3
僕は夢の中。
君がホテルの中で交わした会話も夢で聞いた。
そして。
今は誰かの泣き声を聞いている。
誰なんだろう。
そんなに泣くことはないのに。
きっと悪いことばかりじゃないよ。
いいことって。記憶に無いけれど。まあ、大丈夫さ。
てな感じでいい加減なことを言っていたら。
ふっと目がさめた。
僕は驚いて息を呑む。
「えっと、お母さん?」
暗闇の中。
微かな月明かりに。
お母さんの姿が浮かびあがっている。
その手には、冷たい金属の輝きを放つものが握られて。
えっと。
それって包丁。
ちょっと。まてよ、おい。だめだって。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ」
僕は叫んで横に転がる。
包丁は布団に突き立てられた。
僕は、必死で窓から飛び出す。
無我夢中で、窓辺の木に抱き付くと、下まで滑り降りる。
なんだよ、一体。
どういうことなんだよ。
夜の庭。
気配を感じて僕は振り向く。
真っ黒な男の影。
男が動いて、月明りを浴びる。
「お、お父さん……」
お父さんの手には、金属の棒が握られている。
多分。
ゴルフのクラブというやつだ。冗談じゃあない。そんなものを振り回して。
「ひいいっ」
僕は辛うじて尻餅をついて、フルスイングを躱す。ごきっ、と音がしてクラブは木に激突し、へし折れる。
僕は、塀に跳び上がると、道路に出る。
そして走った。走った。走った。
心臓が喉から飛び出るかというくらい。
犬のように。
走った。走った。走った。
僕は、限界がきて、膝をつく。
汗が噴きでる。喉に火がついたように激しく息をした。吐息が炎みたいだ。
奇妙な夜だった。
声に成らぬ叫びが。
おーーーんと。
おおおーーーんんと。
無音のまま、夜に響き渡っている。
それは、夜を恐怖と不安の色に染め上げた。
でも。
それは僕にとって母親の膝みたいに。
とても馴染があるものだ。
そう。
僕の日常には、不安と恐怖が満ちあふれている。
僕は、学校で殴られながら。こう囁かれる。
(おれが本気だして殴ればよう。お前の内臓は破裂するするぜ)
そして、腕の関節をきめられてこう囁かれる。
(おい、このまま折ってもいいんだぜ。そしたらお前。どうするのかなあ)
そんな。
不安と恐怖がいつも僕とともにあって。
だから今、それが街じゅうに溢れているので。
これって僕のこころがそののまま夜を塗りつぶしたってことじゃん。
なあんて。
思うんだけれど。
「野火くん」
いきなり声をかけられ、僕は顔をあげる。
「み、水無元さん…?」
そこには。
ラプンツェルみたいに髪の長い。
妖精みたいな美少女が。
蒼ざめた顔をして立っていた。
僕と同じパジャマのままで。
荒い息をして。
立っていた。
僕は立ち上がると。
水無元さんの前に立つ。
こんなときでも水無元さんは石鹸のいいにおいがして、僕は少しどきどきした。
「ねえ、野火くん。あなたも街のひとたちを見た?」
え、街のひと……?
「知らない、なんのこと?」
水無元さんは、整った顔を少し曇らせる。不思議の国で道に迷ったアリスみたいに。
「みんな、おかしいの。まるでそう、あれは」
「あれは?」
「ゾンビみたいなのよ」
げげっ。
そんな、そんなことが、あるんだろうか。
僕にとって日常はいんちきで、でたらめで。
マンガの中のできごとみたいに。
馬鹿馬鹿しく過ぎてゆく時間なのだけれど。
でも怪奇映画になってしまうなんて。
そりゃあいきすぎだぜ、と思ったら。
水無元さんの顔が。
月明りの下で。
川に墜ちたオフィーリアみたいに、蒼褪めてきている。
僕はゆっくりと振り向いた。
そこには街のひとたちがいる。
なるほど、ゾンビだね。こりゃあ。
焦点の合っていない目。
ぎこちない動作の歩み。
僕は、髪の毛が逆立つような恐怖を感じる。
なるほど。夜を支配していた恐怖はこれだったのかと。
僕は思う。
「逃げよう」
僕は水無元さんの手をとって、走り出す。
でも。
僕も水無元さんも裸足でその足は傷だらけだったから。
そんなに速くは走れない。
ゾンビみたいになった街のひとたちも、速く走ることはできなさそうだったけれど。
でも、僕等は次第に追い詰められていった。
そのとき。
水無元さんが、前方の坂の上に立つ人影を指さした。
あれ。
あれは。
夢の中に出てきた。
君で、僕で、彼じゃないか。
灰色のマントを纏って、フードを被り。ゴーグルで目を隠した。
僕で君でそして彼は。
叫んだ。
「ここまで、走れ。全力で」