いを定めていた。ゆらゆらと大きくうねりながら体を浮かせて、エリシュカに覆いかぶさり食らおうとしている。
エリシュカは失血しすぎているようだ。顔色が土気色に近く、視線がどこかうつろで、腹を抑えたまま動かない。
彼女は人間ではないので死なないと自称する。けれど、次にそうなったとき、本当に死なないかどうかはわからない。信じられない。死なせないたくない。失いたくない。傷つけるべきじゃない。
「――猫!」
絶叫する。
「猫!」
何度声をかけても反応がない。半ば予想はしていたことだった。もうクランツは猫が守護する者ではなくなってしまった。
「クソ猫ッ!」
奇跡は起きない。
エリシュカが肩で息をしている。あとどれくらい保つのか。完全に死んでから蘇生するのかもしれないし、少し休めば回復するのかもしれない。
雪に覆われた地上から、黒い魔性が伸びている。影が大きくクランツのほうに被さっている。
奇跡が起きないなら、限界まで努力するしかない。クランツは魔性に自らにじりよった。クランツを食べているうちにエリシュカがどうにかして蘇生して逃げてくれたらと思った。
あまり頻繁ではないが、魔性は共食いもする。
クランツが死ににくいのは魔性に感染しているからだが、それは創傷に対してのみの回復力だ。食いちぎられて回復するかわからないし、丸呑みされればそれで終わりかもしれない。万が一、回復してもそのころには自分も魔性になっているかもしれない。
ここで終わりかもしれないという予感と、やらないといけないという義務感に急き立てられて、心拍数が急上昇する。自分の思考が、記憶が、情念が、失われてしまうことは耐え難い。持って生まれた知能や知性を自ら手放すのは勇気がいる。本能的に人格が変質するのを恐れる。無に還るのを恐れる。――それでも。
「やらなきゃならないんだよぉぉおお――!」
願いに応えるように影が急速に近づき、耳元で硬いものが潰れる音がした。
視界が暗闇に染まる。
魔性がクランツを丸呑みした。