14 無力
目覚めてすぐ、黒目に近距離で覗かれていた。黒髪黒目のメイド服。片手にはどこかつまんできたのか、赤い小さなかぶ。なぜか彼女はそれを丸ごとかじっていた。
窓の外は暗い。どうやらエリシュカと話していたのは十時間以上前のことらしい。
「指令決行はいつにするのぉ?」
「オデット……お前、離れろ。心臓が止まったかと思った」
部屋のなかを見回す。エリシュカとのあの会話のあと、彼女がどんな様子で帰ったか気になる。
「エリシュカという女と一緒に暮らしているらしいけど、お姫ちゃま殿下から心移りとかしちゃったかにゃ?」
「憎たらしい妖精殿下が俺に心移りをゆるすわけがないだろ」
クランツは自分の首が斬られるのを手振りで示した。
「ところでシルヴィのこと、恋愛感情として好きなのぉ?」
「はぁ? 主君に恋愛感情を持つなんて従者として下の下だろ」
「でも初めてはシルヴィのおかげでしょ?」
「……殿下は顔はいいけど」
起き上がる。長く寝ていたせいで急な動作に背骨が悲鳴をあげた。
「使用人が話しているのを聞いたけどぉ、シルヴィア殿下は婚約者殿には興味がなくてねぇ、クランツのことが好きなんだってぇ」
「城内の噂話を拾ってくるのはやめろよ。高貴な方と使用人が結ばれる恋愛小説は意外と人気があるけど……、オデットも現実を知っているだろ。俺と殿下はそんな腐れ貴族みたいなのじゃないし、そもそも殿下は……人を愛せると思うか?」
「無理かもぉ。欠落が大きすぎるぅ」
「俺も同意見だ」
オデットは笑った。
「ねぇぇ、そろそろ人肉食べたくなった?」
「正直、なった」
滑らかにオデットがそう聞くのでクランツもそう答えた。
エリシュカとの会話を思い出す。夜は魔性が活発化する時間だ。あのときの自分はどうかしていた。今はそう思う。
「人を喰って感染を広げるなら殺すよォ。サクッとね。あたしはそういう役割を担っているしぃ」
「わかっている。人間でいられる時間に限りがある。まだやらないといけないことがある」
「さぁ、指令を実行するのはお前以外にだれがいるの?」
「いないよ。俺以外にシルヴィア殿下のこの指令をこなせるやつはいない」
「じゃあ行きましょう。時間に余裕があるうちに」
治療室周辺には誰の姿もなかった。松葉杖をつきその体をオデットが支えてくれる。左肩周辺の上半身は腫れていて感触がいつもと違う。薬が切れてきたようで意識が明瞭になってくるにつれ、腕が耐え難いほど痛い。歩けないほど痛む。仕方ないので廊下で止まり、オデットに薬をとってきてもらい服用し歩行を再開した。腕が厚く包帯で固定されているというのもあるが、重量の均衡をとるのが難しく、少し進もうとうするだけで転びそうになる。縫い留めたところの引き攣りもおかしい。
感染症も気になる。魔性の感染ではなく免疫が下がることによって感染症に罹患する可能性を考える。
本当はもっと高度な治療を受けられる病院に行くべきだ。
「ゾーヤのことをヤブと罵りたい」
「これ以上の高度な治療は専門の病院で受けないとねぇ。どうせ魔性感染で受け入れてもらえないでしょうけどぉ」
オデットがクランツを促しに来たのは、回復を待つだけの時間がないからだ。
ゆっくりと歩く。その後ろをオデットがついてくる。人気のない廊下を歩き、苦労して階段を昇り、局長室の扉を叩く。
「イサーク・アルタウロス魔法局長」
不用心にも彼は一人で扉を開けた。出てきたのは老いた男性だ。年齢は七十手前のはずだが眼鏡をかけた敏腕な経営者といった風貌で、目の光が衰えた印象を拭き消す。
「君は……クランツ・レンバッハ君だったかね。どうしてここまで……それに後ろの彼女は」
「オデット・ミューと申します、局長」
オデットは余所行きの顔で可憐にお辞儀をしてみせた。
「どうしてここへ? 二人そろって何か用かな?」
「ご挨拶に伺ったのです。こうして魔法局に足を踏み込むことを許してくださった、寛大な処置に感謝いたします。お時間はとらせませんので、ええ、どうかお話を聞いてくださいませんか?」
口がよく回る。体が熱い。緊張している。
局長は室内に招き入れる。
「シルヴィア殿下とは数年前にお会いしたが、城に直接出向くとはその行動力に驚いたよ。……最近の殿下は元気だったかね?」
「ええ。僕が別れるとき、殿下は塔へ送られる最中だったのですが満面の笑みでした。幼いころからあまり変わらず非情、非常識なほど元気です」
「それはよかった。シルヴィア殿下の兄君の第一皇子ルメルス殿下とは、シーレナ妃を通じて遠い親戚関係になるのだけれどね。そのせいで、どちらかというと、あまり接点を持つことがないように配慮されていたようだ。魔法使いは実力主義の世界なのでね……。私としては現在の皇族のなかで一番強力だという血統魔法の使い手にいつか拝謁したいと思っていたので、此度の件は残念だよ」
クランツはおもむろに近づく。松葉杖をついている怪我人などに危険を感じないのか、アルタウロスは無反応だ。
「その件で実は……殿下より、お預かりしているものがあるのです」
アルタウロスは首を傾げた。彼の注意が向いているうちに、クランツは距離をつめる。
そして、シルヴィアがクランツに持たせた中で最強の手札をさらす。
「灼ける君二号です。ダサい名前は殿下自らがお付けになりました」
「灼ける君……? なんて?」
黒く光る銃を、局長に構えた。いままでこの銃は肌身離さず隠してきた。シルヴィアが血統魔術を応用して完成させたこの銃には、防音装置取り付け済みである。
アルタウロスは銃剣の銃口を向けられて、さすがによろめくように後退した。
「何をしている。はやく降ろしなさい」
「嫌です。ひとつ訊ねたいことがあるんです」
「それに答えたら、その銃を下げてもらえるのか」
「もちろんです。そしてその銃は局長に差し上げます。殿下からの下賜です。殿下が手ずから作った、血統魔法を記述付与した代物です」
アルタウロスは嘆息した。
「……大切にしよう」
「では、局長はアレクシア陛下と対面したことがありますか」
「それは私の口から言うのは憚られることだ」
「どっちですか? あるのか、ないのか」
「シルヴィア殿下は城へと至ったが最終の門を開けてもらえなかったようだ。為政者と認められなかったので、いまごろ躍起になって皇子を蹴落とす戦略を練っているのか。それとも挑戦すべく虎視眈々と再び禁忌を犯す準備をしているのか……。うーん、殿下の性格からして後者だな」
「いいから答えてください」
声が尖った。
アルタウロスは微笑した。
こんな状況でも余裕を纏う。
クランツは銃を握る指が汗ばむのを感じた。これまで多くの人間を葬ってきた。人の命を奪うのは初めてではない。それなのになぜ緊張しているのか。
「あるともないとも、私の口からは言えない。君が挑戦してみたらいい」
「……それはどういう意味ですか?」
「冬の城への探索に、君も行ったらいい。どうせ君が魔性化したらそこへ捨ててこなきゃいけないから。君も夜のうちに症状が進行して人間を食べていました……とか嫌になるだろ? 君はいま誰の世話になっているのだったか? アダム・ベロフを指定したはずだが彼はいま忙しい。不肖の息子か、何でもやるエリシュカあたりのところで世話になっているのだろう。彼らに迷惑や苦痛を与えるのは本意ではないはずだが、どうだ?」
「それはたしかに嫌ですけど」
まただ。手が震える。冷や汗が出てくる。集中しきれていない。惑わされている。
「それでどうする? レンバッハ君も行くのか? 行くなら君の目で確かめてくればいい。こんな脅すような真似をして、皇女殿下の陰になって一生生きるつもりだったのか? それは甘いぞ! 大いに甘い! レンバッハ君は若い! 自分の人生を模索し、生きるべきだ。こんな冬国の僻地で皇女の野蛮な命令に従わなくたっていい! まず銃をおろしなさい。それすらも自分では判断できないのか? 自分の意志があるだろう? 君は何をしたいんだね? 何をしにここへ来たんだね?」
「シルヴィア皇女殿下に……ご命令を」
「いいかい、よく聞くんだ。ここで私の殺害を失敗することは、シルヴィア皇女の不利益にはならない。なぜなら私はシルヴィア皇女の邪魔などできる力もないからだ。私たち魔法管理局はいま帝国に属すが、管理局の前身であるギルモアを失った経験から、力を持ち過ぎないことに重点を置いて研究をしている。シルヴィア皇女殿下が危惧するようなことは絶対に起こりえない」
眼光に飲み込まれる錯覚を覚え、クランツは息を呑んだ。
敵わないと悟った。ただの若造では、本気で生きて修羅場をくぐってきた人間には敵わない。銃をおろして、そのまま渡す。
局長はそれを受け取り、安全装置がついたままなのを確認すると緊張を緩めた。
背後でオデットはどのような顔をしているのだろう。見たくなかった。いまの自分は本当に情けない。
「冬の城へ挑戦してみるかね?」
「ええ……この体でも大丈夫であれば」
「魔性化しかけているのだろう? 怪我なんて目じゃない。そのうち治るはずだ。あいつらは殺しても死なない増殖する化け物だからな」
「ここに来てから、みんな化け物と俺のことを……」
「自分のことを化け物ではないと思っているのか? 人はみんな欲望がむき出しになったときは化け物みたいになる。死にそうなときもそうだ。人間は理性的に振舞っているだけで、ひとたびそれが剥がれてしまえば、野生の獣と変わりない。この地域の極限下では腹が減って仕方ないから食人したという話も残っているし、そんなものだ。人が自覚している自分という像は一面でしかない。化け物と君のことを罵る人間もまた化け物なのさ」
銃とその銃をしまうための特注した箱を渡すと、局長は恭しい手つきでそれを受け取った。
本当は渡すべきではなかったのかもしれない。
治療室に戻ってくると後悔した。あの銃を殿下がクランツに持たせたのは、万が一のときに人間としての尊厳を保てるように持たせてくれた意味合いもあった。
「落ち込んでいるのぅ?」
オデットがまた片手で生のかぶを食べている。エプロンのポケットのなかにしのばせているようだ。アルタウロス以上のたいした余裕だった。
「殿下への忠誠を試され、しかも自分が揺らいでしまうなんて、自分がいちばん知りたくなかった」
「局長が言う通り、あんたはまだ若いじゃない。享楽的に生きてみるのもいいかもよ? 行き当たりばったりみたいなさぁ。真面目にわがまま姫ちゃまに言われるがまま仕事しすぎたんじゃなぁい?」
「楽に生きようとすれば悪いことが起きないか……?」
目を瞑ると、これまでのことがさまざまと脳裏に蘇る。
城に召し抱えられたときから、様々な人間と衝突してきた。孤児院から来た使用人候補だと、上級使用人の貴族からおもちゃにされた。さらに嘘をついて罪をかぶせてくる同僚たち、殿下を狙いながら一緒にクランツの命を奪おうと暗殺者を差し向ける政敵。
いたずらされたら仕返しした。命の応酬もした。
それらを一切忘れて生活するなんて夢に思える。
「悪いことが起きるかわからないけど、お前が知らない楽しいことは世界にまだいっぱいあるかもしれないよぉ? 身近なところでは伴侶を得る、理解者を得る。あとは一人で氷の上に座ってオーロラを眺めるとか、非政府組織地域の料理を食べにいくとかさぁ」
「非政府組織の料理は美味しかったか?」
「うん、満足したわぁ。アザラシの中身をくりぬいて、中に鳥を詰め込んで凍らせて脂肪を浸透させ、その鳥の臓物を啜るっていうのがあるの。それがすごく美味しくて癖になるのよぉ」
「それはこちらの料理とだいぶ違うな……」
また来ると言い残し、オデットは退室した。めずらしくカブを置いていった。見舞いのつもりか。その心遣いがいまは辛かった。彼女が情けないクランツを見てどう思ったのか、想像するだけで胃がきゅっと締まる。
いつからクランツはこんなに弱くなった。殿下と別れてからか。それならば強い者や権威を盾にして粋がっていた、あの貴族の子供らとクランツはなんら変わりないということだ。
目頭が熱くなった。声をあげないように泣きながら寝台に横たわって朝を待った。