16 拷問
目覚めると両手足が拘束され、視界は布で覆われていた。
幼いころに殿下とこれに近い遊びをしたことがあると記憶している。そのときは湖に放り込まれて、以来、深く底の見えない水というものが嫌いになった。
左手の感覚が元に戻っている。体の引き攣りが全体的に消えていた。
「ここは……」
頬に当たる冷たい床の感触。ここが室内であることは間違いない。床に触れていないほうの頬になにかが触れた。
温かな人の指先。手の形状、指の細さ。薬草のにおい。見ないでもわかる。
「エリシュカさん、おはよう……」
「おはようございます、クランツさん。覚えていますか? 自分のしたこと」
手が動き、髪を撫でる。血が付着して毛先が束になっている。汚れているのにも関わらず、エリシュカは優しい繊細な動きで触れる。
「なんでエリシュカさん、生きているんですか……?」
「わたしは人間じゃないので。時間経過で元の形状を取り戻します」
「……痛くないんですか」
「死ぬときのことはあまり覚えていません。それより、軽蔑しますか? あなたを守らなかったこと。あなたが怪我しなければ、魔性化はもっと遅かったかもしれない。死んでも蘇る体なら、……あのとき魔性に手を喰わせるのを私がやればよかった……」
エリシュカはずっとそれを気に病んでいたのだ。
同時にほかの研究者たちがエリシュカのことを蔑ろにしていた発言も腑に落ちた。彼らは知っていた。知っていて、エリシュカが本気でどうなってもいいと思っていたのだ。
奥深くから、激情がわいてくる。それは怒りだった。
「俺はエリシュカさんが傷つくのを見たくなかったし、いまも生きてくれていて良かったと思っています。そういう体でも自我があるなら自己保全に努めるのはふつうですし、それより他の研究者からわがままな仕事を頼まれても断らなかった理由でそれなんですか? それともほかになにか理由があるんですか?」
「……わたしが悪いの」
「自分が悪いという考えをよしてください。エリシュカさんが自分の体質を不安に感じているから、自信のない挙動をしてしまうんですよね。わかりました。ほかの研究者、誰がいなくなったらエリシュカさんの居心地のいい場所になりますか?」
クランツが城で孤児の使用人――しかも姫君のお気に入り――としておもちゃにされていたころに、今のエリシュカと同じことを言い出したら、数年のうちに自殺か他殺かで死んでいたに違いない。人から不当な扱いを受ける原因を自分が悪いと断定して、そこで諦めてしまえば、人を人とも思わぬ扱いは続く。永遠に変わらない。やめさせるには声をあげるしかない。
「何を考えているんですか……?」
「昔から弱きを助け悪を挫くべしって決めているんですよね。エリシュカさんを見てイライラしている理由。もっと自分に自信を持て生きてほしいです。どうせ俺、魔性として人を喰ったし、処分されるのはわかっているし。オデットがここを離れている間しか自由にできません。この拘束を解いてください」
「落ち着いてください。あなたはいま……」
身を起こそうとすると、その肩を押す手があった。
「動くな」
アダム・ベロフの声だった。
冷や水を浴びせられたかのように怒りが静まった。代わりに耳をすます。数人の息遣いと衣擦れがかすかに聞こえる。床はとても冷たく、どうやら暖房は焚かれていない。空気は埃くさい。よって地下か倉庫に類するものと推測する。どんなに考えてみてもここで拘束されていることに、あまりよい想像はできなかった。
「ああ、お久しぶりです。……局長は」
「ここにはいない」
「俺のこと、野に返すつもりですか?」
「まさか。こうして話をもう一度できるとは思っていなかった。昼間は人間で、夜は魔性か。奇妙な人だ」
「ゾーヤと同じことをするつもりですね」
「そんなに残虐なことはしない」
アダム・ベロフは感情のない声で話す。
心臓が早鐘のように打ちはじめる。彼は本当に人間なのだろうか。人間ではないというエリシュカより、人間らしさがうかがえない。いますぐ叫んで彼の心を揺さぶれるならそうしている。そうしないのは裏目に出ることが予想できるからだ。
長期間に及ぶ囚われの身になったら、敵対者に感情移入させろという教育を城で受けた。できる気がしない。冷静になれない。
金属の蝶番の音が聞こえた。
さらに人が入ってくる気配。なにか鈍重なものを床に置く。
金属がぶつかりあう音がした。
エリシュカが動く気配がした。
「やめてください、アダム・ベロフ。お願いです。非人道的なことはやめて。こんなのは間違っています、中止してください」
エリシュカが嗚咽しながらアダム・ベロフに向かって騒いでいる。
「抑えていろ。向こうへ連れていけ」
「きゃっ。うぅ、うっ、やめ……やめてください。絶対助けます、助けますから……。諦めないでください。わたしも諦めませんから!」
空気の流れが止まる。
ドアが閉じられる。
「さあ、始めようか」
腕を掴まれて注射を打たれる。腕に機械を繋がれ、台に体を乗せられる。衣服を裁断される。
緊張から全身がこわばっている。
「おそらく術中に問題があっても、蘇生するだろうと思う。血圧や出血程度で魔性は死なない。だから安心するといい」
「殺してやる」
心の声が荒い呼吸とともに漏れた。
麻酔の効果も確認されないまま、消毒した皮膚に刃が押し付けられる。刃が肌の上をすべる。
「痛い」
いよいよ耐えきれなくなって、クランツが悲鳴をあげた。
「やめてほしい。俺がなにをしたっていうんだ……! もう許してくれ」
「静かにしろ」
「刃を潜り込ませたそばから、傷が回復する」
それは拷問だった。魔性化の影響により体質が変わっているらしく、麻酔の効き目が薄い。絶叫し懇願しても止められることはない。解剖の方法として、まったく正しくない。こんなものは生命を弄んでいるだけでなんの謎の解明でもない。死にかけてまた目が覚めるを何度も繰り返す。これではただ残虐な方法で魔性の回復力が人間の体でも適用されているのか調べているだけだ。
何度も切り刻まれて、気が狂いそうだった。
「魔性化で人間を喰ったからなのか? 腕も回復している。また切ってみるか」
暴れても変わらない。ただ抑えつけられて、疲労して力が弱まったころに拷問が再開される。
心が折れるのは早かった。いつしかただ従順に台に寝転がるだけの生き物になっていた。思考や感情を放棄していた。
拷問は何時間かにわけて行われた。なにせアダム・ベロフは五人いる。休みなく作業することが可能だった。採血をし体を切り開き組織を採取し、あるいは臓器を破損させ様子を見る。
昼か夜なのかもわからない。定期的に鎮静物質を投与されているようだが、かすかに感覚が遠いという程度で入眠に至ることはなかった。終わりの見えない苦痛が狂気を呼び込む。幻覚が見えた。シルヴィアが傍らにいるように感じた。苦しむ様を楽しそうに眺め、記憶にあることやないことを言って消え去る。せん妄症状。
何度も切り刻まれ、あるときから魔性化した際の食事の影響が薄れ始めたのか回復力が衰えはじめた。
「ああ怖いな。魔性というものは恐ろしい病だ」
「…………」
「我々は不思議なんだよ……。なぜアレクシア女帝が魔性なんてものを遺したのか。知っているかね? 彼女は空に浮かぶ船でこの地へ降りて、人間を作ったそうだ。そして人間に必要な生き物をこの地へと放したらしい」
「…………」
「……我々研究者しか見ることができない資料があるのだよ。ギルモアから引き継いだ資料がね。まあ、もう、君は見つけることもなにもできないだろうけれど……」
「…………」
「女帝は魔性化という病を根絶させるために新天地へ移動したのか、どういった背景でどういう文化でこの地へ至ったのかわからない。それを知るために手がかりが魔性にはあると思っている」
魔性の研究は禁忌である。魔性に触れるのも同じくゆるされない。ゆえにシルヴィア殿下は塔へと幽閉、貴人としての罰を受けている。
いかに魔法管理局の局員であっても、優れた研究者であろうと、絶対に侵してはならない一線。アダム・ベロフはそれを逸脱した。エリシュカという証言者もいる。エリシュカが証言者として認められるのかわからないが、局長に訴え出ることは可能だろう。もう少し耐えれば誰かが助けてくれる。
「魔性についての研究には局長の許可がいる。表向きは危険だから許可は与えられないとされている。だが禁忌を犯してこそ、新しい発見があるかもしれないと思わないか?」
口元には轡が噛まされている。舌を自ら噛まないように。なにも言えない。
満身創痍だ。腕を失っている。荒い処置でもがれたが、雑な縫い方でも死には至らない。思考も体も滅茶苦茶だった。もしこの場でアダム・ベロフをいいようにできるならば、この世界にありとあらゆる拷問にかけ苦しみを与えて殺したい。八つ裂きにし、引きずりまわし、湖におもりをつけて落とし、炎のなかに落とす。焼けて悶え苦しみ死に至るのを笑いながら見てやろう。
ずっとそんなことを考え過ごしていた。