『風邪を引いた冬 〜前編〜』
『風邪を引いた冬 〜前編〜』
二年前の冬のことだ。
その年はここ数十年でも一位二位を争うと言われたほどの寒さだった。外は毎日のように雪が降り続け、豪雪の日も多かった。窓の外に広がる銀世界は私の心を踊らせたけれど、雪遊びを許されるはずもなく、肌寒い自室でいつもと変わらない生活を送っていた。外へ遊びに行けたらなぁ、と思いながら。
そんなある日、私は突然風邪を引いた。部屋が寒かったからかもしれない。
高熱を出した私は、ヴァネッサによってすぐに寝かせられた。自室どころかベッドから出られない生活。窓の外を眺めることすらできなくなった。かといって寝ると悪夢を見るものだから、眠るのが怖くなり、いつになく寝不足になってしまう。踏んだり蹴ったりとはまさにこのことか。
「アンナ王女、起きられますか? お粥をお持ちしました」
お盆を持ったヴァネッサがベッドへやって来たのでゆっくりと上半身を起こす。するとツンとした香りが鼻を通る。適度な刺激を感じ、一気に目が覚めた。
彼女はベッド脇のミニテーブルにお粥が乗ったお盆を置く。温かな湯気と美味しそうな香りに、ついうっとりしてしまう。自然と食欲が沸き上がってくるのを感じる。しばらく寝たきりでまともなものは食べていないので、どうやらお腹が空いていたらしい。茶碗一杯分くらいなら一気に平らげてしまえそうだ。
「いただきま——熱っ!」
「気をつけて召し上がって下さい。慌てると火傷します」
「先に言ってちょうだい……」
「分かりきったことですから、言うまでもないと思ったのです。しかし冷静に考えれば、貴女に言わずに済むはずがありませんでした」
ヴァネッサに地味な嫌みを言われた。
気を取り直し、改めてお粥を口へ運ぶ。火傷しないように軽く息を吹きかけてから食べた。
まろやかな卵が舌に絡み、ほのかな甘みが口内に広がる。ふやけて柔らかくなった米、うっすらとつけられた塩味。薄味なだけにツンとする独特の香りが深みを出している。甘い、塩辛い、などのように一言で表せる味ではない。
ついさっきまでの食欲不振が嘘のようだ。実に不思議なことだが、このお粥は勢いよく食べられる。さすがはヴァネッサの料理だ。
彼女の料理の腕は一流である。食事もお菓子も、そこらのシェフやパティシエが作ったものより美味しい。異論を唱える者もいるかもしれないが、少なくとも私はそう思っている。
「このお粥、とても美味しいわ。ヴァネッサの料理は最高ね」
「ありがとうございます。このお粥はラヴィーナ妃にも褒めていただきました」
「お母様にも作ったの?」
「はい。ラヴィーナ妃が風邪を引かれた時にはいつも看病していましたので」
今はもうあまり記憶にない母親。彼女と同じものを食べていると思うと、なんだか温かな気持ちになる。
私は母親と共に食事をした記憶があまりない。だからこそ、まるで同じ時間を共有できたかのような感じがして、純粋に嬉しい。
「ごちそうさま」
「早いですね、驚きです。それではゆっくりお休み下さい」
「待って、ヴァネッサ。エリアスはどうしているの? 心配してないかな。もし彼に会えたら、私は大丈夫だって伝えておいてくれる?」
「……分かりました。エリアスは扉の外に待機していることでしょう。伝えて参ります」
ヴァネッサはそう答えると、お粥のお盆を引き上げていく。それから扉の方へ歩いて行っているのが見えた。私は再びベッドに横たわり、何の変哲もない天井を漠然と眺める。退屈だなぁ、と思いながら。
もうしばらくエリアスに会っていない。彼は男性なので、ヴァネッサとは違い、気軽にこの部屋へ入れないからだ。
しかし、私が風邪を引いたという話は彼も聞いているはず。彼のことだ、恐らく心配してくれているだろう。もうだいぶ回復していることを伝えたいが、私と彼が直接会える機会はないので、ヴァネッサに頼むしかなかった。もっとも、ヴァネッサに頼めるだけましなのだが。
それからしばらくすると、ヴァネッサが部屋へ戻ってくる足音が聞こえた。しかし少しおかしい。一人が歩いてやって来たにしては足音が多いのだ。
私は最初疑問に思ったが、数秒してハッと気がついた。ヴァネッサがエリアスを連れてきてくれたのではないか、と。だがすぐに否定する。そんな都合のいいことが起こるわけがない。足音が多く感じるのは、高熱によって私の耳がおかしくなっているからかもしれない。あるいは、エリアスに会いたいという思いが幻聴を引き起こしているのかもしれない。所詮そんなもの、と私は期待しないように努める。不用意に期待すると後で後悔するからだ。
「……王女!」
だが私の予感は当たっていた。私が聞いた足音は本物だったのだ。
エリアスは小走りで寄ってくる。整った顔に不安の色を浮かべている。
「調子はいかがですか? 痛いところや、辛いところはありませんか?」
「痛いところって……。高熱で体が痛くなったりはしないでしょ。変ね」
「え、えぇ。そうでした。では改めまして。頭痛などはありませんか?」
「大丈夫よ。エリアス、心配かけてごめんなさい」
エリアスが何だかおかしくて自然に頬が緩む。私が笑うと、彼もほんの少し口角を上げる。長い睫に彩られた瑠璃色の瞳は柔らかく優しい色を湛えている。さきほどまでの不安げな表情とは打って変わって、今は穏やかな表情だ。
「アンナ王女。しばらくエリアスと話していて構いません」
ヴァネッサはそう言った。恐らく彼女なりの気遣いなのだろう。
エリアスと二人きりになると、少し気まずい雰囲気になる。何を話せばいいか分からない。エリアスは穏やかな表情のままこちらを見つめている。だから私も、穏やかに彼を見つめることにした。