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その夏からの始まり

作者: 落葉愚人

 

 暑い夏だった。

 グランドの中は、ツーアウト満塁。よくある劇的なシーンだ。

 川合は試合にまだ一度も出たことがなかった。

 高校最後の夏だ、地方大会が甲子園を目指していた。

 相手は、県内でも有数の実力校だ。

 スコアボードは7対5でこちらが勝っている。

 この回、相手打線にエースの桧山がつかまり、一挙に5点を取られた。

 その上、ファーボールを連発し、相手は四番だ。

 もう駄目だろうな。

 監督だけでなく、誰もが思っていた。

 監督は、立ち上がるとピッチャーの交代を審判に告げた。

「ピッチャー桧山に代わりまして、川合くん、背番号12」

 川合は、高校に入って、一度でも公式戦には出場していなかった。

 エース桧山の陰に隠れていたというわけでもなく、部活に中途半端に参加していたせいで、存在感がなかった。

 いつもなら、桧山に代わって、米沢が投げるのだが、ちょうど、米沢がアキレス腱の怪我で現在は、スタンド応援だ。

 実は、監督すら川合の実力は知らなかった。

 川合は、野球部員であると同時に、帰宅部員でもあった。

 小太りで、走っても鈍くさく感じる川合に、監督の眼中にはなかった。

 練習は、口実を沢山思いつくまま言うのだが、もうすでに部員は全員川合を相手にしていなかった。

 それでも、三年間続けてこれたのは、ひとえに野球部マネージャのおかげだ。

 川合はマネージャの白石を好きだった。

 白石にすれば、川合が自分にそんな感情を抱いているなんてこれっぽっちも感じてなかっただろう。

 白石が好きなのは、エースの桧山だってことは、とうに周りが認めていることだった。

 そもそも、川合は存在感が薄かった。

 練習も、そんなに熱心ではなく、紅白戦でもコントロールは抜群だが、本気で投げているようには誰にも見えなかった。

 押し出しの強い桧山に完全に押されている形だった。

 桧山は、肩を落としてマウンドをまるで大エースが撃ち込まれたように降りてくる。

 エースと言っても、防御率は4点台だ。決してエースと呼ばれる成績ではない。

 米沢に至っては、7点台だ。その点、試合に上がったことのない、川合は0点台だ。

「大宮、なにばくち打ってんだ。桧山に投げさせろ。」

 観客席から、OBのヤジが飛ぶ。心なしか、ブラスバンド部の演奏のトーンが落ちたように思える。

 桧山は、川合のゆっくりと傍で見ると、のろのろとした自信なさげな様子を、いらっとさせながら、「最後の夏だ、お前に託す。全力で行け。」

 桧山とは、実は同じクラスだが一度も話したことなどなかった。

 彼は、いつもクラスの男女に囲まれていて、勉強もクラスで一番二番だった。

 その上、大金持ちの御曹司子だ。

 川合の父のように、ようやく係長に昇進したサラリーマンとはわけが違った。

 勉強も川合はいつだって下から数えたほうが早かった。

 休み時間や掃除の時間には、雑巾を丸めて掃除箒で野球を始めてしまう帰宅部連中といつも一緒だった。こちらの方が気が楽だった。

 この何か月かで、初めてかわす言葉だ。

「わかった。」川合は、桧山と目もあわさず言った。

 実は、川合はコントロールもさることながら、球速も早いと自分では思っていた。

 雑巾野球では決して打たせない自信はあった。

 相手は桧山と米沢の研究はしているようであるが、川合のデータは向こうにはなかった。

 監督はそこに賭けたようだ。

 マウンドは、久々でものすごく高く感じた。

 10球の肩慣らし、ツーアウト満塁、ワインドアップだ。

 相手は三番手のピッチャーを完全になめきっていた。

 一球目は、内角低めのストレートだ。

 まあ球種はストレートとゆるいカーブだけだ。

 第一球、三年間で初めての公式戦だ。

 それで最後の試合になるだろう。

 思いっきりキャッチャーのグラブめがけ投げた。

 キャッチャーのミットから埃が舞った。

 スタンドからものすごい歓声が沸き上がった。

 バッターはびっくりしたように目を丸くして、キャッチャーミットの中の球を覗いた。

 見たことのないほど、速い球だ。

 スコアラーは、球速器を持って監督へと駆け寄る。

 監督は、本当に驚いたように目をこすって、球速器を見た。

 第二球目は外角低めだ。

 振りかぶると、ミットめがけて投げた。

 キャッチャーは、受けるやミットを外して、手に受けた衝撃を逃そうとした。

 審判の手が上がる。ストライクだ。

 キャッチャーの大橋は、タイムをかけるとそのままマウンドに走ってきた。

「ごめん、これ以上受けれね。」ファーストとスコアラーもベンチから駆け寄る。

「どうしたんだ。あと一球じゃないか。」ファーストの三宅が言う。

「無理だって、速すぎるし、手は、この二球で腫れ上がって、グローブに手が入らないし。」

「そりゃそうだ、球速を見てびっくりだ。167キロだって。プロだってこんな球投げないぜ。」

「167キロ・・・でもあと一球で勝負は決まる。大橋受けてくれ。」

 三宅が、グローブで大橋の胸を叩く。

 大橋はしぶしぶ、頷いた。

「あと一球、全力で投げろ。これが最後の一球だ。打ち取れ。」

 グローブで、川合の頭をなでながら言った。

 マウンドが解散し、それぞれが守備に入った。全員が極端な前進守備だ。

 川合は、ワインドアップから、今投げれる全力で、投げた。

 球はうなりを上げて、キャッチャーミットへと吸い込まれる。

 バッターは、遅れて振られる。三振だ。

 キャッチャーミットは、ボールとともに、宙を舞う。

 まるでスローモーションだ。

 バッターは振り逃げで、ファーストへと駆け出す。

 ボールは、バックグラウンドへと転々とし、その間、二人の走者がベースを駆け抜けた。

 ようやく、キャッチャーが、ボールに追いついたときには、さよならのランナーが通り過ぎた後だった。

 試合は終わった。逆転負けだ。

 誰もが、グランド上で、ひざまずき涙を流していた。

 川合は、ホームプレート上で立ちつくした。

 蝉の音が、舞い踊る相手校の選手たちと歓声の渦の中で、異様に響き渡っていた。


 あれから何年時が経ただろう。あの最後の一球で、キャッチャーの大橋は、手首を骨折していた。

 それが、川合の最後の投球だった。それ以降、野球部に足は運ばなくなり、相変わらず、帰宅部の練習には参加していた。


 地方の一回戦では誰も注目することがなく、ただただ、球速が独り歩きした。

 学校中で最終戦の話と、大橋を再起不能にした剛球の話。

 最後の一球は、どうやら170キロを超えていたようだ。と話は膨らんでいった。


 川合は、私立の大学へと進学した。

 大学では、文学を専攻したが、卒業して結局選んだのは、普通のサラリーマンの生活だ。

 草野球チームで、たまに投げるのだが、全力で投げるには躊躇し、速い球で140キロくらいに抑えて投げていた。

 草野球チームはドルフィンズ。

 年間10試合程度をこなすが、10勝負けなしだ。


 いつもは土曜日早朝の試合だが、今日は都市大会の準決勝だ。

 試合は準決勝、決勝と平日だ。

 会社へは、公休申請していた。今度の土曜日は出勤だ。

 いつものことだが試合が終わった後は、昼間っから飲み会だ。

 ラジオから、ドラフトの状況が流れる。

 ドラフトはこの草野球チームにはいいおかずだ。

 皆、ひいきのチームの補強がどうなるのか興味津々だ。

「千葉イーグルス、第5回目選択選手、社会人 株式会社 エイチ・ツー・オー、松戸ドルフィンズ所属、川合新之助」

 会場がざわついた。そのざわつきは、誰それというざわつきだ。

 それよりも、なじみの居酒屋のドルフィンズのメンバーのビールジョッキの手が止まった。

 松戸ドルフィンズ、このチームだ。全員の目が川合に注がれる。

「新之助・・・?お お前」





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