6.可能性の幅
「藤井、どこ行くんだ?」
地下通路の前で、優里奈は石田に声をかけられた。講習が終わり、直接みらいのところに行こうとしたら石田の目に止まってこうしてつかまっている。どうして着いてきたのかは疑問だが、相手にしている暇はなかった。
「向こう」
簡潔に答えた。
「私、急いでるの」
そう付け足して自転車のペダルを踏みこむ。石田が何か言いたそうな顔をしていたけれど、関係ない。優里奈は大通りまですいすいとこぎ進め、念のため信号が変わるまで待っていた。
その間、町の方を眺めながら昨日のことを思い出していた。ここはまるで別世界だ。町にあるものが全然ない。唯一の共通点といえば、鉄筋コンクリートの建物があることだ。でもみらいの家では普通に電気もガスも水道も使えていた。人が住める環境が整っているのに、どうして誰も住んでいないのか。
ふと目線を移すと、こちらに向かって誰かが走って来るのが見えた。大人にしては小さい。どうやら石田が追いかけてきたようだ。自転車と徒歩では徒歩が圧倒的不利だ。諦めの悪さを感じる。石田は息を切らしたのか、肩で呼吸をしながら言葉を紡いだ。
「待てよ、藤井。さっきのは、答えになって、ないだろ」
「向こうに行くっていう答えはだめなの?」
「だって、こっちには、何もないじゃないか」
石田の言うことは当たっている。しかしはずれでもある。
「友達があそこの住宅地に住んでるの」
優里奈には、石田が一瞬、変な顔をしたように見えた。気のせいではないだろう。優里奈だってこの廃墟に人が住んでいるなんて思っていなかった。しかしみらいは確かにいるのだ。
「オレも行く」
「え?」
「あっちは立ち入り禁止になってるんだ。友達何人か肝試しにさそったことあるけど、人がいないのがこわいとか言って結局なにもできなかった。オレも行ってみんなに自慢する」
なにをどう自慢するつもりか優里奈には分からなかったが、無視することにした。石田のことだ、来るなといってもついてくる。実際今だって、こうしてついて来ている。いっそ何も言わない方がいいだろう。
優里奈が無言で横断歩道を渡り始めると、石田もあわててついて来た。ふり返らなくてもきょろきょろしているのが分かる。確かに何もなくて静かなこの場所は物珍しい。坂が急になっていくのに合わせて、二人のペースは落ちていく。優里奈は自転車から降りて、押し始めた。
道を覚えていたこともあって、みらいの家にはすぐに着いた。インターホンを押し込んでしばらくするとみらいが顔を出す。
「……友達?」
きょとんとした顔で石田のことを見ている。こんなところに子供一人で住んでいるみらいの方がおかしな人だというのに。
「まあそんなとこ。石田っていうの」
「そうなんだ? 私はみらい。よろしくね」
石田は本当に人がいると思わなかったらしく、変な顔をしていた。確かにさっき、このあたりについて立ち入り禁止なのだと言っていた。優里奈もみらいに話しかけられたときはとてつもなく驚いたのだ。こんなところに住んでいるみらいは相当な変人なのだろうとしか言いようがない。
「ケーキ焼いたよ、食べる?」
「うん」
まだ知り合って二日なのに、優里奈はみらいのことをすっかり信用していた。不思議だ。
靴を脱がずにそのまま入って手を洗う。ふと洗面所から出た時に、あのクロスステッチの絵が視界に入った。昨日はよく見ていなかったが、あれはこの辺りの風景を模したものらしい。薄い灰色の集まりは、遠くから見れば絵を形作るようになっていた。
空き家ばかりの住宅地の向こうにビルの群れ。真ん中にでかでかと、緑色でHEAVENの文字。アルファベットにはそれぞれ蔦が絡まって、ところどころ葉が出ている。
「お前ドアの前で止まんなよ」
「ごめんって」
石田の声で我に返る。そのままキッチンに入ると、色違いのパウンドケーキが三本置いてあった。
「いま冷ましているとこ。普通のとチョコと抹茶。嫌いなのがなければ全部食べていいよ」
「まじか!」
石田は食べ物がもらえると分かったとたんに嬉しそうだ。なんて単純なのだろう。みらいが丁寧に三本を切り分ける。優里奈は冷蔵庫に入っていたアイスティーを三人分グラスに注いだ。
「なんでこんなところに住んでるんだ?」
「ちょっといろいろあって。でも今月で出て行く予定なの」
「ここ学校も遠いし大変だろ。夏休みに来るってならまだ分かるけど……」
「みらいちゃん、これおいしいね!」
石田のセリフをさえぎってやる。誰にだって踏み込まれたくない事情はあるだろう。もしかするとみらいは家出っ子かもしれないのだ。
それにケーキは本当においしい。優里奈の母親がお菓子を作ることはないけれど、これが毎日食べられたらどんなにいいだろうか。
「ありがとう。ほんとはパウンドケーキって粉も砂糖も、全部同じ分量で作るんだけど、配合を変えてあるの」
その日はパウンドケーキを食べて、気のすむまでしゃべって帰った。その次の日も、また次の日も、優里奈と石田は塾が終わるとさっさとあの住宅街へ向かう。毎日みらいは違うお菓子を作って待っていた。
「この時間がずっと続けばいいのに」
焼きたてのワッフルを手に取って、優里奈はつぶやいた。
「どうして?」
「学校が始まったら毎日そればっかり。学校行って、塾行って、寝て、学校行って。自由時間なんて全然ないもん」
「それはめっちゃわかる。でも中学受験しといたほうが楽だろ? 高校受験しても三年後にはまた受験。それなら六年間そのまま何もない方が楽だし」
みらいは二人のやりとりを眺めていたが、ぽつりとつぶやいた。
「ふうん。じゃあ私は二人の平凡な毎日を非日常にしてるんだ」
それがあまりにも的確で、それと同時に優里奈は非日常がいつまでも続かないのだと確信してしまった。日常的ではないから非日常なのだ。
「終わらなければいいのに」
「本当に? 本当に終わらなければいいって思ってる?」
「そうやって聞かれると困るけど、でも勉強ばかりの毎日は嫌だ」
「じゃあ過去を変えられるとしたら?」
「変えたって何も変わらないでしょ。起こらなかった過去なんて想像するだけ無駄。受験はどこかのタイミングで絶対しなきゃいけない」
変なことを聞く。そう思っていると、石田が口を開いた。
「過去を変えたら今も変わるかもしれないよな。逆に未来を変えたら今も変わったりとかさ。それは少し面白そうだと思う」
「面白い?」
「国の政策とかでさ、もっと子供が生まれやすかったり、移民が入ってきたりしてたらここはまだ住む人がいっぱいいたかもしれないだろ?」
「確かに」
「日本の人口は減ったけど、減ってない日本は今の、この日本とは絶対違う。人のいない町が多いとか少ないとか多分それ以外にもいろいろ差があって、そっちの日本もオレは見てみたいと思う」
石田の考えは優里奈にとっては予想外だった。あまりそういうことを考えたことがないのだ。優里奈は今を生きることに精いっぱいで、もしこうだったらというものを想像することがない。
「じゃあ私が二人の平凡な毎日に、さらなるスパイスを加えます!」
唐突にみらいが突拍子もない宣言をした。
優里奈が返事をする前に、視界がぐにゃりとゆがむ。なんだか気持ち悪い。車酔いのときみたいな不快感がして、目を開けた時には真っ暗なところにいた。