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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

山南藩物語

風前の塵

作者: 史燕

※霜葉シリーズの続編になります。

 今回は「氷刃」の続き、主人公は新しい人物です。

 「氷刃」未読でも理解できますが、もしよろしければそちらをお読みいただくと幸いに存じます。

野中源之丞は困っていた。理由は単純だ。

「金がない」

これに尽きる。

源之丞の家は山南藩で代々定府の留守居添役を務めており、家格は百石と上士の最下位に当たる。

もっとも、半知借り上げが常態化した今日においては、額面通りの給金は望むべくもないが。

早くして父を亡くし、勤めに上がったのは前倒しにして元服したばかりの十二のころであった。

最低限の読み書きを必死になって覚え、どうにかこうにか役目をこなしてはや五年が過ぎ、今年で齢十七となる。

そんな源之丞に、側用人中井主馬から呼び出しがかかったのは、そろそろその日の勤めを上がろうかという七ツ刻のことだった。

「仕事上がりに悪いの。まあ、座ってくれ」

中井は五十を超えた陽気で温厚な人物で、藩公からの信頼も篤い。

それだけに、上屋敷の側用人という世子や奥向きも含めた、主家の家政に関わる重要な役職を任されているのだ。

「実はな、野中。お主に頼みがあるのじゃ」

入室して挨拶もそこそこに、中井は本題を切り出した。

「はあ、どのようなご用命でしょうか?」

側用人からわざわざ直接依頼されるような仕事にとんと心当たりがない源之丞は、相手に失礼にならないよう気を使いながらも、なんとも言いようのない気の抜けた反応しかできない。

「なに、簡単なことよ。この書状を本所近くの肥前屋に持って行き、代わりに今日届くはずの荷物を取ってきてほしいのだ」

肥前屋とは山南藩城下に主要な拠点を持つ江戸の大店だ。公用ならともかく、私用で飛脚を頼むのは気が引けるため、中井に限らず多くの藩士が、国許とのやり取りに際して荷物書状を預けて利用している。

わざわざ呼び出されて何事かと思ったが、多忙な側用人に代わってそのくらいのことなら頼まれてもやぶさかでないと源之丞は思った。

「もちろんタダでとは言わん。謝金は一両でどうじゃ?」

「いっ、一両でございますか!?」

一両というのは手間賃としては破格だ。源之丞程度の身分の者が一人なら、一両もあれば相当な贅沢ができる。

「一両では不服か? しかしこれからも何度か頼もうと思っておるので、これ以上となると少し手許が不自由になってのう」

「いっ、いえ滅相もございません。ぜひとも承りとうございます」

「そうか、そうか。ならば任せたぞ」

こうして源之丞は、側用人の使いとして上屋敷を出立したのだった。



結論を言えば、大した波乱もなく使いとしての役目を終えた。

小包を受け取った中井は礼金を渡すと一言「また頼むぞ」と言って、源之丞を下がらせた。

その後、月に一度や二度、源之丞は中井の頼みにより、肥前屋へと使いに立ち続けている。


大井霞という少女が上屋敷に出入りを始めたのは、源之丞が初めて中井の使いを頼まれたのとそう変わらないころだった。

あの「片手の玄蕃」の娘ということに加え、上屋敷に出入りする見目麗しい女性というのも相まって、源之丞の同輩たちはいつもその話題で持ちきりだった。

どこそこの道場へ出入りしているとか、某流派の何某に勝ったとか、話題には事欠かない女性である。

源之丞も一二度顔を見たことはあるが、凡庸な自分と“麒麟児”と噂される彼女との接点など考えるだけ無駄だと思っている。

「お近づきになりたい」などと寝ぼけたことを言っていられるのは、まだ役を継いでいない自由な身であるからであって、毎日せっせと帳簿を付け、来客の取次をしている身としてはそのような余裕などないのだ。


そんな源之丞が、時の人たる大井霞を見かけたのは全くの偶然だった。

血に濡れた太刀を下げ、力なく道端を歩いている。

よくよく見れば、返り血だろうか、着物が真っ赤に染まっている。

霞の影になってわからなかったが、小さな女の子が心配そうな顔をして、後ろを歩いている。

「大井霞」

明らかに厄介ごとだと察しが付くのに、思わず声を出してしまったのは源之丞の不覚と言っていい。

「あなたは……」

霞が声に反応した。

お互いに視線が交錯する。

顔見知り程度とはいえ、同じ藩の人間だ。

少なくともここで何もしないという選択肢は消え去った。

「おじちゃん、霞さんのおともだち?」

沈黙を破ったのは、霞の後ろにいた女の子だった。

「ゆいちゃん、その……」

「ああ、お友達だ。見たところ訳ありみたいだが、ひとまず家に寄っていかないか?」

幸いにして、源之丞の自宅はそう遠くはない。

「少なくともここでは誰の目があるかもわからないし、そのお嬢さんも休む必要があるだろう」

あたりは真っ暗だ。少なくとも幼子が一人で出歩くべき時間とは言えない。

三人は源之丞の自宅へと移動した。



藩の長屋の中でも、定府の者の長屋は一段と狭い。が、狭い中にも必要な物が揃っているので、両親を亡くし独り身の源之丞はこれで充分であった。

今日、この日までは。

「母の服がありました。これに着替えてください」

「ええ」

「湯浴みはできませんが手ぬぐいを濡らしておきました。ひとまずこれで我慢してください」

「はい」

「打ち身用の軟膏と晒です。よく効くんですよ」

「わざわざどうも。ところでお聞きしたいのだけど……」

「なんでしょうか?」

「どこで着替えたらいいのでしょうか?」

「っ!! 失礼しました」

このようないきさつがあり、現在家主であるはずの源之丞は一人部屋の外でたたずんでいた。

「源之丞、どうしたんだ?」

近所の同輩が声をかけてきた。

「いやあ、星がきれいだと思わないか?」

「ん? いつもと変わらないじゃないか」

「まあ、な。それがいいんじゃないか」

「お、おう。そうか」

同輩は足早に自宅へと入っていった。



一刻ほど経っただろうか。

「おじちゃん、入っていいよー」

「はいはい」

ゆいに呼ばれて、源之丞はようやく自室へ戻ることができた。

二人はそのまま源之丞の部屋を去っていった。

霞の身体を考えると、本来ならばあまり動くべきではないのだが、「ゆいちゃんをご両親のもとに早く返してあげたいので」と言って、頑として譲らなかったのだ。

予期せぬ邂逅ではあったものの、源之丞としては思ったほど厄介なことにならずほっと胸をなでおろした。



源之丞の日常に変化が訪れたのは、それから半月ほど経ってからだ。

いつものように中井の使いとして肥前屋へ向かった帰路に、それは起こった。

いつもと同じ往来、同じ時間、何一つ変わらないはずなのに、何かが違う。

言葉にできぬ違和感を抱えながら、鯉口を切って源之丞は足を進める。

間違っても足は止めない。

警戒はしつつも視線はそのまま。

何かある、と根拠はなくとも確信めいた予感を持ちながら源之丞は歩き続ける。

一歩、二歩――まだ変化はない。

三歩、四歩――違和感は依然として続く。

五歩、六歩――いつもと同じ景色のままだ。

そうして七歩目を踏み出した瞬間、ソレは襲い掛かってきた。

左側面から駆け抜けながらの一撃。

注意をしていてなお、慌てて前方へと飛び込まなければ避けることができない。

とっさに提灯を襲撃者に投げつけなければ、それさえもできたかどうか。

源之丞が体勢をどうにか整えようかというタイミングで、袈裟懸けの二撃目が襲い掛かってくる。それを慌てて後ろに跳び下がり間合いを外すと、ようやく腰の太刀を抜くことができた。

それを構える間もなく、右から左へと横薙ぎの一閃が放たれる。

(速いっ)

源之丞自身も一応だが武芸の心得はある。

無外流秋山道場という江戸でもそれなりの門で切紙を許されたほどだ。

とはいえ、勤め始めてからはそちらの方は疎遠になっており、故あって道場が閉じられてからは木刀すら滅多に握っていない。

そんな源之丞の事情など知る由もなく、襲撃者は源之丞を苛烈に攻め立てる。

(鋭い、だが一撃一撃は捌けないこともない)

源之丞からすれば何の救いにもならないが、襲撃者は素早く鋭い剣尖ではあるが、一撃の重さは大したものではない。

見れば、襲撃者自身も存外に小柄で、自分の懐に飛び込むような形で攻めかかっている。

(これならっ‼)

上段から振り下ろされた一撃にあえて合わせる形で太刀で受け止め、勢いを殺しきれずに弾き飛ばされた襲撃者の右足を払い体勢を崩し、倒れた相手の利き腕を極めて武装解除を試みる。

「きゃあっ」

何処か聞き覚えのある、襲撃者には似合わないやや高い声をあげて、襲撃者は仰向けに倒れる。その瞬間には、襲撃者の利き腕はすでに源之丞に極められている、と同時に、やや上に引っ張り上げられる形となったため、受身を取り損ねて後頭部を地面に打ち付けることは辛うじて避けられた。とはいえ、源之丞によって襲撃者は太刀を持ち続けることは叶わず、利き腕を取られた状態では碌な抵抗もできないが。

「いったい何者だ」

誰何しても答えが返ってくるわけもないので、右手を極めつつ、源之丞は襲撃者の顔を覆っている頭巾を外した。

「あっ、貴女はっ」

頭巾を取り払った瞬間、女性特有の甘い香りが源之丞の鼻孔を刺激する。

源之丞は驚かざるを得ない。

なにせ襲撃者の正体は意外にも女性であっただけでなく、先日知り合った大井霞だったのだから。

「抵抗はしないわ、放してくれませんか」

「えっ、ええ」

そう言われて放す必要はないのだが、思いがけない襲撃者の正体に混乱した源之丞では、冷静な判断など望むべくもない。

辛うじて霞の太刀を遠くに蹴り飛ばし、自身の太刀を突きつけることには成功する。

「それで、どうしてこんなことをしたのですか? 太刀筋に迷いもあったようですし、特に思い当たる節はないのですが」

正直に言えば、この状況に至ったという事実を「信じたくない」という願望が強かった。

ただ上役の依頼を遂行していただけで、何の因果があって家中で圧倒的な人気を誇る女剣士に襲われる必要があるのか。何より大井・森の両家老に加え、藩内でも有数の勢力を誇る高野一門を敵に回すのは、一介の定府藩士には手に負えない。ましてや、藩公のお気に入りのあの「片手の玄蕃」を相手にするなど、考えたくもない。……現に今、その娘に襲撃されたという事実は今すぐ闇に葬りたいところだ。

「………」

「黙して語らず、ですか」

まあ、刺客というものはそういうものだろう。

依頼者や目的を易々と話すようならそもそもこんな仕事を任せられるはずもない。

(もっとも、たかが十五の小娘にこんな依頼をする時点で依頼主はよっぽどの莫迦か、あるいはそこまで手駒が少ないのか)

先に挙げた家老家はまずありえない。

霞よりも刺客に使いやすい人間など幾らでも用意できる。

なんなら大井玄蕃が出てくれば済む話だ。ということは、執政職にある者はまずありえないだろう。また、国許から来てすぐ襲っていないということは、最近依頼されたと考えられる。でなければ先日愚かしくも自宅に呼び込むなどという無防備をやらかした時に襲われているはずだ。

もちろん、上意討ちはまずありえない。一人で懸かる必要がないうえ、上意討ちであることを黙っている理由がないからだ。

だとすると、江戸にいる誰かが依頼主だろう。

側用人の使いに立った時に襲われたということは、側用人はありえない。

次に留守居役だが、それならばこんなところで闇討ちせずとも、騙して殺すことなど簡単にできる。執政職の人間と同じことだ。

同輩ならば話は簡単だが、彼らが大井霞を使って襲わせるためには、まず彼女と接触し、交渉し、従わせるだけの理由を用意しなければならない。そして、とてもそれができるとは考えられない。何よりそこにかかる労力を鑑みれば、適当な理由をつけて呼び出して自身とその知り合いで仕掛けた方がはるかに簡単だ。

ということは、容易に自分では源之丞に接触することができず、なおかつ手駒がほとんど用意できない。つまり公の権力も、刺客を用意するほどの資金力もない。

そこまで考えて、今度は依頼主が自分を襲う動機としては側用人への荷物にあるのではないかと思いいたる。

「貴女の狙いはこの包みか」

源之丞の問いに、霞は答えない。

だが、この場合の沈黙は金ではなく肯定である。

少なくとも源之丞はその推測の根拠であると考えた。

「危ないっ」

その瞬間、今度は霞が源之丞を押し倒した。

器用にも、源之丞の太刀を逸らし、互いの身体に傷がつかないようにして、である。

その上を、風を切りながら一本の矢が通り過ぎた。

「飛び道具とはどういうことです。荷物さえ奪い取れば済む話では無かったのですか」

深い暗闇の向こうに向かって、霞が声を荒げる。

「それに貴女が失敗したからでしょう。“山南藩の麒麟児”さん」

やや年嵩の、三十代頃の女性が暗闇の中から姿を現し、言った。

「あら、それももう形無しね。無名の一藩士にあんなにあっさりと負けちゃったのだから。気分はどう? 元“麒麟児”さん?」

そう言うと今度は霞に向かって、女は矢を放った。

源之丞には事情が分からない。だが、少なくとも目の前の女は自分の敵であり、さらには霞とも友好な関係ではないらしい。

(とはいえ、飛び道具はなかなかに厄介だな)

「私だけじゃないのよ、やりなさい」

女が手を挙げると、これまでは建物の中に控えていたのであろう。

四人ほどの女たちが長刀を持って現れた。

(女ばかりか、何故こうも!?)

別に女だからどうこうというつもりはないが、刺客が全員女というのは気になる。

金で雇うようなその道の人間にしては、夜道で襲撃など下の下だ。

もし女であることを利用するような刺客ならば、もっとうまく自分を殺すだろう。

(太刀筋は正統な物。ということは武家の出身か)

左右から切り込んできた刺客を躱しながらそんな感想を抱く。

躱してみても、女たちの技量そのものは「それなり」でしかない。

大井霞とは一枚どころか五枚も六枚も劣る。

(連携もそこまでできていない。ということは、即席で集められた人員ということ)

源之丞と霞の二人に対して二対一の構図にして、さらにこの集団の首領であろう女が矢を射かけて牽制する。それ自体はいい。

しかし、射線への誘導などなく、軒板や壁を使って剣尖を遮るのも容易い。動きも直線的で単調であり、お世辞にもうまく連携しているとは言えない。

少なくとも、道場はともかくこのような形で戦うことには到底慣れているようには見えないのだ。

(大井霞と一緒に六人で懸かられたらこうもいかなかったろうが)

源之丞は二人の攻撃を往なしながら、弓を持つ女を中心に弧を描くようにして近づいていた。反対側では、霞の方も同じような位置にいる。気づけば、先ほどは十間以上はあった距離が、すでに一間ほどになった。

これには、当然女も気づいて距離を取ろうとするが、霞の方にも近づけないため、退路を制限され、いつの間にかこのようなことになっていたのだ。

「やあっ」「えいっ」

という道場の指導そのままに放たれた気合と、それに合わせて振り下ろされた二本の長刀を、大きく首領の方に飛び込むことで躱し、そのままの勢いで首領の左手にある弓を真っ二つに叩き切る。

これに対して、腰の刀を抜いて対応しようとするが、今度は霞に右手を押さえられ、当身を当てて昏倒させてしまった。

「さて、そちらの頭はこうなったわけだが、まだ続けますか?」

源之丞が問うと、女たちは大人しく自分の武器を手放し、投降した。



「それで、今度こそ詳細を話していただけますよね?」

女たちを近くの家から購った縄で拘束すると、改めて源之丞は問いかけた。

さすがに命を狙われた後でまで、義理立てすまいと考えてのことだ。

「私は縛らなくていいのです?」

霞が不審そうに尋ねた。

手にはご丁寧にも縄を一本持っている。

「生憎、同胞を縛る縄は持ち合わせていないのです。少なくとも、依頼主にとっては、貴女も立派な敵対者ですよ? “麒麟児”殿」

「それもそうですね。でも、できればその名で呼ばないでいただきたいわ」

「おや、その名は江戸にも轟いているのですが」

「敗れた相手に言われても嫌味にしか思えませんもの」

「私は好きなのですがね。“山南藩の麒麟児”殿」

「だから、やめてください」

顔を真っ赤にしながら霞は言い募った。

(ふむ、澄ましたお嬢さんかと思いましたが、なかなかどうして、可愛いところもあるじゃないですか)

内心そのようなことを思いながらも、素知らぬ体で謝り、話を戻した。

「それで、この件はいったい誰が命じたことなのですか?」

「……尾崎の方様よ」

「はい?」

「尾崎の方様よ。聞こえてらっしゃらないの?」

「ええ、聞こえていますよ。ただ、あまりにも予想外の方だったもので」

尾崎の方というのは江戸にいる藩公の正室である。藩公が国許にいる今は実質江戸屋敷の主と言ってもいい。

藩公との間に一人男子があり、ゆくゆくはこの子が山南藩を継承することが決まっている。

「……わかりませんね」

動機が、である。

仮に推測の通り「私用の使い」が問題だとすれば、命じて品を取り上げればいいだけなのだ。

隠し立てすれば、より公的な手段を用いてもよい。

いくら何でもいきなりこのような形で実力行使する必要はないのだ。

「でも、間違いなく私は尾崎の方様に呼び出されて、命じられました。貴方から小包を奪ってくるように、と」

拘束した女たちも、尾崎の方の侍女なのだという。

頭巾を取ってみればなるほど、確かに上屋敷で見かけた顔もある。

霞が語る事にはこうだ。



ある日、霞は尾崎の方様に呼ばれていると、先ほどまで弓を持っていた筆頭侍女に告げられたのだという。

それまで当然正室との面識などなかったが、確かに上屋敷の奥座敷へ案内されたという。

奥は留守居役すら入れない男子禁制の領域だが、だからこそ女の霞が目を付けられ、密談を持ちかけられたようだ。

「大井霞、よく来てくれました」

「はい」

「実は、私と世子を亡き者にしようとする者がおります。それを倒してほしいのです」

「それは一体?」

「側用人中井主馬とその走狗である野中源之丞です」

「ええっ」

「これは藩の中でも秘中の秘です。引き受けてくれますね」

「は、はい」

「よろしい」

それだけ告げると、霞は外に連れ出され、この場所で源之丞を襲うように言われた。



「以上が顛末です」

そう言われても、源之丞にはそのようなつもりは毛頭ない。

なにより、それならばなぜ側用人の企みを公にしないのか。

江戸の人間は怪しいとしても、国許や、それこそ藩公に伝えればあとは勝手に話が進む。

そのことを霞に伝えると「国許も関わっているかもしれないと言われました」と言った。

そんな莫迦な話はない。

その気になれば、そんな迂遠な手を使わずとも世子はともかく尾崎の方くらいなら何とでもなるのだ。

中井の独断だと言う方がまだ説得力はある。

「念のため、側用人様を問い質してみましょう」

そう説明して、その日は霞と源之丞は分かれた。

女たちは、源之丞が自室へ放り込み、源之丞自身は外泊した。

別に源之丞はそのまま自宅で寝てもよかったのだが。

「はっ、破廉恥です」

という霞の強い主張により外泊することとなったのだ。

(麒麟児殿も十五の子供ですからねえ)

自身が十七の源之丞が抱くべき感想ではないが、さすがにこれを口にはしなかった。



翌朝、源之丞は霞と連れ立って、中井のもとを訪れた。

「何用かな」

意外な組み合わせに訝しむ中井に、二人は昨夜の出来事を話した。

「ふむ、事はそのようなところまで進んだか」

二人の話を聞いた中井は、動揺することなく事態を冷静に受け止めていた。

「巻き込まれてしまったお主らには悪いが、これは想定していた事態なのじゃよ。まさかこうまで露骨に尻尾を出すとは思わなんだが、な」

中井は二人に説明を始めた。

事の起こりは半年ほど前の事。

側用人である中井は奥向きの帳簿がそれまでよりも二分ずつ高く支払っていることに気づいた。

その月だけであれば誤差の範疇かと思いもしたが、念のために確認してみるとその前の三ヶ月もずっと昨年よりも各項目がきっちり二分ずつ多く支払われていた。

そして、ある日誰にも告げずに尾崎の方の侍女がこそこそと隠れるようにして上屋敷を出ていった。後を尾行してみると、肥前屋に何かを預けている。

侍女が帰った後、肥前屋に慌てて駆け込み、「先ほどの荷物は侍女の間違いだ。確認のため持って帰る」と告げて、回収した。

「するとな、石見銀山だったのじゃよ」

石見銀山とは、毒物(ヒ素)の隠語である。

無味無臭で食事に混入しても気づかれにくく、確実に死に至る。

しかも、同封された指示書には対象は藩公だというのだから一大事だ。

この件についてはすぐに国許に連絡し、尾崎の方の荷物は適宜肥前屋から回収してもらい、毒薬はただの水にすり替えていたのだという。

「源之丞はともかく、霞は祖父の筆跡を見知っておろう」

そう言って中井が取り出したのは森陸奥守の直筆で書かれた書状であった。

ご丁寧に大井飛騨守の連署まである。

「間違いありません。お祖父様と、本家様の署判ですわ」

「うむ、これで得心したな。もし不安ならばそちらから国許に問い合わせてもよいぞ」

そう言われても、執政職の書状に、自身が命を狙われた事実を考えれば、おのずと結論は出る。

「側用人様」

意気消沈する霞をよそに、源之丞は中井に尋ねる。

「側用人様は、某を囮にされたのですか?」

命の危機があったのだ。源之丞としてはなあなあで済ませる訳にはいかない。

「その可能性は低いと考えていた。だが、考えなかったわけではない。もっとも、まさかここまで直接的な手を使うとは思わなんだが……。済まなかったな、この通りだ」

中井はその場で頭を深く下げた。

十代の若造に五十の峠を越えた重役が頭を下げて身じろぎもしないのだ、源之丞にしてみれば堪まったものではない。

「いいです。わかりました」

「本当にか」

「ええ、ええ、よくわかりましたとも」

「それならいいんじゃがの。この老いぼれの首一つや二つ、事が済めば呉れてやるぞ」

「結構です!!」

なんとなくいいようにしてやられた気もするが、手紙一つで一両はおかしいと思っていたのだから仕方がない。



その日のうちに、捕物は行われた。

尾崎の方とその侍女たち。

決定打となったのは霞の証言と源之丞たちが捕らえていた筆頭侍女の存在である。

尾崎の局の指示書も国許で賄い方の者が所持しているのが見つかったこともあり、大きな障害もなく処分は行われた。

大井霞も関係者として処罰されたが、刑は国許への帰国を二年禁じられただけであった。

少なくともこのまま江戸で暮らす分には問題ない。

源之丞へは改めて迷惑料も含めた謝金が百両は下らないほど与えられたそうだが、源之丞は大金に恐縮しきってしまって、逆に中井たちを困らせたという。


それともう一つ、源之丞の身辺では変化したことがある。


「源之丞様、今日もお相手願います」

「いや、その、今日は少しばかり所用があってですね」

「では一緒にそれを終わらせてからお相手願います」

「いや、その、困ります」


ほぼ毎日押しかけてくる“山南藩の麒麟児”の稽古相手を務める羽目なっているのだ。

「私の剣をあそこまで美しく華麗に躱して受けてくださったのは源之丞様だけです。その技術に関してはお父様以上です」

となぜか霞に目をつけられてしまった。

中井たちにも

「秋山道場の切紙を許されたほどなのだから、役向きに支障がなければいくらでも稽古に励むがよい」

となぜか霞にお墨付きを与えてしまった。

なんでも藩公にまで話が伝わり、左衛門佐自ら次の御前試合に推薦しようと画策しているそうだ。


「そもそも切紙程度がやっとなので。ほぼ素人に毛が生えた程度ですからね」

「かつての秋山道場の切紙は他門の皆伝に等しいと聞きました。免許を貰った高弟はほんの一握りでしかないそうですから」

「いやいや、免許持ち二十人単位でいましたから。切紙程度掃いて捨てるほどですって」

「じゃあ私と試合して半刻持ったら考えます。三本のうち一本も取れなかったら今後付きまといません」

「そうして本当に一本も取れないと、『もう一回、もう一回お願いします』と付きまとってくるのだから始末に負えないのですよ」

「そっ、そんなことありませんから」

「信じられませんよ!!」


「ああ、休みたい。自由になりたい。そもそも剣なんかもう見たくもない」

そう嘆く源之丞をよそに、今日も今日とて大井霞は源之丞を連れていくのだった。


この小説に登場する人物・団体はフィクションです。


皆さまお久しぶりです。

今回は凡庸(自称)な野中源之丞君が新しい主人公としてのお話です。

凡人が我らが霞ちゃんの一撃を避けれるわけがないんですよねえ。


なお、秋山道場の切紙=他門の免許皆伝というのはさすがに嘘ですが、某剣客で商売をしているご隠居曰く「源之丞は逃げる技術は皆伝じゃな」とのこと。

やっぱり凡庸じゃないですね。

風前の塵というタイトルは主に”塵”(=源之丞)を意識して付けましたが期待を裏切る内容だったと感じられたら申し訳ありません。

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