2.田舎と都会
タブレットの電源を入れる。教科書のアプリを起動して、指定されたページ番号を入力した。『日本は軍事的に……』から始まる文章が飛び込んでくる。前の学校で習ったところだ。
優里奈の父親は珍しい部類の人間で、転勤がある。インターネットさえつながればどこにいても仕事ができるはずなのに、そうではないのだ。普段は一人離れて暮らしているけれど、今回の転勤のあとはしばらく異動がないということで、一家揃って引っ越すことになった。そしてやって来たのがこの町だ。前にいたところと大差ない、廃墟に囲まれたビルの群れ。
五時間目の授業はつまらない。ため息をついて、優里奈は窓の方に目を移した。カーテンが開いてあらわになった窓越しにグラウンドが見える。グラウンドの向こうには道路をはさんで高いビル。そのすきまから灰色の空がのぞいている。
とても気分の下がる色だ。深い緑の山や、醒めるように青く広い空なら気分も上がるだろう。青々とした芝生の上に転がって陽の光を存分に浴びる。地平線めがけて疲れ果てるまで走る。山の頂からすべてを見下ろす。
それらはVRの世界にはいくらでも再現されている。そこでは触覚や嗅覚も感じるような気がするが、しかし目覚めれば空虚。何も覚えていない。陽の光を浴びて火照っていたはずの肌は、ひんやりと冷たい。VRはリアリティがあるだけでリアルではない。
ふと正面を向くと、先生の板書が黒板の三分の二に到達していた。午前中の授業で少々丸くなってしまった鉛筆を握り、慌ててがりがりと写す。提出物はしっかり作っておかなくてはいけない。成績は高いに越したことがない。
板書の内容は教科書と大差なかった。用語と簡単な説明。これだけでは受験はどうにもならない。近現代の出来事は情報が大体何でも詳細に残っているので、教科書本文のみならず、小さな注意書きや隅の方のコラムまで丸ごと覚えるくらいの意気込みが必要なのだ。
サリン、同時多発テロ、ISIL、世界規模のウイルス感染症。室町時代なんてせいぜい勘合貿易だとか二毛作だとかを覚えておけばいいのに、近現代にもなると短いスパンであらゆる出来事を覚えることが求められる。それに社会への影響や動きなんてものも詳細に暗記しなくてはいけないのである。
優里奈はもう一度窓の外に目をやった。雨が降る前の灰色の空だ。灰色というと、途端につまらない色に感じてしまう。グレーと呼べばかっこいいかもしれない。しかし結局のところ、曇り空にかっこよさなど感じないので無理な話だった。
終始出来る限り綺麗な字でノートを取り、授業が終わると号令に合わせてぐだぐだと礼をした。六時間目の学活が終われば、帰りの会で、それが終わってようやく家に帰れる。そういえば明日から夏休みだ。前の学校では、学期末の授業は三時間だけだった。終業式と学活、大掃除だけ。どことなく調子が狂う。
学活では夏休みの宿題が配られた。夏休みは長いから、その分宿題も多い。そこは前の学校も今の学校も変わらない。薄いサマーテキストが全教科分と、科目によっては作文だの自由研究だのもしなくてはいけない。副教科も忘れてはならない。体育、家庭科、図工、総合と盛りだくさんだ。
夏休みは年々短くなっているらしい。それなのに「お母さんが小学生の時もこれくらいあったと思うよ」なんて言われたら、文句の一つも言いたくなる。
「これで最後のプリントです」
先生がそう言ってまたプリントを配り始めた。優里奈の列が一番最初にプリントを受け取ったが、優里奈は一番後ろの席だからすぐには受け取れない。
「藤井、夏期講行く?」
前の席の石田がプリントを回しながら聞いてきた。優里奈は引っ越す前、塾に通っていた。中学受験をするつもりでいたから、引っ越し先でも通うことにしたのだ。幸いなことに駅の近くに同じ塾があったため、優里奈は教室をかえるだけになった。その塾を気に入っていた優里奈には嬉しいことだったが、気に入っていたのは塾というより教室だったことには引っ越してから気がつくことになった。でも今の塾も馴染めてきてからは結構楽しい。
「もちろん行くけど……。でも国語と英語だけ」
「へえ、よかった。オレと同じだ」
「なんでよかったの?」
石田はどの教科を取ってもよくできる。優里奈も全教科それなりにできているから母親から、夏期講習は国語と英語だけでいいんじゃない、と言われていた。
二教科しか受けないのが自分だけなら気まずいとでも思ったんだろうか。優里奈は石田のことをあまりよく把握していなかったが、そこまで細かいことを気にするタイプではなかったような気がする。
「いや……。加藤先生からは全教科受けるように言われたからさ……」
「あたしはそんなこと言われなかったけど」
加藤先生というのは、塾での担任の先生だ。一人ひとりにあだ名を付けて呼んでいる、そこ抜けて明るい人である。初めは戸惑ったがいい先生だと思っている。ふざけたことも言うのに、三者面談だと途端に真面目な顔つきになるのも特徴。優里奈にはまだ顔を使い分けることは難しそうだ。
全教科受けるように言われたというのは、二週間とかもっと前だろう。夏期講習の申し込み締め切りはとっくに過ぎている。オンライン申し込みなので期限日までは何度でも希望を変えられるけれど、優里奈はチェックを増やすことはしなかった。加藤先生はいつもの調子で、夏期講習来るんだねとかなんとか言っていた気がする。
優里奈は、石田ならわざわざ塾で復習しなくてもトップのままでいられると思った。石田は模試でいつも教室内順位が一位なのだ。塾内順位は貼り出されていないので分からないが、点数を見るに圧倒的上位だろう。優里奈は英語と社会、国語では常連だが、理科では載った試しがない。加藤先生は日々復習していると、習ったことを忘れにくくなると言っていた。学校でも塾でもゲームの話しかしていない石田が日々復習しているところは想像がつかないが、成績優秀者というからにはやっているのだろう。
夏期講習は一学期に習ったことの復習だけである。既に日々復習ができている石田には、全教科は確かに必要ないように思える。むしろ国語と英語だって必要ないのではなかろうか。
「なんかひいきだよなー」
石田は不満そうに前を向いた。ひいきされているのは石田のほうであると、優里奈は思う。ひいきというより塾の実績のために期待されているのだろう。手元のプリントに目を落とした。簡単なイラストとポップ体の安っぽいチラシのようなデザインだ。これくらいメールで送ればいいのに。
「えーっと、今配ったプリントを見てください。夏休みの過ごし方の注意です。遊びに行くときは、おうちの人に言ってから出かけましょう。あと知らない人にはついていかないように。『いかのおすし』ですよ」
先生がおきまりのセリフを言ったけれど、だれも何も言わなかった。学活も授業だ。授業中は静かな方がいいに決まっているけれど、こうも静かだとかえって不気味に感じる。
先生の話は続いているけれど、いつの間にかみんなは、帰りの用意をはじめていた。優里奈はまだプリントを持っていることに気付いて、慌ててファイルに入れた。
不良みたいなことをするつもりはないし、兄弟のいるクラスメイトたちは子供だけでゲームセンターに行っているのを優里奈は知っていた。こんなきまり、あってないようなものだ。
日直が帰りのあいさつをしたあと、クラスメイトたちはぞろぞろとドアに向かう。優里奈も帰ろうとしたが、すぐには出られそうにない。みんなが一度に帰ろうとするからだ。空くのを待っている間、優里奈は窓の方を眺めていた。最近これが癖になっている。ちょうどビルとビルの隙間から緑のもこもこしたものが見える。山だ。
「ねえ石田、あそこってどうやって行くの?」
優里奈は後ろで出る順番を待っていた石田に聞いた。
「は? どこ?」
「ほら、あそこ。山だよ」
優里奈はすきまを指さした。石田は半分あきれたように優里奈の方を見る。
「お前変わってるよな。あそこに行くには町のはしっこまで行かないといけない」
「ふぅん……行ったことある?」
「ないよ。町のはしっこから向こうは立ち入り禁止。だから山に一番近い住宅地は誰も住んでない。去年、社会の調べ学習でやったんだ」
誰も住んでいないというのは、それはそうだろう。優里奈が前に住んでいた町も、周りにあった多くの廃墟には誰も住んでいなかった。同じことを調べ学習でやったのだ。捨てられた町は立ち入り禁止になっていたが、学校の先生の引率で一度だけ見に行った。遠目にしか見えなかったが、今にも崩れそうな灰色の塊は今でもよく覚えている。
「じゃあオレ帰る」
それを聞いた優里奈も、教室を後にしたのだった。