5.ヘブン
向かいの家は、近くで見ると他と全然違うことが分かった。まず、庭の雑草がきれいに取り払われている。あまりにも不自然だ。ここへ来た時になぜ気が付かなかったのかが不思議なほどだった。門にまきついているのはよく見るとただのツタではなく、人の手を加えて育てられた植物で、小さな花がたくさん咲いている。庭の隅にも花が植えられていた。
優里奈は自転車を門の横に止めて、念のため鍵をかけた。カバンも持っていくことにした。
「おじゃましまぁす……」
おそるおそるドアを開いて家の中に入る。驚いたことに、玄関がない。いや、玄関がないのではなく、くつを脱ぐ場所がなかった。
壁側に、低めのシューズボックスが置いてあった。ここにくつをいれるのだろうか、などと考えていると、彼女が現れた。
「あっ。ごめんね、スリッパ用意するね」
彼女はひらひらのたくさんついたエプロンを着けていた。ひもはまだ結んでいないようだ。彼女はエプロンが落ちないようにと片手で押さえながらかがんで、シューズボックスからスリッパを取り出した。
「カバンは……リビングにでも置いて」
「エプロン、結ぼうか?」
「うん。ありがと」
エプロンにはひもが二組ついていた。それぞれ上と下で結ばなくては行けない。
ひもを手にとって、一つ気になった。今からエプロンをつけるということは、料理はできていないのではないか。
「今から作るの?」
「うん」
ちょうど結び終えたタイミングで彼女が振り返る。
「何が食べたい?」
彼女は優里奈の手を台所の方へ引いた。ダイニングの方に向いたシンクの前にはカウンター。調理台は前と後ろについている。優里奈は対面キッチンを初めて見た。
「……私も手伝うよ」
優里奈には、ほかに言うことがなかった。食べたいもの……。何だろう? 家で出されたものは普通に食べる。ものによっては、これ好きかもって思う。何が食べたいか聞かれると、分からない。別になんでもいい。
「手伝ってくれるの?」
優里奈が頷くとほぼ同時に、エプロンが差し出される。彼女が着ているのと似たような、フリルたっぷりのエプロン。もっと小さい頃なら喜んだだろうけれど、なんだか恥ずかしい。
こちらは首の後ろと背中のところで結ぶタイプらしい。優里奈は荷物を置いて、エプロンを結ぼうとした。彼女が声をかけてきた。
「さっきのお返しに結ぶよ」
「ありがと、えっと……名前……」
そういえば聞いてなかった、そんな顔をしたのが少しおかしい。
「私はね、みらいっていうの」
みらいはひもを結び終えたらしく、冷蔵庫をのぞきながら言った。
「私の名前は優里奈……藤井優里奈。あんまり今どきな感じじゃないでしょ」
「今どき?」
みらいが冷蔵庫から取り出した食材を、調理台に並べながら聞いてきた。キャベツにトマト、じゃがいも、卵などなど。何を作るつもりかは、分からない。
「おばあちゃんが付けたから……」
「そんなことないと思うけどなあ」
みらいは遠い目をして、シンクを見つめていた。シンクの向こう側にある、夢のような世界をぼんやりと眺めているような。優里奈は黙っているのが気まずくて、おもむろに口を開いた。
「……なに作るの?」
「えっとね、オムレツを作ろうと思うの」
「オムレツ?」
「そう。ここにあるもの入れようと思うの」
調理台の上に並んだ食材は、改めて見てみると不思議な組み合わせに見えた。キャベツ、トマト、じゃがいも、玉ねぎ、マッシュルーム。野菜だけでも五種類だ。さらにひき肉、鶏肉、チーズ、もちろん卵。りんごまである。
優里奈はオムレツを食べたことがない。卵料理というのは知っていたが、こんなにも具材が必要とは知らなかった。
優里奈はキノコは野菜だと思っているが、野菜ではないという人もいるようだ。
「オムレツって、こんなにたくさんいれるものなの?」
優里奈は思わずりんごを手に取った。優里奈の中ではりんごを使った料理といえばポテトサラダ。オムレツにりんごは合わないだろう。みらいは一瞬、驚いたような顔をした。それからそのりんごを見て笑った。
「オムレツにりんごは入れないよ。サラダも作るから、その材料」
「そっか」
じゃがいもがあるということはポテトサラダかもしれない。じゃがいもは好きだ。優里奈は今成長期で、食べても食べてもおなかが空く。じゃがいもは満腹になりやすいのだ。炭水化物は胃の中で水分を吸って膨らむから、というちゃんとした理由があるらしい。聞いたときにはなるほどと納得したが、日頃そういうことを気にしながら食事をする優里奈ではない。
「レシピは?」
みらいが指を向けた先に文字が浮かび上がった。このキッチンにはライトフィールドディスプレイが備えられているようだ。
「分担しようよ。優里奈ちゃんは、オムレツとサラダ、どっちを作りたい?」
どちらでもよいように思ったが、オムレツを作れる自信がなかったのでサラダと答えた。
優里奈はレシピを見ながらサラダを作り始めた。初めに鶏肉をゆでることになった。鍋の中に水を入れて、沸騰させる。沸騰するまでに時間がかかるから、その間、洗ってあったキャベツを千切りにしていた。すべて指示どおりにしていれば問題ない。包丁は普段使わないからなかなか上手に使えない。後ろで玉ねぎを刻んでいるみらいは、リズミカルな音を立てていた。
優里奈がキャベツと格闘している間に、じゃがいもが蒸しあがった。これはあらかじめみらいが準備しておいたらしい。みらいがふたを開けると、キッチンいっぱいに湯気が広がった。
お湯が沸騰したこと知らせる高い音も鳴る。鶏肉は中までしっかり火を通して、それから少し冷まし、一口で食べられる大きさに切っていく。工程を一つ終えたので優里奈はレシピを確認した。
どうやらドレッシングを作らないといけないらしい。だが作り方は書かれていなかった。
「みらいちゃん。ドレッシングって、どうしたらいいの? レシピがないんだけど」
「ああ、それ? 実はまだ好みの味になる分量が分かってないから、毎回違う作り方をしてるの」
「そんなのあり?」
みらいはくすっと笑って、優里奈にじゃがいもの入ったボウルを差し出した。差し出されたボウルの中身は、マッシュポテトを作るつもりなのか、半分くらい押しつぶされている。
「ドレッシングいまから作るから、これつぶしてね。でもつぶし過ぎには注意だよ」
みらいはそう言って冷蔵庫から調味料をなにやらたくさん出してきた。優里奈は慣れた手つきでそれらを混ぜ合わせていくみらいを見ながら、じゃがいもをつぶしていった。いつもこうして一人で料理をしているのだろうか。
ちょうどじゃがいもがある程度つぶれた頃に、ドレッシングは完成した。鶏肉も冷めていた。
「サラダ、もうすぐできるよ」
千切りキャベツと鶏肉を一緒にして、優里奈は言った。千切りと言うには少し太い気するが、初めてだということを思えば上出来だろう。
「オムレツもあとは焼くだけなの。でもそのサラダ、すりおろしたりんごもまぜなきゃいけないでしょ。すりおろすのって、結構時間かかるよ」
優里奈の手に、すりおろし器が渡された。確かにレシピには、りんごをすりおろすように書かれている。りんごをすりおろしていると、みらいが急に声を上げた。
「どうしたの?」
みらいは卵をとく手を緩めながら、ため息をついた。
「主食を用意してないの。どうしよう……」
そうか、優里奈は思った。オムライスはごはんが入っているけれど、オムレツはおかずなんだ。
そんなことを考えたとき、優里奈はパンを持っていることを思い出した。休憩したバス停で一つ食べたけれど、まだ残っている。
「少しなら持ってるよ」
「ほんとに!」
優里奈はパンの袋を取り出した。五つ入っている。
「でもね、ちょっとぱさぱさしてるの」
苦笑いしながら、優里奈はパンの袋を軽く振った。
「全然大丈夫。サラダ挟んだらおいしくなるよ、多分ね」
そしてオムレツとサラダパンが完成した。まるでラグビーボールを半分にしたような、ふっくらとしたオムレツ。食べながら二人は、お互いに色々なことを質問した。住んでいる場所、学校のこと、将来の夢。学校の友達となら話さないようなことでも盛り上がった。食事の後も、話には花が咲き続けた。
帰る時になって、優里奈は玄関に絵が飾られていることに気がついた。
「ねえみらいちゃん。これは何?」
入ってくるときには気付かなかった、大きな額縁。中にはクロスステッチの作品が入っていて、真ん中に大きく『HEAVEN』と刺繍されていた。見たことのない英単語だ。
「なんて読むの?」
「ああ、それ? 『ヘヴン』だよ。天国っていう意味なの」
「ヘブン?」
「そう。特に深い意味は無いけれど」
「そっか」
優里奈は、玄関というのは大抵ウェルカムボードを飾るものだと思っていた。入ってきていきなり「天国」などとアピールされるより「ようこそ」のほうがいいはずだ。
「明日も来る?」
「お昼からなら」
午前中は講習会がある。終わってからすぐに来たらなんとかなるはずだった。
「じゃあお昼ごはん、今度は作って待ってるから」
「うん」
「また明日」
みらいの何気ないあいさつには何も言わなかった。明日も来れたらいいけれど塾があるし、親が今日勝手に家を出てきたことに対して何か文句を言うかもしれない。
来た時と同じ格好で優里奈は帰る。坂を下り、地下通路をくぐり、また下る。優里奈の目的地は山だった。みらいの家のすぐ近くにあったのに、不思議と行きたいと思わなかった。
最後に線路の下の地下通路をくぐって、優里奈は町に戻ってきた。静けさは無い。明るくにぎやかだ。駅に向かう途中、声をかけられた。
「よお、藤井。こんなところでなにしてるんだ」
自転車に乗った石田だった。二人は優里奈は自転車を止めて、答えた。
「ちょっと出かけてただけ」
こっちの方には遊べる場所などないし、友達が一緒にいるわけでもないから、ずいぶん苦しい嘘かもしれなかった。
「へえ」
石田の返事はやけにあっさりしたものだった。優里奈はもやもやした気持ちを抱えたまま家に帰ることになった。