1 皇女との邂逅
歯の根がカチカチと音を立てて鳴っていた。
少し前、クランツは複数人の男性たちに抱えられるようにして湖まで運ばれてきた。
状況は理解できていない。なぜ縄で身動きがとれないようにされた上、目隠しをされてここまで連れてきたのか。なぜ水をかけられたのか。なぜ芋虫のように、地べたを這わされているのか。冷たい空気が全身を冷やす。クランツは倒れ伏したまま白い息を吐き、必死に周囲の大人たちを見上げて吠えた。
「このまま凍った地面に放っておいたら死にますよ。殺す気ですか」
「慎め」
腰に剣を佩いた男が一喝した。明らかに騎士と見受けられる威圧感を纏う男に、クランツは狼狽した。
身を捻って周囲を見回す。
いつも護ってくれる猫の姿はない。
あたりは土煙と湖の生臭いにおいに包まれ、木々のざわめきが聞こえる。木陰に並びたつ使用人たちは、異様なほど綺麗に整列している。使用人たちに傅かれているのは、用意された椅子に座るあどけない少女だった。金髪に明るい氷色の目、健康そうな肌。こちらを見下ろす彼女の目は輝いている。
状況は理解できないが、彼女がなんなのかは知識として知っている。高貴な青い血を引く者の中で、もっとも守られるべきお方。帝国のやんごとなき皇女、拷問妖精――シルヴィア・エル・リェフ。
「あなた、なあにその顔、間抜け面ね。あははは」
シルヴィアはひどく愉快そうにこちらを見下ろし、何を思ったのか椅子を降りた。
はっきり顔が見える位置まで近づいてくる。
「……はは」
クランツも苦笑いをする。
ズブ濡れで拝むには、彼女の姿は眩しすぎた。
震えがなにによるものなのか一瞬わからなくなる。
同年代の子供に恐れを抱いたのは初めてだった。彼女はいやに人間離れした容姿に思える。同じ人間なのだろうか。これまで見たこともないほど上等そうな布で仕立てられた美しいドレスに身を包み、髪飾りには宝石のたぐいを使っている。大人が着れば悪趣味と感じるかもしれない装飾も妖精姫ならばちがう。そう例えば天使とか、王宮の廊下に飾られた美女の絵とか、幻想の中から出てきた美しさの化身のように思える。
さらに目を惹くのは、彼女の目に宿る絶対の自信だった。絶対に自分は間違っていない、という目。それがとてつもない輝きで、クランツの卑屈な部分が彼女から目を背けさせる。彼女が纏うのは本物の威光である。騎士見習いで城にあがっている貴族の三男坊たちとは違う。
「あ、あの、寒いです……。殿下。これでは死んでしまいます」
「大丈夫よ。じきに寒いとか寒くないとか感じなくなるから」
「殺す気か? いくら皇族でも、こんなの越権行為だ!」
「騒ぐな。殿下が機嫌を損ねられて罪が重くなるぞ」
騎士が口を開いた。
クランツはその騎士に問い返す。
「機嫌? 機嫌で罰が決まるのか? なら、とびきり機嫌がいい時に罰を頼むよ!」
孤児院のおばあさんは少年を城に奉公に出すとき、滅多なことをしなければ罰なんか与えられないとうそぶいていたのに。
雪を踏んで近づく音がして、使用人の一人が慌てながら少年の間に割って入った。外套から上級使用人の制服の裾が見えている。
「申し訳ありません、殿下。中止をお考えください。この子は孤児院から雇い入れた子供です。上に立つものが民草を虐げたともなれば、大変な醜聞になります。聡明な殿下には、おわかりになるでしょう?」
だが殿下はその使用人に手を振る。
「いやよ。これは罰よ。わたくしのものを勝手に壊した罰だから。あなたたちは手を止めずに準備なさい」
愉快そうな姫は反対に、使用人たちは青い顔色になり、荷馬車からなにやら布でくるまれた荷物を取り出す。布の隙間から除くのは縄やおもりらしきものだった。
「罪状はなんですか? 自分はただの小間使いです。下級使用人たちに混ざって雑事を手伝っているだけです。たいしたことのない下働きが、殿下が直接刑にかけるほどの大罪を犯したのかどうか知りたいです」
クランツは護衛騎士をちらりと窺いながら、けれど、どうしても自制できず尋ねる。
王女は小首をかしげた。
「うん? 自分の罪がなんなのか理解していないの?」
「はい、存じ上げません」
「わたくしの可愛がっている鳥を逃がした罰よ」
「鳥ですか? その……大臣から生誕の贈り物にいただいたという、あの有名な」
「ええ、叔父さまからいただいた珍しい銀の小鳥よ。昨日、小部屋で飛ばせる役目をあなたがおっていたでしょう? そのときに窓か扉を閉め忘れていたんじゃないかしら」
「身に覚えがありません! 無実です!」
「声を荒げるな。殿下へのお前の弁明は聞き苦しいぞ」
「……も、申し訳ありません。ですがこれではあまりに一方的ではありませんか」
「そうかしら? もう他の使用人たちからは証言が出ているのよ」
「えっ、そんなことはありえない……ありえません。殿下、なにか重大な誤解があります」
「とにかくお前の抗弁など必要ないということ。証拠は出揃っているのだからね」
殿下は微笑む。
クランツはそれ以上言葉を発する気がなくなり沈黙した。
平民にとって権力者はみな天災だ。可憐な容姿で清廉な性格の権力者なんて、いるわけがないのに期待してしまった。権力者はみな平民の命を切り捨てる。シルヴィアも例外ではない。
シルヴィアもそれ以上何も言わない。妖精のごとく整った容姿に隠された本性は、氷のように冷たく嗜虐的だ。
「殿下、準備が整いました」
クランツの足には鈍重なおもりがつけられている。背中にはやや太めの長い縄。縄は低い木の幹にくくりつけられていた。
「ご苦労。では、始めましょう」
「教えてください。ぼくをどうするつもりなんですか?」
「罰として湖に放り込み、一定時間経過したあと引っ張ります」
「そんなの死ぬに決まっています!」
「命綱はあります。もし生きていたら、あなたの罪は不問にします」
「そんな柔い命綱なんて、切れるかもしれないじゃないですか。こんなのあんまりだ……」
「切れたらそれは神のご意思ということでしょう。無事に戻ってきたらこの罪は不問です。わたくしはあなたの安全を約束します。やりなさい。命令です」
「やめろ! 放せ!」
使用人たちはクランツの体を小船に乗せた。身をよじって抵抗するがあまり意味はない。そして湖の真ん中で体を湖面に投げ込む。
「…………っ!」
叫ぶが耳元では泡の音しか聞こえない。体を水が飲みこんでいた。
叫んだ口に水が入り込む。むせて貴重な空気を吐き出してしまう。
おもりは一直線に湖底を目指す。
暗い底へと落ちてゆく。
水面のきらきらとした光が、遠くなっていく。
泡を巻き込みながら沈んでいく。