私はどうしてミジンコではないのか
私はどうしてミジンコではないのか。こんな問いを発している人を見て、この人は何を言っているんだと思われるかもしれない。私がミジンコでないのは当たり前のことじゃないかと言いたくなるからだ。しかし、私から言わせれば、貴方はいつから「私」になったのだと言いたくなる。なぜなら、「私がミジンコでないのは当たり前のことじゃないか」というのと同じぐらい私は「貴方がミジンコでないのは当たり前のことじゃないか」と言いたくなるからだ。
ところで、私がミジンコでないのは当たり前のことである。なぜなら、私はミジンコのようにちっちゃくはないからだ。
また、私はミジンコのように知性レベルも低くはない。私は自分の頭で考えて行動することができるからだ。計画したり、想像を膨らましたりできるのは私が人間だからである。人間とは知性的な生き物である。
形や中身が明らかにミジンコと私とでは似通っていない。だが、どちらも物ではなく生きた生命体であるという点においては似てると言える。では、私がミジンコと明らかに似ていない点とはなんなのだろうか。
仮に、人造人間がいたとする。私は、私のように言葉も喋るし、私のように感情を持つ人造人間を考え出すことができる。ただし、違う点は、私と人造人間とでは身体の組織が違うというところである。私はそういう人造人間を考え出すことができる。
私がミジンコと明らかに似ていない点があるとするのなら、ミジンコにはこのような思考ができないという点においてだろう。およそ人間は私と同じようなことを考えることができるが、ミジンコにはそれができないからだ。
では、犬や猫といった動物の場合はどうか。犬や猫なら、ミジンコよりかは物を考えることができるのかもしれない。なぜなら、私はミジンコが考えているという様よりも犬や猫が考えているという様の方が想像しやすいからだ。
しかし、彼らとは明らかに異なる点がやはりある。それは、私は彼らではないという点である。なぜなら、まさにこの点にこそ本質があるからだ。しかし、それはいったいどういうことなのだろう。
もし仮に、私がミジンコとして生まれてきたのだとしたら、世界はどう見えていたのだろうか。世界は今見えているのよりも、より一層大きく見えていただろうし、結構窮屈な生活を強いられていたのではないかと思われる。
ところで、意識とはなんなのだろうか。なぜに私には「この意識」が与えられているのだろうか。「この意識」が他人にもあると言える根拠はあるのだろうか。
他人たちは物を考え行動していると私は信じている。なぜなら、彼らは私と同じように言葉を発し、私と同じように身振り手振りを見せるからだ。
しかし、これは他人が私と似ている、という根拠に基づいている。では、なぜ私と似ていないミジンコには意識がないのか。それは、ミジンコには考える力がないからである。逆を言えば、他人は考える力を持っている。その点が私と似ているのだ。
では、もし仮に私がミジンコとして生まれていたのであるならば、ミジンコは考える力を持っていただろうか。そもそも、ミジンコである私が考える力を持っていないのだから、同じ仲間のミジンコも考える力を持っていないことになるだろう。
だが、まさにそのようなミジンコが私の対する他者であったということになる。つまり、考える力を持っていないことこそが、意識があることの根拠となるのである。なぜなら、意識とは考える力をも超えた存在だからだ。そうでなければ、私はなぜに「この意識」を持っているのだろうか。これは奇跡としか言いようがないのではないか。




