3話
3話
川へはすぐに到着した。
日差しが強いからだろうか、流れる水がキラキラ輝いていて、いつもより澄んでいるように見える。とても綺麗な光景に、あたしは暫し釘付けになった。
隣にいたノアは川の方へと駆け出す。しかし、川の手前で砂利につまずき顔面から転けた。しばらく起き上がってこないので、呆れながらもすぐに駆け寄る。
「ちょ、大丈夫?」
声に反応してゆっくり顔を上げるノア。彼は予想外にも笑っていた。
「うん、平気平気だよー」
目を凝らしてノアの顔を見ると、うっすらと膜のようなものがあることに気づく。髪と同じ薄紫の膜だ。
「その膜みたいなの何?」
「あー。転けちゃったねー」
「いや、話聞いてよ!」
するとノアはキョトンとした顔になり首を傾げる。あたしが聞いていることの意味が理解できないようだ。
聞くより試した方が早そうなので、ノアの顔に触れてみることにした。しかし、伸ばした手は薄紫の膜に遮られノアの肌に触れられない。
試してみた後、あたしは即座に気がついた。
「これ、もしかしてアンタの聖気なんじゃない!?」
天使が生まれつきまとう聖気には様々な色や種類がある。そして、聖気でどういうことができるかはそれぞれ違う。
あたしの場合は剣を作り出すことができる。しかしノアは、聖気が持つ力が何なのか知らないと言っていた。だから「防御膜を作るのがノアの力だったのでは?」と思ったわけだ。
しかし本人はというと相変わらずで、「そうなのかなー?」と言いながら笑顔で首を傾げている。話が飲み込めていないらしい。呑気というか何というか……言葉では言い表しようのないのがノアという天使だ。彼がいつもこんな調子だから、あたしは溜め息が尽きない。
溜め息をつくと幸せが逃げていくと言う。なるべく溜め息なしで済めば良いのだが、ノアと暮らしているとそれは難しい。
「とにかく魚を捕まえてー、ジェシカをお腹いっぱいにしてあげるよー」
ノアはゆっくり立ち上がると、川に向かって走り出す。走らず歩けばいいのに。安定感のない場所で走るから転倒するんじゃ——と思った瞬間また転けた。予想通りすぎる展開に呆れずにはいられない。なぜこうも不器用なのか。
「ノアはもういいよ! 魚はあたしが捕るから!」
「えー。どうしてー?」
「頼りないアンタなんかには任せられない!」
少し苛立ち、勢いよく川へ入っていく。そんなあたしの後ろから追いかけてくるノア。
「待ってよー。たまには僕がー頑張るからー」
「いいって! もう、邪魔っ!」
ついカッとなったあたしは、ノアを突き飛ばしてしまった。
彼の細く軽い体は吹き飛び、勢いよく後ろへ倒れ込む。バシャンと大きな飛沫がかかり、それで正気を取り戻したあたしは、慌ててノアに寄る。
転倒した拍子に頭付近を軽く打ったからだろうか、彼は気を失ってしまっていた。傷は見当たらないし出血もないため重傷ではないと思うが、少し心配だ。あたしが突き飛ばしたせいでこうなったというのもあるし。
あたしは取り敢えず川の外へ運ぶことに決めた。長時間水に濡れていては体が冷えてしまう。
「……ごめんね、ノア。あたしが乱暴なことしたから」
すぐにリュックを開け、タオルを取り出す。そして川辺に座り込み、ノアの水浸しになった体をタオルで拭きながら、独り言のように呟く。
「ノアはあたしのために、魚を捕ろうとしてくれたんだよね……」
その気持ちを分かっていなかったわけではない。
ノアがとても優しい天使だということは知っている。動きは遅いし情けないが、誰よりも優しい。それが彼の良いところだ。
なのにあたしは、そんなノアの心を酷い言葉で傷つけ、突き飛ばしたりなんかして体まで傷つけた。
「あたしはやっぱり……傷つけることにしか能がないのかな……。ごめん、ノア。こんなあたしと二人で嫌だよね……」
ノアは幸せを知らない。だからあたしが幸せを教えてあげないとと思っていた。だが、これでは真逆ではないか。あたしは結局、少しもノアの役に立てていない。
このままではいつか必要とされなくなる——。
ノアがあたしから離れていく日が来るのが怖い。また昔みたいに一人ぼっちで暮らさなくてはならないなんて、絶対に嫌だ。
「……ジェシカー?」
不意に聴こえたノアの声に、あたしはハッと正気に戻った。
「ジェシカ、どうして泣いてるのー?」
慌てて頬に触れてみる。
どうやらあたしは泣いてしまっていたらしい。
「悲しいのー?」
「なっ、泣いてないっ」
「ジェシカ、変なのー。泣いてるのに泣いてないって言うー」
「そういうの止めてよっ」
ノアは相変わらず呑気にニコニコ笑っている。不思議で仕方ない。彼の脳は何かが欠落しているのだと思う。けれども、そのおかげで彼はここまで生きてこれたのだろう。
普通の天使なら、天使屋での過酷な日々に耐えられるはずがない。長時間労働に加え厳しい罰など、普通ならまず心を病むだろうし、最悪自ら命を絶つ可能性も否定できない。
そんな日々を耐えたノアは、どう考えても普通ではない。
「……さっきはごめん」
改めて真剣に謝ると、ノアは目をパチパチする。謝る理由が分からない、という顔だ。
「酷いこと言って、突き飛ばして。あたしはこんな性格だから、傷つけることしかできないんだ。だから……ごめん」
あたしが言い終わった時、彼は突然あたしを抱き締めた。体を密着させ、頬擦りしてくる。ノアが何をしたいのか、あたしには理解できなかった。
川の水に濡れたひんやりした頬が心地よい。
「僕はねー、ジェシカのこと好きだよー。ジェシカは僕を大切にしてくれるもんー」
とても優しい声だった。
あたしはまた泣きそうになる。だが今度は不安による涙ではない。
「ずーっと、一緒にいたいなー」
甘えたで小動物みたいなノア。あたしはそんな彼を本当に可愛らしいと思った。
「僕を捨てないでねー」
「分かってる。アンタを捨てるわけないじゃん」
「そっか、嬉しいなー。僕、ジェシカ大好きだよー!」
「あぁもうっ! 重いって!」
◇終わり◇
読んで下さってありがとうございます。
エンジェリカの二人 —ジェシカ&ノア編— は終わりです。