bite the bullet5
翌日。七月十日、金曜日。学校が終わった私はいったん家に帰ってタイヤがパンクした自転車を持ち出すと、わっせわっせと近くの自転車屋へ運んだ。自転車なら十五分もかからない距離だが、パンクした自転車を押しながらとなるとその三倍はかかった。
自転車屋のおじさんにいつ頃直るかと尋ねたら、今修理しなければならない自転車が溜まっているから早くても三日はかかると言われた。この自転車屋は個人営業、少し先にもうちょっと大きい自転車屋があるのだが、そこまで自転車を押す気になれなかったので、私はおじさんに「お願いします」と言って自転車を預けてきた。
「涼しい~~」
引き戸を開け、クーラーが入っている店内に足を踏み入れるなり私は歓喜の声を上げた。七月初旬の暑さの中を自転車を押して歩き、さらにそこから徒歩で店までやって来たのだ。お客さんの有無を確認するのも忘れ、私はそう叫んだ。
「あれ、無人か……」
ところが、店の奥に進んでみるとお客さんはおろか店長すらいなかった。いったいどこに行っているのか……。私今日遅れるって言っておいたのに、店長がいないんじゃお客さん来た時どうするんだ。
自分の部屋でエプロンを巻いて店に戻る。今日は一度家に寄ったため荷物がほとんど無い。お客さんが来る気配も無さそうなので、私は本棚からファイルを一冊抜き取るとカウンターに座った。昨日の続きだ。
一時間程すると、店の裏から店長が出てきた。どうやらずっと二階にいたらしい。らしいというのは完全に雰囲気からの推察だからなのだが、店長は手ぶらだし間違ってはいないだろう。
「おはようございます店長」
「おはよう雅美ちゃん。今朝陸男が持ってきたケーキあるよ。食べる?」
「食べます!……けど、なんでケーキなんか?今日何かありましたっけ」
「試作品がいっぱい出来て捨てるのもったいないからだって」
瀬川君の誕生日がいつだったか思い出そうとしていた私は、店長の答えに「なるほど」と頷いた。その理由なら、きっと店でケーキバイキングが出来るだろう。
台所でお茶を淹れつつ冷蔵庫を覗いてみたら、フルーツを使った涼しげなケーキがたくさん並んでいた。明らかに三人前より多いが、食べ切れない量ではないだろう。瀬川君もいるし。
好きなケーキを取っていいと言われているので、私はショートケーキとロールケーキをお皿に乗せて、紅茶と一緒にお盆に乗せて店に戻った。
「そういえば、もう夏なのに夏のケーキ試作してるんですか?」
「何かコンテストに出すって言ってたけど」
そう答えながら店長は私のショートケーキにフォークを突き刺した。
「勝手に取らないでくださいよ!まだあるんだから冷蔵庫から持ってこればいいじゃないですか!」
「けちけちしないの。リッ君じゃあるまいし」
私は唇を尖らせて不満をアピールしたが、店長はお構いなしでロールケーキにもフォークを突き刺した。
「そういえば自転車返ってくるのいつ?」
「今忙しいから三日はかかるらしいです。直したら連絡くれるって……だから取らないでくださいよ!」
私は皿をなるべく店長から遠い位置に避難させる。店長はようやくフォークを手放した。
私達がくだらないやり取りをしていると、店の裏の暗がりから瀬川君が姿を現した。彼が店に顔を出すときはたいてい何かしらの資料を持っているのだが、今日は手ぶらだ。瀬川君は真っ直ぐ店長へ近付いた。
「瀬川君おはよう」
「おはよう荒木さん。店長、ちょっと来てください」
瀬川君は私に挨拶を返すと、店長に声をかけた。店長は珍しく余計なことを言わずに立ち上がる。二人はそのまま店の裏に消えていき、ぽつんと残った私は少し寂しくなった。
テレビに映るくだらないバラエティーを見ながら、一人でケーキをつつく。ケーキを全て食べ終わると口が寂しくなってきたので、私は再び冷蔵庫を覗いた。二つも食べた後じゃ正直お腹はいっぱいだが、キラキラと光るゼリーを見つけてしまったのでついそれを手に取ってしまった。
このゼリーは一つしかないところを見ると、奇をてらってゼリー路線に走ってみようかとも思ったが、正気に戻ってショートケーキやロールケーキに路線修正したのだろう。と推理する。果たして当たっているだろうか、答えを知る機会はない。私はゼリーとスプーンを手にして、再びテレビの前に戻った。
ゼリーならお腹に入りそうと思って来たのだが、これは完全にデブ思考ではないか?私はついお腹周りの肉のつき具合を確認してしまった。ゼリーを目の前に服の上からお腹をつまんでいると、店の裏から店長がやって来て私に怪訝そうな顔を向けた。
「て、店長、お早いお帰りで……」
「何してんの?」
「いえちょっと、お腹周りの確認を」
「雅美ちゃんがいらないなら僕が食べるけど」
店長はソファーに座ると、私の目の前にあるゼリーに手を伸ばした。私は慌てて細長い容器に入ったゼリーを両手で掴む。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、いらないなんて言ってないじゃないですか」
「雅美ちゃん今甘い物はもういらないみたいな顔してたじゃん」
「ぐ……、それはそうですけど……」
「脂肪になる前にやめておいた方がいいんじゃない?」
「く、くそぅ……。こんな物くれてやりますよ!」
私は観念して手を離した。ゼリーはみるみるうちに店長の口の中に放り込まれてゆく。
「……食べても太らない秘訣って何ですか?」
「体質」
「そりゃそうですけど」
せめて夏バテでも起きてくれれば私の食欲も幾分マシになるんだけど。そういえばこの前鳥山さんが夏バテで食欲ないと言っていたな。もともと細いのに食べなくて大丈夫だろうか。
「店長って体重何キロですか?」
「個人情報なので秘密です」
「ですよね」
私は身長百五十二で体重が四じゅう……ごほんごほん、いやいや、全然重くないよね。最近の若い子達がおかしいんだよ。みんなダイエットしすぎだよ。健康的な身体が一番美しいんだよ。
「閃いた。食べた分だけ運動してカロリー消費すればいいんじゃない?」
「それができないから脂肪になるんだと思うんですけど」
私が皮肉を込めて「じゃあ店の中で縄跳びでもしましょうか」と言ったところで、店の裏から再び瀬川君が現れた。彼は先程と同じように真っ直ぐ店長の方へ近付く。
「店長、ちょっと」
瀬川君が声をかけて、店長が立ち上がった。私はすでに背中を向けた瀬川君を呼び止めて、尋ねる。
「待って瀬川君。瀬川君って体重何キロ?」
私の突拍子もない質問に、瀬川君は振り返って当惑した顔を見せた。
「……何で?」
「いや、何となく」
瀬川君は「春に量った数字は忘れたけど……」と前置きしてから答えた。
「たぶん、荒木さんより重くて店長より軽いと思う」
「うん、私もそう思う」
瀬川君は「よくわかんないけどごめん」と言って、店長と共に裏の暗がりへ消えてしまった。私はその背中に「参考程度だから」と弁解臭く投げかけた。まぁ参考にしようにも、男性は筋肉がついている分重くなるだろう。瀬川君に筋肉がついているかは正直疑問だが。
しかし、男性に体重を尋ねても自分の体重がアウトかセーフかわからないな。私と身長の似ている女の子といえば……。鳥山さんは教えてくれないだろうなぁ。あとはスフレちゃんの身長もほとんど私と変わらないが、あの子は骨と皮しかついてなさそうで参考にできない。聞いたら私がショックを受けるだろう。
午後八時半、カウンターでファイル整理をしていた私に、店の裏から出て来た店長が声をかけた。
「雅美ちゃん、そろそろ帰る?」
「あ、はい、お願いします」
私はファイルを本棚に片付けると、エプロンの紐を解きつつ自室に荷物を取りに行った。戻って来るともう店長はカウンターの近くで外に出る準備を終えていた。
車に乗り込むと、今日は私が先に口を開いた。
「そういえば、今日何かあったんですか?やたら瀬川君が店に出て来てましたけど」
また私だけ仲間はずれ、という不満は見せないようにしてさり気なく尋ねる。店長は普段の雑談と同じ調子で答えた。
「昨日の夜急な仕事が入ってさ」
「私が帰ったあとお客さん来たんですか?」
「ううん、雅美ちゃんが帰るちょっと前に、個人的な仕事」
昨日私が帰るちょっと前、何かあっただろうか?店長のスマホが鳴ったかどうか、記憶を辿るがそんな細かいことは思い出せない。もっと突っ込んで聞きたいが、「個人的」という単語を使われると途端に聞きにくくなる。
「個人的な仕事なのに瀬川君も関わってるんですね」
「うん、リッ君がやる気出してるからね」
瀬川君がやる気出すような仕事?検討もつかない。第一、瀬川君は仕事に対してはいつもやる気を出しているんじゃないのか?あの人仕事くらいしか楽しみがないのだと思っているのだが。
結局詳しい内容は聞き出せないまま、黒い車は私の家に到着した。昨日と同じように手早くお礼を済ませて家に入る。今日もストーカーはいつもの場所で私が来るのを待っているのだろうか。
家に入るとリビングからひょっこり顔を出したお母さんの「おかえり」に安心した。いくら自転車が直ったって夜道を一人で帰ることに変わりはない。あのストーカー野郎を早急に何とかしなければ。