最期の一粒
窓の外を流れる風景を、見るともなしに眺めていた。時折白いものを被った建物が後方に飛び去っていく。この辺りは俺の故郷ほど積もらないが、まあ、意外なほど降る。西の方は概して暖かいだろうなんて侮っていると痛い目を見るくらいには。
不意に、真向かいの席に誰かが座ったせいで、俺の水晶体は迅速にピントを合わせ直した。焦点を結んだ像は、これといって特徴のない中年男性の形をしていた。170センチあるかないか、これなら楽に殴り殺せる高さだ。別にこの男は俺の獲物でも何でもないが、ついつい考えてしまうのは病気みたいなものだろう。いや、病気というにはあまりにも肌に馴染み過ぎた感覚だ。慢性疾患だとしてもここまで仲良くはなれないと思う。彼の友人は寧ろ、急性の熱病か、若しくは衝動のようなものだ。多分、性衝動と大差ないのだろう。俺は、男を殺すよりは女を殺す方が好きだ。こういう奴は案外少なくて、大半の殺し屋は女と子供を殺すのを嫌がるから、なかなかに儲けられる。俺からすれば、そんなところで躊躇うのは、意味不明だった。良心の呵責というやつだろうか? だとすれば、ちゃんちゃらおかしい。人殺しは、所詮人殺しである。なんちゃって。
次の駅で乗って来たのは、絞め殺したくなる程白い喉の女。パンツスーツを颯爽と着こなした若い女だ。席は空いていたのに、女はどこにも座らず、ドアの横に立った。女は新聞を広げた。スポーツ紙なんかじゃない、経済とか社会情勢がちゃんと書いてありそうな新聞だった。
俺は女と新聞から目を逸らす。途端に睡魔が俺に襲い掛かった。俺は抵抗する気もなく、奴らに深みへと引きずり込まれ、1時間半近く目覚めなかった。
唐突に意識が浮上する。そこはおあつらえ向きに降車駅の1つ前の駅を過ぎた地点だったが、いつものことなので特に驚かない。多分、身体も脳も本気で眠ってはいないんじゃないか、と俺は睨んでいる。
一度、乗り換えのために電車を降りる。さっきの中年や、若い女も降りた。大きい駅なので、これも別段驚くことでもなかった。
次の電車は座れなかった。終点まで乗っていかなければならないのに、と舌打ちする。立っている時には眠気も襲ってはこない。俺は寝起きのぼんやりした頭で車内を見回した。と、急に霧が晴れたように、視界がクリアになり、俺のレンズが捉えたのは、先程の中年男だった。改めて、さっきより遠目から眺め回してみても、やはり特筆すべき点はない。もしかしたら、さっきの男と全く同じ服と靴の人間かもしれない。
「まもなく、天王寺です」
男は結局、終点まで乗っていた。俺と同じ駅で、男も、老若男女もホームに降り立ち、後はそれぞれに散っていく。
「あの……この辺りに、映画館がありますよね」
顔から想像した声より、幾分高かった。
そんなのはよくあることで、いつもなら興味など引かれない。
俺の進行方向の右手で、中年男は駅員を呼び止めていた。俺は耳をそばだてる。
「ありますよ。地下通路で繋がってるんですけどね、まず3番出口を――」
「ありがとうございます」
男は駅員の説明を遮った。
「あ、その、そこへ行くというわけではないので」
「はあ、そうですか」
駅員は訝し気に男を見た。男は少し顔を伏せるようにして、足早に去っていく。
俺は、一瞬考えた。天王寺での仕事なら、後回しにできる案件だ。
駅員が教えようとした地下通路へのルートを無視して地上に出ていく男を、俺はゆっくりと大股で追った。
中年男は映画館の入口が見える位置にじっと立ち、行き交う人を観察しているようだった。
映画館は流行っていたが、俺は、シネマコンプレックス――シネコンというやつは、あまり好きではない。やはり殺し屋には、B級映画が似合うし、B級映画にはミニシアターが相応しい。
と、男が動いた。
映画館の裏に向かっている。男を追っていくと、彼も誰かの後をついて行っていることに気づいた。若い男――青年と言ってもいいだろう――20代前半だろうか。映画館の裏は細い路地を隔てて、別の建物の外壁が迫っている。路地に入ると青年に気づかれるだろうと思ったのか、男は映画館から離れたところの電柱の陰に隠れた。ベタな隠れ場所だが、案外有効なのだ。
そんな圧迫感のある路地で、青年は煙草に火を点けた。狭苦しい場所で喫う青年の気は知れなかったが、俺は青年と中年男を、さらに離れたところから見る。
やがて、男は意を決したように路地に入っていき、青年に話しかけた。俺のレンズは二人の唇に焦点を合わせる。
「君、そこの君だ」
「何ですか」
「君はあの事件のことを知っているのか?」
「あの事件というのは、ここで19歳の女の子が亡くなった事件ですか」
「ああ、正確には19歳の女の子と21歳の男の子――男性が、亡くなった」
「そのことなら、知っています」
「彼らと直接関わりがあったのかね」
「警察の人でもなさそうなのに、妙なことをお聞きになるんですね。まあ、いいでしょう。女の子の方は知っています。映画が好きな子でした」
「君はどう思う」
「どう、とは?」
「警察は、彼女が、男性の方を撃ったと判断した」
「警察がそう言うなら、そうなんでしょう」
「彼女は、そんなことをするような子か?」
「殺し屋映画は、観ていましたけどね」
「殺し屋映画を観て、自分で試すような子だとでも?」
「いいえ、殺し屋に共感できないと文句を垂れるような子です」
男は青年を探るような目で見た。青年の顔には何の表情も浮かばない。
今から2年前――2009年の、夏頃だったと思う。この路地で2人の死体が見つかった。片方は19歳の少女。銃の引き金に手を掛けた形で発見され、喉元から上向きに弾が撃ち込まれていたが、その弾丸を発射したのは“別の銃”だった。“別の銃”は少女の傍らで壊れていた。もう1つの死体は少女より少し年上の、青年の銃殺体。彼を仕留めた弾丸は、少女の手にした銃から発されたものと確認された。
沈黙を破って、男の唇が震えた。白い息が吐き出される。
「君は、ファイを知っているか?」
「φですか? 数学の?」
青年は怪訝そうに言う。
「――知らないのなら、いい」
男は青年を睨み付けるかのように、ぎゅっと眉根を寄せた。
「知ろうとするな」
俺は驚いていた。中年男の口から、『ファイ』という単語が出てきたことに。
ファイは、こちら側の世界では有名だった。チーム、組織、殺し屋集団、テロリスト。どのカテゴライズもしっくりこない。謎の集団などというと一気に陳腐になるが、その集団が裏社会に出現して以来、誰も相応しいカテゴリを見つけられなかった。目的も行動理念も不明。ファイとは、思想を持たないことをも示しているのではないか、とも囁かれるほど、彼らの所業には一貫性がない。
ビル風が、びゅうと吹き抜けた。
と同時に、一発の銃声が威嚇するように響いた。
「伏せろ!」
俺は遊底を引きながら路地に踊り込んだ。今の一発は恐らく適当な方向に放たれたものだから、警戒すべきは二発目以降だ。2人は存外素直に俺の声に従った。俺も伏せた状態で首だけを起こし、拳銃を構える。
次の銃声は路地の奥から聞こえた。人影がさっと移動する。
「そこか!」
俺も威嚇射撃で応戦する。室外機に一発、地面に一発。
このタイミングで襲撃してくるということは、例のファイだろうか。まさに噂をすれば影が差す、ってやつだ。銃撃自体はいつだって想定内で、問題はない。問題は2人の一般人というイレギュラーな要素。
しばらく睨み合いが続き、一、二発の発砲音がしたが、俺は弾を温存した。
張りつめた殺気がほんの少し緩んだ瞬間だった。中年男が立とうとしたところに、狙いすましたように銃弾が撃ち込まれた。
弾は男の足元の地面に、正確に叩き込まれていた。
「……行ったみたいだぜ」
俺は2人を初めて真正面から見た。
何も変わったところのない、フツウのおっさんと、ちょっと芸術家然とした、冷静そうな青年。
俺にとってはこの一連の動作も息が上がるほどの運動ではなかったが、2人は伏せていただけなのに大汗をかいていた。
「大丈夫か?」
大丈夫なわけはないと思うが、一応聞いてみる。まあ、怪我がないだけましというものだ。俺は、本当に聴き出したい話題を持ち出した。
「あんた、何であの事件を追ってる?」
「私は、宮脇康太の――死んだ男の子の父親だ」
青年の眉がぴくりと動いた。
「死んだ男の父親と、死んだ女の友達、いや、彼氏か? 面白い」
「どちらでも、ないと思います……俺は」
朝戸がどう思ってたかは、わからんけど、と青年は呟いた。
「俺は、寧ろ……」
言いかけて、青年は中年男改め宮脇氏を、遠慮がちに見た。
「何だ」
「……朝戸は、康太さんととても親しかったんやないかと……」
「康太と付き合っていたとでも?」
「わかりません。少なくとも俺とは、ただの……知人程度やった」
青年が吐き出すように言うと、宮脇氏が頭を振った。全く意味が解らない、というように。
「朝戸ゆりかは、康太を狙って仕掛けられた銃を手に取った。その銃が暴発するだろうと、わかっていて手に取ったと、私は思う。そうやって康太を助けたのに、その直後に康太を撃った」
「宮脇康太を狙っていた? それは確かなのか」
「このメールを見てくれ」
宮脇氏は、流行らなくなりつつあるガラパゴス・ケータイを開いて、画面を俺たちに向けた。
『阿倍野シネマの裏 室外機の下 次の仕事に使え』
「康太に届いた最後のメールだ。CC.には朝戸ゆりかのアドレスが入っていた」
「そもそも宮脇康太は何で……仲間に狙われたんだ」
「警察から、朝戸ゆりかが別の者とやり取りしたメールを見せられた。宮脇康太はファイでなくなったから、殺す、と言い出したのは朝戸ゆりかだったらしい」
「ファイでなくなったから、殺す?」
青年が鸚鵡返しする。
「ああ」
「ファイでなくなるって、何だよ? 中身のある人間になっちまうことか? 宮脇康太はファイから足を洗おうとしてたのか」
「今となってはわからんよ。もし私が、康太がこんなことをしていると知っていたら、絶対に止めていた」
「無理だろ。撃たれるのがオチさ」
「それでもかまわない。かまわなかったのに――」
俺は鼻を鳴らした。
「君のご両親だって、きっとそうだ」
「ああ、そうだった」
俺は決然と言い放つ宮脇氏を睨む。
「だから、殺したんだよ」
宮脇氏と青年と別れた後、俺は全国チェーンのコーヒーショップで甘ったるくて熱いカフェラテを飲み干した。ガラス張りの店で通りに面したカウンターに陣取り、コートの襟を立てて流れゆく人波を眺める。
俺は、宮脇氏を殺せばよかったと唐突に思った。2年も経って、やっとここに来たあのちちおやを。
ふと、人混みの向こう側に、一心にカメラを地面に向けている人影を見た。
今日は不思議と、気になる動きの人間ばかりに出会う。
俺はマグカップを返却し、外に出た。
「何撮ってるんだ?」
少女はファインダーから目を離し、俺を振り返る。
「空の写真を撮ってるんです」
「空? 地面じゃないのか」
「はい、空です」
「何で?」
「何で……何でやろ」
「綺麗だから?」
「綺麗やと思ったことはありません。あそこは何もない所やもん」
「空っぽだから、空って言うんだぜ、みたいな?」
「はは、何ですか、それ」
水溜りに映った、偽物のソラを眺めながら、少女は嗤った。
「でも、そうかも。空っぽやから、撮るんかもしれません」
「ねえ」
俺は、少女を睨む。
「君、ファイ?」
少女は、一瞬きょとんとし、それから首を傾げた。
「ファイは、空集合。何も含まない集まり。せやけど、空っぽなら、何人集まったって、やっぱり空集合や」
「よくわからない理屈だ」
俺がそう言うと、彼女は薄い笑みを唇に載せた。
「わかってもらえなくて残念です」
「ファイは、君1人じゃないってことはわかってる」
彼女は俺を見据え、目を細めた。
「ユリカは向いてなかっただけ、でしょう?」
「何に?」
「さあ、何にでしょうね」
殺し屋に?
ファイに?
生きることに?
「ユリカが彼を殺した気持ちとか、理由とか、あたしたちにはわかりますよ」
「あたしたちってのは、ファイ?」
尋ねると、彼女は何も言わずに微笑んだ。
本物の空を見上げて、彼女はちょっと眩しそうな顔になって、それからこんな風に語った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ここに、チョコレートが置かれたら仕事の合図。
見たって印に、キャンディを置いてた。
あたしたちがまだ「ケータイ」なんて持ってなかった頃の話やけど。
そう。あたしがファイに入って初めて人を殺したのは、中学生くらいの年の時。あたしは学校なんて行ってへんよ。家にも帰ってないけど、あの人ら、心配せえへんし。ユリカもそれくらいの時期からあそこにおった。コウタは違う。あいつは、マトモな家の子で、マトモな学校に入る頭もあったからね。
コウタを殺すことにしたのはユリカやった。理由は、殺し屋としての適性を欠いたとか何とか。あたしには、あの2人みたいな難しい言葉はよくわからんけど、要は「ヤサシクなっちゃった」ってことやと思った。
あたしは「コウタが不適格なら、ユリカもやろ」って言った。そしたら、あの子は「そうやね」って笑った。
チョコレートを置くのは、「誰か」の仕事。あたしたちが知らん誰か。あたしたちはファイやけど、自分で――何て言うんやっけ、青写真?――は書かへん。
けど、ユリカは最期に自分でチョコレートを置いたんや。それで、コウタはキャンディを置いたってことやと思うねん。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ファイでなくなったから。
それは、通常なら、幸福なことかもしれないのに。
彼女はそれを、許せなかったのだ。
「なあ、殺し屋さん」
少女は微笑んだ。
「あと何発残ってるん?」
「さあ……」
さて、予定通り、みんなが嫌う仕事の時間だ。
俺は女を殺すのが嫌いじゃないんだから。
「ファイはたくさんおるし増えてるのに、1人ひとり消していくん? 誰の思惑か知らんけど、馬鹿馬鹿しいなあ」
「――俺は頼まれた通りにやるだけだ」
拳銃を構え合う。どちらも上から支給された自動式の小銃だ。
そしてほとんど同時に引き金を引いた。
イメージソング
Raise your hand together/Cornelius