1116 うつくしのひと
いつもより直接的に百合です
よく笑う人だった。
嬉しい時には天を仰ぐように大げさにのけぞって笑い、楽しい時には手を叩いて笑い、誰かがつらい時には隣でそっと笑うような人だった。
わたしが隣に行くと必ず紅茶の匂いがして、季節ごとに香りは少しずつ違ったけれど、コーヒーほど刺々しくないその匂いにほっと息をついたことを鮮明に思い出せる。
「美和ちゃん、元気にしてた?」
わたしを呼ぶその声はいつも穏やかで美しかった。わたしはその声で名を呼ばれるたび、柔らかなところをそっとくすぐられるような甘やかさをひっそりと持て余したものだった。
「こころこそちょっと痩せたんじゃない?」
「仕事が忙しいからね」
その日も彼女はけろりといつもの調子で笑った。笑顔に若干の疲れは見えたものの、わたしはそのまま彼女の言葉を信じ込み、あえて触れぬまま食事に繰り出したのだ。
仕事のこと、趣味のこと、友人関係のこと、恋人のこと。取るに足りないような日常のあれこれをわたしが話すたび、彼女はわたしが求めてやまない言葉を返し、態度をとり、そうして最後には穏やかに笑んだ。
飲み屋近くの公園で、気分良く飲み食いをしてずいぶんと酔いが回ったわたしを置いて帰ることもせず、「美和ちゃん、飲み過ぎちゃダメだよ」と介抱しながら彼女はしきりに言った。
なんとなくそれが癪に触って、そのうえまだ彼女に甘えていたくて、わたしは言い返した。
「いいんだよぉ、わたしにはこころがいるもん」
期待していた返事はなかった。
不審に思ったわたしが彼女のほうを見るのと同時に、唇と頬の中間あたりに柔らかなものがわずかに触れる。好き放題に飲んだわたしとは違い、彼女からは相変わらず紅茶の香りがしていた。阿呆のように惚けたわたしから体を離し、彼女はわらう。
それは今までわたしが見たことのない、凄絶なまでの笑顔だった。
「ここ、」
「ごめんね、美和ちゃん、そばにいられなくてごめんね」
彼女の口が短く動く。たった一言、それだけを紡いだ彼女の姿が瞬きののちにかき消える。
「……こころ?」
紅茶の香りなどしない。ただ自分の酒臭さだけを鼻が認識する。
公園に人気はない。彼女に触れていたはずの右手がじぃんと冷えていることを認識する。
「……こころ」
呼んでも彼女の姿はない。いるはずもない、と頭が正しく認識する。
彼女が首を吊ったと聞いた時、誰もがありえないと言ったそうだ。わたしも例に漏れずそう思った。
けれど思い返してみれば、彼女の姿の端々に彼女の叫びが漏れていた。気づこうと思えば気づけたようなわずかな違和感が、喪失感の隙間を縫って迫ってくる。
よく笑う人だった。
嬉しい時には天を仰ぐように大げさにのけぞって笑い、楽しい時には手を叩いて笑い、誰かがつらい時には隣でそっと笑うような人だった。
自分が辛い時ですら、誰にも悟らせないように美しく笑う人だった。
隣に行くと必ず紅茶の匂いがして、季節ごとに香りは少しずつ違ったけれど、コーヒーほど刺々しくないその匂いにほっと息をついたことを鮮明に思い出せる。
けれど彼女は思い返せば、コーヒーが好きであった。自分の主張を押し殺して誰かに寄り添おうとし続けて、居心地のいい人であることに疲れ果てた人だった。
「こころ」
呼べども返事はない。
幻覚の柔らかな唇の感触だけが残っている気がする。
「こんなときまで、口じゃなくて……」
わたしを好いたあの人は、どこまでもうつくしくあろうとした人だった。
うつくしのひとは、もういない。