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6 期末試験

 文化祭が終わり、期末試験が近付くにつれ、学内の空気は重量を増していった。楽しいことが終わり、現実に引き戻され、生徒たちは人知れずため息を吐く。

 真木もまたため息を吐いていたが、彼女のため息は他の生徒たちのそれより深かった。

 地学室の鍵を担任の教師に借りたときのことを思い出していたのだ。


「次の試験に向けて勉強するための勉強環境」


 それが、彼女が地学室の鍵を私的に利用する口実だった。当然、次の試験の結果を担任の教師も注目しているだろう。試験の結果次第では、もしかしたら鍵を返さなくてはならなくなってしまうかもしれない。かといって、人間そうそうやる気の出るものではない。もちろん、それなりには勉強しているが、担任の教師を満足させられるだけの点数を出せるかと言えば、答えは否であろう。

 しかも、彼女のため息が重い理由はそれだけでは無かった。


「うーん、やっぱりこの教室は最高だね」


 窓を開けて冷たい風を浴びながら唯がそう言った。


「唯、寒くないか?」

「ううん、むしろ心地いいくらいだよ。わたし、少し暑がりだから」


 そんなやりとりを交わす唯と塔野を見て、真木はまたひそかにため息をこぼす。この居場所が失われてしまうかもしれない。そんな大事なことを、真木はこの二人の住人にまだ伝えられていなかった。伝えられない理由は、真木自身にもよく分からない。分析してみても、答えは見つからなかった。


「真木、どうした? いつもより暗い顔してないか?」


 顔をあげると、塔野が心配そうにこっちを見ていた。人の気持ちに敏感な塔野は、真木の僅かな変化に目ざとく気づいた。


「ううん、何でもないわ」


 気がついたらポーカーフェイスでそう口にしていて、真木は、話をするきっかけを自らどぶに捨てていた。


「そうか。それならいいけど」

「文化祭が終わって、もうすぐ期末試験だもんね。明るい顔している人なんてほんのちょっとだよ」


 唯がそう助け船を出す。真木にはその助け船が泥の船に思えた。


「最近はわたし、毎日三時間勉強しなくちゃいけなくて、結構きついよ」


 あはは、と笑う唯に塔野が驚いた顔を向ける。


「え、毎日三時間…!?」

「あ、もちろん平日の話だよ?休みの日は、だいたい七時間は勉強してるかな」

「…唯は本当に努力家だな」


 塔野はすっかり感心している。


「わたし、地頭が良くないから、ちゃんと勉強しないとすぐ点数落ちちゃうんだよね」

「その心がけがすでに偉い。真木もそう思うよな」

「……ええ、そうね」


 考えごとをしながら返事をしたため、いつもより少し返事が遅くなる。しかも、我ながら自分らしくない返事をしてしまったと思う。それを塔野が不審がった。


「真木?」

「ああ、ごめんなさい。勉強し過ぎて疲れているのかもしれないわ。ちょっとぼーっとしてしまって」


 真木はなんでもない素振りで誤魔化した。しかし、塔野は騙されなかった。







「真木、ちょっとおかしかったな」


 真木の帰った後、塔野がそう呟く。


「そうかな。わたしにはいつも通りに見えたけど」


 唯の台詞を聞いて、塔野はばれないようにため息を吐いた。唯は人の気持ちに対して鈍感なところがあるのだ。


「真木がお前のことを素直にほめるか。いつもなら憎まれ口の一つでも叩くだろう。それが無かった。それだけでも、おかしくないか」

「そう言われれば、そうかも」

「そうだろう。でも、問題は俺たちに何かできることがあるのか、ってことだよな。真木は、自分で悩みを相談しそうにはないからな」


 そう言って塔野は天井を見上げた。





***


 翌日の昼休み、唯が最上階に登ると、地学室は開いていなかった。

 地学室の鍵は真木が持っている。扉を開けたまま内側から鍵をかけ、そのまま扉を閉めれば、鍵が無くても戸締りをすることはできる。昨日の放課後は塔野と唯で鍵をかけて帰ったのだ。


「真木ちゃん、来てないのか……」


 いつも真木は唯のために、昼休みも地学室の鍵を開けてくれていたのだ。開いていないのは、初めてだった。


 そういえば、真木は何故地学室の鍵を持っているのだろう。唯はふと思った。それまでは地学室が使えればそれでいいと思っていたからあまり深くは考えていなかった。しかし、塔野の言う、真木の不可解な様子と相まって、唯の中で疑問が頭をもたげてきた。

 初めて地学室で真木と会った時、真木は「たまたま開いていた」と言っていた。しかし、鍵を持っていたことから、それは本当のことではないと思った。鍵がたまたま刺さっていた、なんて不用心なことはないだろう。


「だったらどうして……」


 人知れず真実に近づきながら、唯は地学室を後にした。







 その日の放課後、真木は地学室を目指して階段を登っていた。昼休みは塔野の目が怖くて地学室に行けなかったが、いつまでもこうしているわけにもいかない。そう自分を鼓舞して一段一段階段を登っていた。


「おう、真木。元気にしているか」


 もう少しで地学室、というところで担任の教師に声をかけられた。


「先生……。ええ。おかげさまで」


 高校生の挨拶とは思えない、丁寧で品の良い挨拶をして真木は振り返る。真木が教師を見下ろす形になる。


「そうか。それはなによりだ。ところで、地学室での勉強ははかどっているか」


 やはり、そう来たか、と心の中で思いながらも、それをおくびにも出さずに真木は答える。


「ええ。やはり静かな勉強環境があるといいですね」


 にっこりと真木が微笑むと、そうかそうか、と教師は満足げに頷いた。


「鍵を貸した甲斐があったな。次の試験、期待しているぞ」


 そう言うと、教師は階段を下りて行った。真木に一言声をかけるためだけに階段を登ってきたのだろう。


「まったく……ご苦労なこと」


 真木は独りごちた。







 塔野は最上階の廊下を歩いていた。試験前のため、部活動は強制的に休みになっていた。

 地学室で勉強でもするかな、と考えていたが、はかどらないことは火を見るより明らかだった。だが、家に帰って一人で勉強するような気分でもなかった。


「おう、真木。元気にしているか」


 地学室まであと少しというところで中年の男性の声がした。D組の教師だ。塔野はとっさに足を止め、息を殺した。地学室に入るところを見られると、面倒なことになると考えたからだ。


「先生……。ええ。おかげさまで」


 真木の声がする。何枚も猫をかぶった声に、塔野は思わず噴き出しそうになった。必死にこらえる。


「そうか。それはなによりだ。ところで、地学室での勉強ははかどっているか」


 地学室での勉強……? どういうことだ? どうして担任の教師が地学室のことを知っている? 塔野の頭の中はクエスチョンマークでいっぱいになった。そんな塔野を置いて、二人の会話は進んで行く。


「ええ。やはり静かな勉強環境があるといいですね」

「鍵を貸した甲斐があったな。次の試験、期待しているぞ」


 その台詞を最後に、階段を下る音がした。

 塔野は二人の会話の意味を考える。担任の教師が真木に地学室の鍵を貸したと言っていた。そして、そこでの勉強。ここから導き出せる答えは一つ。


「まったく……ご苦労なこと」


 そう呟いた黒髪の少女に塔野は声をかける。


「真木……。お前、勉強のために地学室を借りていたんだな」







 塔野に全てがばれてしまった。いずれ自分で言おうと思っていたのに、不本意な形で暴かれてしまった。真木は戸惑い、運命のいたずらに怒りを覚えた。勉強しようと思った時に「勉強しなさい」と親に言われ、怒る子どものように。


「そうよ」


 だから、やっと絞り出せた言葉は一言だけだった。


「もしかしたら、今回の試験の結果次第では、もう地学室を使えなくなるかもしれないのか?」


 塔野が核心に迫る。真木は思わず塔野から視線をそらす。


「……そうね、その可能性がないとは言えないわ」

「お前、そんな大事なこと、なんで……」


 塔野は言いかけた言葉を途中で飲み込んだ。


「……まあいい。とにかく、期末試験までに真木の成績をあげればいいだけの話なんだな」


 塔野が怒りだすと思っていた真木は拍子抜けしてしまった。


「ええ、まあ、そういうことになるわね」

「じゃあ、今日から三人で勉強会だ。唯は文系科目を主に担当、俺は理系科目を手伝う。それで文句ないな」


 塔野は有無を言わさず真木を地学室へ引っ張り込んだ。


「今日からみっちり勉強するからな」


 真木は展開についていけず、目を白黒させていた。







「真木さんって変わってるよね」


 小学三年生のある日、真木は友達にそう言われた。


「そうかな」

「うん、変わってるよ」

「ねー」


 友達はみな、最初の意見に同意していた。


「だって、いつも変な話ばっかりするんだもん」

「そうそう、どうして空は青いのかとかさ」


 確かに、真木はいつも、生活の中で疑問に思うことの話をしていた。友達はいつも、好きな男の子の話やテレビの話をしていた。

 真木は、ちょっと変わった子、というレッテルを貼られた。


 成長するにつれ、真木と周りの子では、物の見方、考え方が違うということがだんだん分かってきた。だからと言って、真木には周りに合わせる気はさらさらなく、クラスの中でどんどん孤立していった。周りが他愛ないお喋りをしている間、真木は本を読み、思索にふけっていた。

 そのうえ、美しい顔立ちと丁寧な物腰がますます周りを遠ざけた。真木は次第にそれを意図的に活用して、望んで一人でいるようになった。他人のくだらない話につきあうくらいならば、本を読んでいた方がはるかに生産的だ。ずっと、そう思っていた。

 それなのに今、真木は二人の友達と一緒に地学室にいる。

 しかも、勉強を教えてもらっている。

 他人は低俗で、取るに足りない存在だと、ずっと見下していたのに。


「真木、お前三平方の定理もまともに覚えていないのか? これは中学生の知識だぞ」

「真木ちゃん、英単語はある程度努力して覚えなくちゃいけないものだよ。面倒だし、大変だけど、少しずつ覚えていこう」


 真木にないものを二人の友達は持っていた。勉強だけではない。人と真摯に向き合う姿勢、自分の非を認める強さ、誰かを大切に思う心。そういった大事なものを友達は教えてくれた。


 自分は今まで、他人の何を見てきたのだろう。どうして、無条件に見下して、関わるに値しないと決めつけてきたのだろう。どうして、自分の大切な友達に大切な場所が失われるかもしれないことを言えなかったのだろう。大切な友達にも、本当の意味で心を開けていなかったのだろうか。

 一人で生きると決めたのは、本当は大きな誤りだったのではないか? 他人と関わることはくだらないことばかりではないのではないか? この数カ月の経験は有意義なものだったのではないか?

 色んな考えが真木の頭に飛来した。今までの考え方が根底から覆る。


「真木?」

「真木ちゃん?」


 二人の友達が真木を見つめていた。真木ははっとして二人を見つめる。


「……勉強、頑張ろう。地学室を、この場所を三人で守ろう」


 そう言って、真木は笑った。年相応の幼さがのぞく、今までで一番可愛い笑顔だった。







「真木、今までどれだけ勉強しなかったんだ……? よくこの学校に入れたな。けっこう進学校なのに」


 塔野が呆れたように呟いた。

 真木は勉強を頑張ると決めたが、現実はそう甘いものではないようだった。


「現代文が満点。あとは、数学の公式なしで解ける問題で点数を稼いで、英語は、分かる単語だけで英作文を作ったわ。社会、理科の暗記は絶望的だったけど、文章題で点を取って、なんとかギリギリ合格、といったところだったわね」

「現代文で満点……」


 唯が目を丸くした。


「……要するに、暗記は苦手だけど、考える問題は得意ってことだな」


 とんだ天才型だ、と塔野はため息を吐いた。


「とりあえず」


 塔野は気を取り直した。


「今日、数学で暗記しなくちゃいけない公式を全部まとめるから、それを覚えること。公式が生まれた経緯を合わせて見ておけば、真木ならすぐに頭に入るだろう」

「文系科目は、英単語、古典単語・文法の中で、最優先のものをまとめるから、その暗記。漢文は点数少ないし、今回は捨てるかな。日本史は、教科書を二回は読んで、太い文字の単語だけでも頭に入れてね」


 二人が的確に指示を出す。


「……暗記ばかりね」


 真木は思わずため息を吐いた。


「そりゃそうだ。勉強の基本はやっぱり暗記だしな。真木は地頭がいいから、暗記さえしてしまえば、点数取れるだろう」

「……憂鬱ね」

「地学室を守るためだよ。真木ちゃん、一緒に頑張ろう」


 地学室を守るためとはいえ、今回の試験勉強は、興味のないことをするのが苦手な真木には大変な苦行だった。思わず左腕にした時計を見る。女性がするには少しごつい腕時計は、真木が好んで付けているものだった。


「真木、今早く終わらないかな、って考えていただろう」


 真木の視線の移動を目ざとく見つけ、塔野がそう言った。


「……苦痛だもの」

「真木ちゃんは正直だね」


 唯が、あはは、と乾いた笑みをもらす。


「そんなことじゃ点数は上がらないぞ」


 塔野が喝を入れ、真木は再び教科書と向き合うことになった。







 勉強会の途中で、真木が社会学の本を取りだして読み始めたり、前日に出された課題をやってこなかったり、英単語の暗記がまるで進まなかったりと色々なハプニングがあったものの、真木はなんとか一通りの勉強を終えることが出来た。

 塔野は嫌がる真木をきちんと叱ってくれた。唯は真木が課題をすっぽかしても、根気よく付き合ってくれた。誰かが自分にここまで向き合ってくれたのは初めてだった。真木の中に、今までにない感情が生まれていた。三人が繋がっていられる、あの地学室を失いたくない。その思いがあったから、ときどきさぼりながらも、真木は勉強を頑張れた。


 試験当日は、あっという間にやってきて、あっという間に去って行った。問題を見て、ここまで解答が浮かんでくるのは初めてだった。シャープペンシルが解答用紙の上を踊る。間違いなく、担任の教師を納得させられるだけの点数を取れただろう。それは、ひとえに二人のおかげだった。一人では決してこんな点数を取れなかっただろう。真木の点数が上がったのは、地学室で二人に出会ったためなのだから、担任の教師の試みは成功だったと言えるだろう。真木は冷静に分析していた。

 試験の翌日の昼休み、真木はいつも通り、地学室を訪ねた。


「あ、真木ちゃん」


 真木の姿を見つけて、唯がぱっと顔を輝かす。


「おお、真木」


 塔野は真木に向けて笑いかける。


「試験、どうだった?わたしの教え方でちゃんと成果が出たか、心配で」


 唯が心配そうにそう言った。唯は本当に自分に自信がないな。もっと、自信を持ってもいいのに、と真木は思った。


「うん……。大丈夫だったよ」

「ちゃんと担任の教師を納得させられるくらいの点数を取れたか?」

「うん、大丈夫。今までで一番いい点数だったと思う」


 真木の言葉に二人は顔を見合わせて笑った。


「どうして」


 真木は無意識のうちに言葉を紡いでいた。


「どうして、二人はそんなに一生懸命、私に勉強を教えてくれたの?どうして、大事なことを黙っていたのに、何も言わないの……?」


 真木の質問に、二人はきょとんとした顔をする。


「どうしてって」

「そんなの」


 二人は言葉を探していた。でも、それはわずかな時間だった。


「真木ちゃん、友達だもん。真木ちゃんと友達でいられるこの場所が大事だった、っていうのが大きいけど、それだけじゃないかな。友達が困っていたら助けるのが当たり前だよ。もちろん、地学室の鍵を手に入れた経緯を話してくれなかったのは、残念だったよ。でも、なんていうか、過ぎたことだし、言うタイミングが無かったのかなって思うし、まあいいよ」

「唯の言うとおりだ。俺は、真木は自分から悩みとか打ち明けるタイプじゃないって分かってたから、別に言わなかったことを責める気は起きないな。ただ、もっと俺たちのこと、頼ってもらえると嬉しいな。今回みたいに、力になれることだってあるんだから」


 二人の言葉を聞いて、真木は何も言えなくなった。自分達は友達。友達なら、助け合うのが当たり前。そんな自明のことを真木は全然分かっていなかった。あらためて、目の前の二人は、真木にとってかけがえのない存在だと思った。

 こんな時、どんな言葉を返せばいいのか、真木は考えた。そして、一つの言葉に行きついた。その言葉は、長らく真木が使っていないものだった。


「……ありがとう」


 真木の言葉を聞いて、二人は心底嬉しそうに微笑んだ。


今回で、書き溜めていた分を全て掲載してしまったので、今後、更新頻度が変わるかもしれません。ゆっくりですが、確実に最後まで書くつもりですので、気長に待っていただけるとありがたいです。

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