『常に貴女の傍に』
気がつけば、生まれていた。
気がつけば、学校へ入学して。
気がつけば、親衛隊に入隊していた。
そんな『気がつけば』ばかりの人生を生きてきた。
エンジェリカの王都で貴族の家に生まれた私は、天界学校を首席で卒業し、親衛隊に入隊した。私にはルッツという二つ年下の弟がいたが、彼も天界学校を首席で卒業して親衛隊に入隊した。私とルッツは同じような人生を生きてきたからか価値観も合い、兄弟二人で共に行動することが多かった。
私は弟が誇ることのできる兄であろうとした。戦闘、教養、すべてにおいて弟が、ルッツが誇れるように。恥ずかしい思いをせずに済むように。立派な兄であろうとした。
親衛隊員として働いていた時代、まだエンジェリカへ嫁いできたばかりの王妃を助けたことがある。
その日、私はルッツと見回りがてら王宮を散歩していた。そんな時だ。気のきつそうな侍女たちに絡まれている彼女を見たのは。
「ちょっと貴女、勘違いしてるんじゃなくて? 王妃になったからってそんな偉そうに!」
「若いから王に愛されているのよ。勘違いしないでほしいわ」
自分たちより後からやって来た若く美しい王妃に、古参の侍女たちが嫉妬したというだけのことだろう。だが罪のない王妃がいじめられるのも可哀想だと思い、私は声をかけた。
「すみません。王妃、今少し構いませんか?」
私は王妃を少し離れた場所へと呼ぶ。
「あっ、あの……えと……」
王妃は突然のことに戸惑いオロオロしていたが、少しすると落ち着いてくる。
「ありがとうございます。親衛隊の方……ですよね?」
「はい」
「ありがとうございます。もしよければ……お名前を聞かせていただけませんか?」
王妃と話したのはこの時が初めてだったが、彼女はとても丁寧な女性だった。若く美しく、それでいて礼儀正しく嫌みのない、完璧に近い人。
「エリアスです」
「では、これからエリアスさんと呼んでも構いませんか?」
「エリアスで結構です」
「呼び捨てですか……、はい。ではそのように努めます。今日は助けていただき、ありがとうございました」
彼女は別れ際にもう一度丁寧なお辞儀をした。
「兄さん、王妃と一体何を話してたんだい?」
私と王妃が別れた後、ルッツが不思議そうな顔で尋ねてくる。事情を説明すると、ルッツは「ふうん」という曖昧な返事をした。
それから王妃はよく私に話しかけてくるようになった。
「私、エンジェリカには知り合いがディルク様しかいなかったので……エリアス、貴方と知り合えて良かった。心強いです」
彼女は度々そんなことを言ってはあどけなく笑う。笑う時に口元を隠すガラス細工のような繊細な手が印象的だった。
初めのうちは夫がいる女性と話すということに違和感を感じるばかりだったが、そんな小さな違和感は、じきに消えた。
「兄さん、今日もまた王妃と話してたのかい?」
ルッツは王妃についてよく聞いてくる。親衛隊員と王妃。本来なら友のように時間を共有するなどありえない立場だ。気になるのも当然といえば当然かもしれない。
「そうだ。今日は王宮の中庭に行って植物についての話をしていた。王妃はアイーシアいう花が好きらしい。今は蕾だがもうまもなく咲くと言っていた」
私は無意識に王妃との楽しかった話を続けていた。
「……随分仲良しなんだね」
ルッツが静かに言う。どこか寂しそうな表情で。
それでもまだ私はルッツが変わりつつあることに気がつかなかった。
それから二年が経ち、王妃は一人の娘、つまり王女を生んだ。王妃によく似た愛らしい王女は『アンナ』と名づけられた。エンジェリカがお祝いムードに包まれている最中、私は突然王妃に呼び出された。場所は彼女の自室だった。
「ごめんなさい、エリアス。急に呼び出したりして」
「いえ。どうしました?」
彼女の腕の中には生まれたばかりの王女が眠っている。
「あのね、エリアス。この子……アンナを、お願いしたいの」
意味が分からず私は首を傾げる。
「侍女のヴァネッサにも同じようなお願いをしたのだけど、エリアス、貴方にもお願いしておきたいの。貴方は今やこの天界では一番強いと言っても過言ではないでしょう。そんな貴方にだから頼めるのよ。もし私に何かあったら……アンナを護ってほしいの」
「そんなことあるわけがない。王妃の身に何か起こるなど、そんなことが……」
彼女はいつになく真剣な表情をしていた。
「いつ何があるかなんて、誰にも分からないものよ」
だが、すぐにいつもの柔らかい表情に戻る。
「……と言ってもそんなことは起こらないと思うけど。エリアス、お願いしてもいい?」
「分かりました」
私は深く考えることなくそう答えた。王妃の願いを断る理由はない。
その日の夜、そのことを話すとルッツはとても驚いていた。
「親衛隊員にそんなお願いをするなんて変だね。命を狙われている覚えでもあるのかな?」
確かに心当たりがあるから頼むのが普通だろうが、もし何かあるならそれをあの場で話したはず。
「そんなことは起こらないと思うけど、と言っていた」
「ふうん。そうなんだ」
ルッツはいつもと変わらない曖昧な返事をした。
「ただ、王妃に頼ってもらえるとは嬉しいものだ。これでますますルッツが誇れる兄に」
「……何だよ、それ」
私の言葉を遮った彼の声は揺れていた。
「兄さんは俺のことをどこまで馬鹿にしたいんだよ……」
震える声でそんなことを言うルッツを、私は信じられない思いで見つめる。
「ルッツ、何を言っている? 私はお前の兄として」
「意味不明なんだよ!!」
声は怒っているのに、悲しい顔をしていた。ルッツが怒声を放つところを見るのは初めてで私は戸惑う。
「兄さんは知らないんだ! 兄さんがいたから、俺がどんなに惨めな思いをしてきたかっ!」
「ルッツ……?」
「戦闘でも勉強でも、俺はずっと兄さんと比べられてきた! 学校を首席で卒業した時だって、認められることはなかった!」
私はルッツがそんな風に思っていたという事実に愕然としていた。今まで一度もそんなことは言っていなかったから。
「違う、私は……」
「俺は今でも努力を続けている! それなのに、女遊びしている兄さんに勝てない。それどころか距離は広がるばかり。こんなのおかしいだろ!」
ルッツが私に向ける視線はとても冷ややかで、心を突き刺されるような感覚だった。
「でもいつか必ず兄さんを越える。そして俺を兄さんと比べたやつらを見返してやるんだ」
私は何も言えなかった。今の彼にかける言葉を見つけられなかったのだ。
「覚えてろ。俺はいつか兄さんを倒す。地位も名誉も愛も、すべてを奪って、惨めな思いをさせてやるから」
それを最後に、私とルッツの友情は途切れた。
気がつけば、王妃は亡くなっていた。ある日突然この世を去った。私は彼女の死の理由を知ることはできずじまいだ。
私は日に日に王妃に似てくる王女から目を逸らした。王女の傍にいたら、彼女と別れる時が来るのを恐れ続けなくてはならない。それが嫌だったから。もう辛い思いをしたくない——、ただそれだけの理由で、私は王妃の願いを叶えられなかった。
それと同じくらいの時期だろうか。ルッツが悪魔と関係を持っていることが判明し地下牢へ入れられた。ルッツの世話は兄である私がすることになり、私は毎日食事を運ぶなどの世話をしたが、彼が私に何かを言うことは一度もなかった。そんなルッツの羽は、悪魔から得た魔気によってか、徐々に黒く染まっていく。
ある夜、私が地下牢へ行くと、真っ黒になったルッツが脱走しようとしていた。こんなことになってしまったのは私のせい。そう思うと、彼を止めることはできなかった。
気がつけば、私は一人になっていた。
気がつけば、『裏切り者の兄』と呼ばれていた。そして私はついに親衛隊を辞めさせられた。
そんな時だった。アンナ王女と初めて話したのは。
「お願い! 私の護衛隊長になってほしいの!」
どこへ行けばいいのか、明日何をすればいいのか。失意のどん底にいた私に、王女はそう言って頭を下げつつ手を差し出した。母親と同じ、華奢な手。ガラス細工のように繊細で、強く触れたら壊れてしまいそうな。
「無理……?」
緊張しているのか、王女の手は震えていた。
私はそっとその手をとる。
「はい」
たったの一言で、王女の表情が明るくなる。
「ありがとう! 嬉しい!」
この時、私は初めて自分で自分の歩む道を決めた。今までは誰かに決められた道をなぞるだけだったが、この先は違う。ここから先は自分で選び進んでいかなくてはならない。
「ですが、親衛隊をくびになった身です。ディルク王に認めていただけるか分かりません」
「それは任せて。ちゃんと説得するから!」
王女は無邪気に笑う。
運命とは不思議だと思う。こうして私と王女の手が繋がる、そんな日が来たのだから。
私は一度逃げた。王妃に頼まれていながら、王女の傍にいることを拒んだ。いつか彼女を失うのが怖い、ただそれだけの理由で。
だが、今はもう、あの頃の私とは違う。失うのが怖いなら、私が護ればいい。彼女もそれを望んでいるのだから幸運だ。
十年、いや二十年。この先どれだけの時間が経っても、私はこの日王女の手をとったことを後悔はしないだろう。
「常に貴女の傍に」
ずっと傍にいて王女を護る。それが私の選んだ道だから。