12 慈愛
クランツはゾーヤに頼まれた魔性の処分をするものと思い支度は済ませていたので即時に出立。二人は雪馬を駆り、雪原へと赴いた。魔法局から離れた雪原に設置されている食料栽培場にたどり着く。ここで働く工場員たちも研究者の一員である。胡乱な目で見られながら、目当ての薬草を探し採取し、それを持ち帰る。
どう考えても雑用だった。それも本来の予定を後回しにして、ねじ込まれた仕事だ。何者かの悪意を感じる。それなのにエリシュカは熱を込めてやっている。真面目にやるだけ損なのに、なんてクランツは考えてしまう。真面目さや誠実なのがエリシュカの良いところでもあるのだろうけれど、見ているクランツがもどかしい。
「エリシュカさんは少し……仕事しすぎじゃないですか?」
「そうですか……?」
エリシュカは不思議そうに首を傾げた。
「ええ。そう見えます。ちゃんとごはんを食べて休んでほしいです」
「休息なんて……。いえ、そう言ってくれるのは心配してくれているからですよね。ありがとうございます」
仕事を終わらせて、小屋に戻る。質素な食事を作り、エリシュカに振舞う。調理場で酒を見つけたのでそれも出した。リトヴァクに住んでいて強い酒を飲めないという人をクランツは見たことがない。
エリシュカも酒の入ったゴブレットを断らず、少しだけ頬を上気させると頬を緩めた。
「ありがとうございます、クランツさん。クランツさんは親切なんですね。わたし、あなたと会えてよかったです。こういう状況でなければ、もっと喜べたのに……」
「言葉だけで十分ですよ」
「いいえ、本当のことなので……。美味しいご飯をわたしだけのために作ってもらったのも、初めてかもしれません」
エリシュカは上機嫌だった。作業部屋に戻るとそのまま静かになった。
棚に積まれた本の隙間で妖精が踊っている。
クランツは一匹を掴むと、手の中でそれはもがいた。潰そうと力を込めると、妖精は金色の粉になり消えた。
翌朝、支度を整えてエリシュカの小屋を二人一緒に出た。吹雪は収束している。空気は澄んでいて、雲の隙間から空が見える。ほどほどに天気がいいが、気分はあまりよいとは言えなかった。
「エリシュカさん、やっぱり辞めたほうがいいんじゃ」
「……この状況で断るのは難しいです。魔性は処分しなきゃ危ないし、処分は……ゾーヤとは関係のないところでやっておかないとまた面倒が起きるかもしれないから……」
ゾーヤの研究室で学んでいる学生たちとともに研究局からほど近い雪原へと向かう。水槽に入った魔性は学生が犬ぞりを駆って運んだ。
「……じゃあ、魔性の対処法は聞いていますね。誰か説明してくれる学生、挙手してください」
「はい。二人一組になって一人が二人ぶんの防御壁を張り、もう一人が攻撃します」
「そうです。じゃあ二人一組になってください。そう、じゃあ次の注意点の説明へ移ります。魔性はどうやって襲ってくる? また、どうして対処すべきですか?」
「はい。筋力で跳躍して襲ってきます。対処としては防御壁で受け止めて攻撃で弾き飛ばします。力押しです。もし怪我をしたらその班は後退して治療します。他の班は援護します」
「その通りです。じゃあ陣形の説明に……」
挙手した学生のなかからエリシュカは一人をあてていく。つぎつぎに学生に説明させて、エリシュカはたいして指示も出さずに行動を終わらせてしまった。あとは実際の処置に移る。
学生たちは字が刻まれた石やら杖やらの道具を持ち、魔術を起動させる。道具を準備し、エーテルに呼びかけ、現象を起こす。
エリシュカは学生を緊張した面持ちで監督している。
エリシュカの背後で、クランツは学生たちの動きを興味深く観察していた。シルヴィアは血統に起因する魔術で起動の準備など必要なく、オデットに至っては金属の魔性――金属ならばすべて自分の手のように扱っていた。これからどのような展開になるのか興味がないといえば嘘になる。
「じゃ、始めます」
学生たちの防御壁が展開する。魔術が動作しているのを見届け、エリシュカは少し離れた位置から紐をひっぱり水槽の蓋を外した。
途端、水槽からなにかが飛び出してくる。
弾け飛んできたのは黒い肉のかたまりに見えた。
視認した瞬間には凄まじい音がして、学生の防御壁に張り付いていた。
「うっうううう」
襲われている学生が涙目になっている。他の学生も行動できていない。
「は、早く攻撃して、飛ばすのっ」
珍しくエリシュカが焦った声で叫んだときだった。
黒い肉のかたまりが、自ら防御壁にまとわりついた筋肉を弛緩させ落下し、地面についた瞬間にまた跳躍した。
防御壁を突破し顔面に張り付く。
被害者である学生が悲鳴をあげた。
「くそっ」
自分でも何ができるのかわからないまま、クランツは走り出していた。滑り込むように張り付かれた学生のところに行き、素手で躊躇なく引きはがそうとする。魔性は離れない。魔性と顔の皮膚の隙間に無理に手をつっこみ、自らの腕を喰わせて引きはがすことに成功した。
顔を喰われた学生は悲鳴をあげながらのたうち回っている。
「はやく処置を」
周りが呆然としているなか、エリシュカが声を荒げて指示をだした。学生たちが動きだす。
クランツは痛みで朦朧としながら腕を半ばまで飲み込んだ魔性をどうしたらよいか考えた。冷や汗が無尽蔵に湧き出てくる。手首から先の感覚がない。骨までしゃぶられているのがわかる。
脂汗が流れる。思考が高速で流れていく。――どうしてこんな目に。一度ならず、二度までも。強制されたわけでもないのに、自ら進んで危険に飛び込む。こんなの、失敗したっていいのに。誰が死んだってかまわないのに。殺されたって関係ないのに。クズに仕事を押し付けられても断れない愚図なエリシュカのせいにしたって良かったのに。どうして。
「……痛ぇんだよ、くそが」
魔性を踏みつけ、地面に叩きつけ、どうにか引きはがそうとするがそんな人間の抵抗を笑うように、魔性は腕を締め上げてくる。心臓が脈動を繰り返し、耳鳴りがする。手首から先がないなら相当出血しているはずだ。魔性は先ほどより膨れている。それだけ血を飲んだということでもある。意識を保てる時間はそう長くはない。
エリシュカが駆け寄ってくる。彼女はなんの慰めも謝罪も口にしなかったし、咎めもしなかった。ただ口を引き結び、字が刻まれ魔術的な作用を持つ小刀で魔性を引き裂いた。切り裂かれながらも蠢き、捕食を続けようとする魔性を、今度は小さく呟いた言葉を起因として魔法を発動させて焼く。
その間にクランツは止血帯になりそうなベルトで腕を結んだ。腕は骨が見える状態で見るも無惨なことになっており、元通りの形成は無理かもしれないと悟った。
焼き尽くして殺すわけではない。魔性は水分を飛ばすと乾眠状態に陥る。一人の魔術師が生命力の高い魔性を刻み殺すのは難しい。無力化させたいときだけこの方法をとる。エリシュカは乾燥して元の体積の半分ほどに縮んだ魔性を再び水槽に戻して蓋を厳重にしめた。
ふと見ればエリシュカは泣きそうになっていた。
クランツは止血も終わったので自然とその頬に手をのばして、手袋をはめた手で乱暴にぬぐった。
「わたしのせいです。いますぐゾーヤに治療させます。ごめんなさい、力を使えなくて……学生に任せず、わたしが……わたし一人で始末していれば……」
「そういうのはあとで、あとで聞きます。治療室はどこですか?」
治療室で間に合わない怪我だという自覚はあったが、魔法局は街からは離れている。街の病院にどれだけ急いで向かおうとしても、かえって死を早めるだけなのは目に見えていた。
顔を喰われた生徒も気になる。先に運ばれたようで、姿はない。数人残っていた生徒が魔術を痛覚遮断に使ってくれた。これで自然に歩ける。
「……わ、わたし、だめなの……。……を使えなくて……うっ、ごめんなさい、ごめんなさい」
「エリシュカさん、あとで聞くと言っただろう」
「うん……。学生たちはあの水槽を犬ぞりに結びつけて魔法局長あてに提出してくれる?」
「え、でも……これが公になれば……」
渋る学生たちにエリシュカは首を振った。
「怪我人が出た以上、ゾーヤの計画は失敗しました。研究者としての彼女は終わりです」
エリシュカは泣きながら、クランツに付き添い治療室まで案内した。
治療室では先に怪我した学生の治療が行われていた。頭を完全に覆うマスクをつけたゾーヤが処置にあたっている。
「ちょっと。わたしの研究室の学生になにしてくれてんのよっ! リハーサルもまだ終わってないのになんてことを!」
「……怒りながら治療しないでください。手先に集中して」
「うるさい! わたしに命令するな! もうこっちの顔の修復は終わってんのよ! どうせ魔性の感染を防ぐには、時間逆行で戻せるだけ戻す治療法しかないって知っているでしょ! いまは洗浄してるだけ。顔だってほとんどもとに戻るわ! 表皮と筋肉の維持が元どおりってだけだけどね!」
「ありがとう、ゾーヤ」
「ありがとうじゃないのよ! そっちの実験動物の手は戻らないよ! あんたが義手を作ってあげるしかないよ!」
「……ええ、そうですね。わたしが作ります」
治療台に横にさせられると、緊張の糸が緩み、クランツの意識は遠のいてきていた。治療の補助として立っている学生がクランツの分厚い防寒具を脱がせる。幾人かの学生たちが、慣れた手つきで呼吸器の操作と血圧の測定に入る。
「ちょっと! こいつの腕、やべえよ! 魔法局でお目にかかる怪我じゃない。こういうのは軍医の研修を受けたときに見た……。えっと、のこぎりで切断するか」
あんまり聞きたくない話が出てきたので、目線をゾーヤに向ける。ゾーヤはなにを勘違いしたのか、また子供っぽい笑顔を見せた。
「大丈夫。おまえはもうとっくに感染してるし、エリシュカの義手は完璧だからさ。安心して眠れ」
「まったく安心できねえよ」
さすがに唇が動いたがその声が届いていたかは不明だ。
麻酔が効きはじめる。
起きると熱っぽい体と喉の渇きがあった。真っ暗闇だ。カーテンの隙間から夜空が見える。どれくらい眠っていたのか、頭をさすろうとして手の感覚がおかしいことに気が付く。左手の肘から甲までの中間で、猛烈な熱がある。
すべてを思い出した。
眠っている間、ずっと泣き声が聞こえていた。
寝台の端に頭を押し付けてエリシュカが眠っている。泣きながら眠ったのだろう。頬には涙で濡れたあとがある。
どうしてだろう。その姿を見てクランツは愛情深いと感じるよりも先に、飢えを覚えた。彼女の小さな頭に手を伸ばそうとして、それより先にエリシュカが目を開いた。
優し気な目がはじめは驚きに目を瞠り、つぎに顔の表情が緩む。
「起きたんですね! よかった!」
勢いよくエリシュカはクランツに抱きついた。
「エリシュカさん、ちょっと離れて……」
「あ、ごめんなさい。クランツさん、三日くらい寝ていたんですよ……。あ、そうだ、喉乾いてますよね? ゾーヤが水たくさん飲ませてって言っていましたから、これを」
危難をともにしたからか、エリシュカの心理的な距離が近い。あるいは涙を見せたことで弱さを晒して楽になったのか、それとも元来慈悲の心が強いのか。かいがいしくエリシュカは動いた。水を差しだし飲ませて、隣に座り、熱を測り体に異常がないか尋ねてくる。
距離も近い。
お湯で絞ったタオルで顔を拭いてくれる。片手でできると言ってもタオルを渡そうとしない。全身から血と傷の匂いがするのに健気に看病してくれる。着替えもさせてくれたようだ。
「エリシュカさん、話を聞かせてください」
「うん……あのね、わたしは……」
人の体は拭けるくせに、言いにくいとは変な女だ。
辛抱強くクランツは次の言葉を待った。
「まず、わたしなんかが、あなたの腕を犠牲にしたことを謝らせてください」
「いちばん悪いのはゾーヤだろ。エリシュカさんが謝ることはないはずだ」
そばに寄ってきたエリシュカの前髪を、クランツは指でよけた。白皙の肌、潤んだ薄い氷色の目。そこから零れ落ちる涙が露わになる。
カーテンの隙間から細く射し込む月光と、小さなランプに照らされたなかで見つめあい、どちらともなく二人は目を逸らした。
「それでも……わたしが、わたしがあのとき、魔法を使えていれば」
「……エリシュカさんが魔法を使えたらあの魔性を殺せていたのか? 一人でやれば殺せるのか? 俺みたいに怪我していたかもしれないんじゃないのか?」
「それは……そう、だけど……」
「すべての責任を負おうとしても無理だと思う。とにかくこのことについて、エリシュカさんはなにも悪くない……。べつに学生たちも悪くない。それで終わりだ。この件について治療費をもらうとすればゾーヤに払ってもらうので」
エリシュカは唇を噛んだ。同時にシーツを握る手に力がこもっていた。それでも涙がこぼれる。
クランツは彼女が意地で涙を止めようとしたのだと気づく。
「泣くなって言っただろう」
「わたしは怪我したってよかったのに……なんで……。お詫びにわたしがあげられるものならなんでもあげます」
「なんでも? じゃあ……血がほしい」
「……噛まれたから、症状が進行したんですね」
エリシュカの肩が震えた。
その細い肩を自然とクランツは掴んでいた。彼女の肌の下の血管を感じる。いまは飢え以外のことを考えられない。
エリシュカはいろいろなことを頼まれても断れないでいた。きっとクランツの頼み事だって受けてくれる。
だが、クランツの予想に反しエリシュカは目を逸らした。
「ごめんなさい」
短い拒否。暗い声。顔を見ずともどのような表情をしているかわかる。
「あなたはシルヴィア皇女の元へ戻るつもりでしょう? 感染しているけど、もし、万が一、感染に抗うことができたなら……いちばん会いたいのは皇女さまでしょ?」
「ええ、シルヴィア皇女……」
「あなたのご主人様」
「ああ……そうだ。戻らないといけない……そのはず……」
その名前で熱に浮かされていた頭がすっと冷えた。
殿下は指令を果たし帰還することを望んでいる。最後に見た殿下は酷薄な笑みを浮かべて、手を振っていた。別れの言葉は「いってらっしゃい」。場面にそぐわない笑顔から考えるに、皮肉が大好きなシルヴィアは墓場へ行ってらっしゃいの意図で言っていた。絶対に「おかえりさない」も言ってもらわないといけない。
「だったら諦めないでください。発症を抑えるには人を食べたいという欲望を抑え込むしかないですから」
冷たい指先が目元を撫でた。
エリシュカは慈愛そのものでクランツのこめかみにキスをした。