15 魔性化
無情なほど何もないまま日々は過ぎた。発熱と痛みがひどく、ロクに起き上がれない日もあった。日付感覚が狂っていく。身を起こすことが苦ではない日には殿下へと送らなければならない書簡をしたためた。鏡で毎日見る自分の顔色は土気色に近い。このまま死ぬのではないかと想像して暗澹たる気分で一日を過ごす。
エリシュカは毎日欠かさずに様子を見に来る。
オデットは手紙を送り届けるために魔法局を離れている。
「そういえばゾーヤが行方不明なんですよ。魔性を引き入れていたことを追求されるのがそんなに嫌だったんですね」
温かい湯で絞ったタオルで体を拭き、体温を測り、血圧を測り、食事を摂らせ、毎日の健康を記録する。鎮痛剤などを複数飲ませられる。伝え聞いたところによると医者は管理局に出入りしているらしいが、クランツが魔性に感染しているため直接は会わせられないらしい。
「…………一人にしてください」
窓からは雪ばかりの風景しか見えない。
盆に乗った食器も見ずにそう言う。エリシュカは寝台の横の椅子に腰かけた。
「一人にしたらまたご飯食べないでしょう。ご飯食べさせたら出て行きますから、我慢してください」
「嫌です。いりません。いますぐ出て行ってほしい。毎日来るのだって鬱陶しい」
「もし私が来なくなったらクランツさん一人でどうするんですか」
「一人でだってできます。時間がかかってもやります」
「また強がっちゃって。もしかして、わたしに仕事をさせるのが申し訳なくてそう言っているんですか? なら安心してください。クランツさんのこと重荷になんて思ってないです。だって人の役に立てるのは好きですから」
クランツはエリシュカのほうを振り返った。
「頭ぽやぽやしすぎだろ。善人ぶって、そうやってまた雑事を背負いこんで。面倒事を押し付けられて。自分に対しての言い訳か? この腕だってもとはと言えば……」
そこでエリシュカの表情が変わったのを見て、クランツは言葉を引っ込めた。
場に気まずい沈黙がおちる。
世間話のような会話ですら煩わしく、エリシュカに当たってしまうようになっていた。怪我した当時はエリシュカに対して怒りはそれほどなかったはずなのに、毎日鬱屈を抱えてやり場のない感情が思ってもないことを言わせる。
「大丈夫ですよ。わたしをなじりたければ、なじればいい。体の痛みなら引きますから怖がらないで。大丈夫。義手も用意します」
エリシュカは立ち上がってそっとクランツの頭を抱いた。母親のように髪をなでる。肩を押して拒絶したが、エリシュカは微笑むだけだった。
「怖くないのか?」
「なにが?」
「俺は魔性に変じる途中の得体の知れない病人だろう?」
「べつに。だって、いまは、あなたは人間だし魔性化を気にするほどでもない。それより本人であるクランツさんのほうがまだ若いし、受け止めきれないことがいっぱいで混乱しているでしょう。最初に来たときから、そういう対応をしてあげるべきでした。気づかなくてごめんなさい」
「子供扱いするなよ」
「あなたはまだ子供です。たとえ城で皇族の従者として訓練を受けていても」
いつの間にか、エリシュカの横に金色の猫が現れていた。エリシュカはごく自然にその猫を撫でた。ごろごろと猫は喉を鳴らす。目のない猫が、クランツを見て何かを言いたげにしている。
猫の訴えの内容がわかったのは夜半だった。
暗殺者が忍び込んでき。魔法管理局へ来る道中、襲ってきた者たち。目つきに見覚えがあった。
彼らが迷いなく治療室まで来たことを考えると内部の協力者がいるのは間違いない。
クランツは応戦しようとしたが、猫が反応しなかった。
刃で貫かれて体が痙攣する。何度も貫かれる。悲鳴が漏れる。体験したことのない痛みだった。血と胆汁が飛散し、動く力もない。
壮絶な苦しみで暗殺者が刃を振りかざすだけの動作が緩慢に感じられた。
朝になってクランツの遺体を発見するのはおそらくエリシュカだ。
彼女を驚かせてしまうが、これで良かったのかもしれないと頭の隅では冷静に考えていた。魔性になってエリシュカを捕食せず、オデットが手を汚すこともなく、第三者の手で終わらせることができたならそれは幸運だ。妙なことに、安堵していた。
視界は闇に閉ざされる。
それで終わりだと思っていたのに、悪夢は続いた。
誰かの悲鳴が途切れる。骨を押しつぶし、破裂させ、飛び散るそれを啜る音。温かな粘液に塗れそれを貪る。
室内は噎せ返るような血の匂いに満たされている。
悲鳴。暗闇の中、必死に生き延びようと惑いながら動くものに食らいつく。たったのひとかみで、皮が削げ、血が噴き出す。活きがいい獲物は楽しくさえずって踊りだす。腕を千切っては踊り、足を千切っては踊る。不格好な踊りはひどく食欲を誘った。千切った手足を咀嚼し嚥下する。丸呑み。美味しい肉で腹を満たす。内側から元気になる。食事は快楽。ずっと押し殺してきた本性が、息を吹き返す。この姿になってみてわかる。はじめから人間の被り物なんて窮屈なだけだった。やはり魔性は魔性らしく生きたほうがいい。
顔いっぱいに開く口と、退行し獲物を掴むだけの手と長い胴。不格好ないもむしのような生き物。目はついていないが触覚が過敏で視えるし聞こえるし触れる。こんな自由な体をどうして今まで忌避していたのか。わからない。力が漲っている。全能感がある。
興奮と喜びに身を委ねて夢中で貪っていた。
「クランツさんっ!」
息を切らせたエリシュカが治療室の扉を開けるまでは。
来るなと叫んだつもりだった。
声は出ない。発声器官がない。
意識とは裏腹に、魔性の体は機敏に反応する。動く生き物はすべて食べる。
「きゃっ……」
吐息のようなエリシュカの悲鳴。
エリシュカの小さな頭を、魔性の口はすっぽりと包んで、かみ砕いた。