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9.Zo3110q

 カーテン越しに柔らかな日差しを受けて起床。窓を開けると、まだ冷たい風が私の髪を揺らした。服を選んで寝巻を脱いだ。今日はまだ、少し肌寒いだろうか。

 ブラウスの上から薄手のカーディガンを羽織る。白と萌黄だから木賊(とくさ)だ。四季通用だけれど、そもそも萌黄が春夏の色だから、つまりこれは十分に春らしい。


 それよりも朝ごはんの支度だ。なんだか無性に玉子のサンドイッチが食べたい。ダイニングチェアに掛けていたエプロンを手に、キッチンに立つ。


 まずはマヨネーズ。卵を一つ出して、卵黄と卵白に分ける。両方取っておくけれど、使うのは卵黄のほう。ここにお酢、レモン汁、塩を混ぜ合わせる。これは一旦放置。

 卵を茹でる間、レタスを洗う。少量でもボリュームが出るサニーレタスだ。洗って水気を取った。卵はまだ茹で上がらない。この間に卵白をどうにかしよう。卵一つ分。そんなに多くないのが悩みどころだ。


 少し考えたのち、アンチョビを細かくして卵白に混ぜる。パンに塗ってそのままトースト。あ、しまった。サンドイッチも作るのに、がっつり主食にしてしまった。

 気を取り直して作業再開。ゆで玉子は鍋から出して冷やしておく。その間にマヨネーズ作りを再開。さっきのマヨネーズのもとに、油を足して泡立て器で攪拌。これはなかなか重労働。いささか緩めのマヨネーズが完成した。分量を間違えたかな。もしくはもう少し混ぜた方がいいのかもしれない。


 マヨネーズを混ぜ直していると、玉子が茹で上がった。疲れたからもうこれ以上混ぜなくていい。ゆるすぎなければそれでいいのだ。

 玉子は冷水にさらして殻を剥いて、刻む。私は白身の食感が残っている方が好き。少し大きめに切って、マヨネーズと和える。それをパンに挟めば、本日のメイン、玉子サンドの完成だ。

 それから玉子がはみ出ないように、食べやすい大きさに切る。サニーレタスも生ハムと一緒に、バターを塗ったパンにはさむ。二種のサンドイッチセット。これでタンパク質と糖質、脂質、ビタミンの摂取は完璧だ。


 トーストもいい感じに焼けている。お皿に盛り付けて……うん、やっぱり何か緑を足そう。

 ルッコラとラディッシュに玉ねぎのドレッシングを合わせる。お手軽サラダだ。このドレッシングを作るのは少々大変なので、正しくはそこまでお手軽でもない。何と言ったって、玉ねぎを刻むのには涙と戦う必要がある。刻んでは離れ、刻んでは離れを数回繰り返して、ようやく玉ねぎを刻み終えた。私の目はデリケートなのだ。


 外は本当にいい天気。ピクニックに最適かもしれない。やかんに水を入れて火にかける。お湯が沸くまでのあいだに、サラダとトーストを手早く胃に収めた。味、香り、食感。すべてが申し分のない出来だろう。

 お湯が沸いたらポットを温めて、しばらくしてから中身を入れ替える。均一な温度のお湯で淹れた紅茶は、香りが違うらしい。残念ながら私にはそこまで判断できる味覚が備わっていないけれども。

 紅茶の入ったポットはサンドイッチと一緒に籠に詰めて。ショールをはためかせながら、私は家を出た。


 小高い丘を登りきると、開けた場所に出る。色とりどりの花が咲き乱れ、青空がどこまでも続く。コントラストの効いた鮮やかな世界。

 桃源郷、アルカディア、ティル・ナ・ノーグ。それらは伝説の場所だけれど、この世界にも負けじとも劣らない景色が存在するのだ。この世界、人工の世界に。

 死を畏れた人類は、ついに電脳空間にて存在することを可能にした。それだけの技術を得た。私は再構築された存在。もはや老いることも死ぬこともない。永遠に見たいものだけを見て、自己を甘やかし続けて、ただひたすらに無為な時間を過ごす。

 終わることのない私に、救いは訪れない。この美しい世界もまた、救われることはないのだ、永遠に。


 紅茶を注ぎサンドイッチを広げると、湯気の向こうに真っ黒いノイズがあるのが見えた。何事かと思い目を凝らす。ノイズは広がり、縮み、木々を呑み込んで成長していくようにも見える。バグだろうか。


 重力操作を切って飛んで様子を見に行きたいところだったが、下手に近寄ると私も呑まれるかもしれない。それにそんなことができるのは管理人だけだ。一住人である私にそんな権限はない。私はあくまで、地球上で暮らす人間のようにしか振る舞えないようプログラムされている。カップに注いだ紅茶だけ飲み干し、あとは慌ててバスケットに詰めた。幸か不幸か、胃の容量は決められていない。食事は趣味として捉えられるのだ。おかげで食後の全力疾走は、私の不快感を呼び起こさない。


 持ってきていたものを引っさげて、家のほうに走る。それと同時にパネルを開いて管理人に通報。B2地区北東の森にて謎の黒いノイズ発生、っと。未だに方角の概念があることには疑問しかないけれど、仮想空間と言えども太陽が昇り月が沈むのだ。そこまで不思議ではないかもしれない。

 通報して一安心するが、仮想空間の管理者が誰なのか、私は知らない。この世界にやって来て何年が経ったのかすら曖昧だ。AIではないからすべてを正確に覚えておくことはできない。私に割り当てられている容量は決まっているから、いらないものはゴミ箱に捨てる必要があるのだ。


 容量の圧迫を防ぐため、消去はゴミ箱を空にすることと同義で、つまりDelete(残さないことに)したData(記憶)は永遠に戻らない。人だった頃には記憶の容量なんて決まっていなかった。その代わりにどんなことでも朧気に覚えていられただろう。今の私には許されていないことだ。

 記憶容量を呪いながらも、無事に家に着いた。中に入ったが平屋なので、窓からは向こうがどうなっているのか見えない。

 実情すら分からない管理人。その存在は、私の生活にも密接に関わっている割には現実味のない存在だった。ここに私がいるということは、私が入っている機械に電力が供給されているということ。つまり外の世界が続いているということでもある。まだ機械が廃棄されていないなら、管理人も存在しているはずだ。彼か彼女かがこの事態に気がつくことを、ただただ祈った。

 しかしそんな祈りも虚しく、ノイズは私の家まで迫ってきた。ランチボックスの中身をテーブルに広げて昼食を採っていたときのことである。急に壁の一部が急に黒くなったと思ったら、すぐだった。家が裂け目に飲み込まれる。いつか読んだファンタジー小説を思い出した。虚無に呑まれては戻れない。そこだけ失ってしまう。主人公は逃げられたけれど、主人公ではない私に、きっと逃げ場なんてないのだ。呑まれてしまうならと、私は意を決して裂け目の中に飛び込んだ。

 その後も私の意識が消失することはなかった。世界が黒いのは、どうやら世界を構築するプログラムに異常が生じていることが原因らしい。私の意識はこの世界の中でしか維持できない、と思う。だから世界は消えていない。真っ黒になったけれども確かに残っている。

 世界の見た目はどんどん崩れるけれど、足場がなくなっても座標は残っているらしく、私は真っ黒な空間に足をつけて浮いていた。電脳世界の住人ではあるものの元は普通の人間である私には、今の状態が理解できない。少なくとも私はまだ私だった。

 黒い空間では、意志によって移動することが可能だった。私は電子化されているので食事も睡眠も必要ないけれど、暇にはなる。できるだけ生前の生活の続きを営んでいたいという欲求もある。管理者権限を手に入れなくてはいけない。私は自分がサーバー上のどこにいるのか分からないし、ここから出て自分が無事でいられるかも分からない。一度は死んでいる身のはずなので、もう怖いものはないぞとそこら中をうろついた。


 あるとき突然に黒い視界が切り替わる。そこは0と1で構築されていた。そうだ、コンピューターは二進数で物事を処理するんだった。下手に数字を足したり並び替えたりすると、私の存在が消えてしまうかもしれない。

 今度は0と1の世界をさまようことになってしまった。私の実体は既に無いけれど、私は私の実体を認識している。私は存在しない手で存在しない頭を抱えた。


 そうしていると、急に目に見えるものが変化した。というより急に真っ黒でも0と1でもない空間に放り出された。ファイルが実行されたか何かだろう。こうして電子空間に存在するのに、コンピュータのことに全然詳しくないなんて。なんだか笑える。落ち着いて状況を確認すると、何やら色々な情報を得ることができた。


 あの空間は、データ移行作業の失敗の産物らしい。私がいるのはどこかのサーバーで、新システムのベータシステムを実行するところだった。それが私の入っているソフトと競合してあんなことに……というところだろうか。現状を正しく把握できている気がしない。

 私にとって便利な感じになってしまったので、まずはフォルダの階層を移動してみる。ファイル名はアルファベットばかりで、どういうデータが収められているのかという手がかりは得られそうにない。

 しばらく辺りを彷徨って、ついにネットへの進出方法を発見した。でもこれってどこかにあるモニターからは、全く触っていないのに検索ボックスに文字が入力されて、とってもシュールなのではなかろうか。


 ある程度要領を掴んだ私は、四六時中ネットの海を漂った。記憶容量を増やすために、私を構築するプログラミング言語を学んだ。食事も睡眠も必要ない私はもはや、仮想空間の住人ではなく、ネット世界をまたにかけて存在するただのプログラムだ。


 大海では、嘘も真実もないまぜになって存在している。少なくとも、科学の進化には目を見張るものがあるというのは本当だろう。しかし人類の未来は暗いものに思えた。人類、というより日本の存続のために何かがしたい。人類を救うことはできなくても、日本のために手を差し伸べすくらいならできるだろうというのは私の驕りだ。

 全日本人のあらゆるデータはすべて管理されている。一人ひとりに番号が付けられていて、名前なんてものは便宜上の識別記号にすぎない。あらゆる知識を身に着けた私にとって個人情報データベースへのアクセスは難しくなかった。


 世界中のスーパーコンピューターを乗っ取って、何ヶ月もかけてシミュレーションした。技術者たちにとっては大迷惑だろうけれど、日本のために諦めてほしい。そうして手に入れた人類の性格等のデータをもとに、世界のシミュレーションを開始。日本の救済に最も適合したのは小学生だった。

 計画実行のための味方がいないから自分ですべてなんとかしなくてはいけない。幸運なことに別の研究室で、間抜けな研究者がロボットにケーブルを繋いだまま、パソコンをシャットダウンせずに退室したことがあった。そのまま人間そっくりのロボットを拝借する。問題はケーブルを外したあとなんだけれど、インターネット環境を整備して常時ネット上の「わたし」が細かい操作を行うことにした。ポケットルーターを手に入れて建物を抜け出して向かうのは、選ばれた一人の少女が住む街だ。


 計画は順調だった。藤井優里奈は確かに私の拠点にやって来た。一つ失念していたのが私の名前。管理番号を名乗るわけにはいかないけれど、咄嗟にそれらしい名前を考えることもできない。未来を変えるために来たから「みらい」と名乗った。人名としても問題なさそうで、藤井優里奈は特に何も言わず、自身の名前を告げる。


 ひとつ誤算だったのは研究所が実は私の存在を把握していたこと。そして必死で探していたこと。それは確かにハッキングしたりロボットの体を泥棒したりしたのだから当然ね。結局計画は段階を踏まずに、前倒ししなくてはいけなかった。藤井優里奈個人を巻き込むことは私の本位ではなかった。ましてや石田智紀もだなんて。彼のことは完全に想定外だった。あのデータベースの情報はその個人のすべてではないのだろう。完璧なシミュレーションには数ヶ月では足りないのだから、当然の結果とも言えるけれど。


 結局私は藤井優里奈のついでに石田智紀にもトラウマを植え付けた。私のエゴで巻き込んだ彼女たちがそれ以上の被害を被ることがないよう細心の注意を払い、二人が去ったことを見届けてあと片付けをする。原状復帰で家を廃墟に戻し、そして私はわたし自身を消去(Delete)した。

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