4 期待
「ねえ、小日向さん」
塔野と真木とファミレスで話をした翌朝、唯は教室でクラスメイトの本田から声をかけられた。そんなことは久しぶりだったので、唯はとっさに反応が出来なかった。
「えっ」
唯が驚いた顔を向けても、動じない性格なのか、本田は顔色一つ変えずに言葉を続けた。
「小日向さん、昨日のホームルームのとき、いい案を出してくれてありがとう。おかげで、文化祭の出し物を決めることができたよ」
「えっ、あの、それは、そんな…」
唯は動揺を抑えきれず、まともな反応を返せずにいた。それでも本田は気にせず、「本当にありがとう」とにっこり笑顔を向けて、マイペースに去って行った。
唯は、本田の背中をしばらく見つめていた。肩につくくらいの髪をハーフアップにしていて可愛い、と思った。
「…せっかく、クラスメイトと仲良くなれるチャンスだったのに…」
唯はため息を一つつき、席についた。
授業中は、本田に話しかけられた時にどう返せば良かったのかとそればかりを考えていた。
「……ということがあったの」
昼休み、いつも通りの地学室で、いつも通りの二人を前に、唯は今朝の出来ごとについて話していた。
「まあ、いきなり話しかけられてとっさに反応出来ないことってあるよな」
唯の予想通り、塔野のかける言葉は優しかった。
「私たちに対しては普通に話せるようになったけど、他の人たちに対してはまだ駄目なのね」
ふふ、といじわるな笑みをたたえた真木の反応も、唯の予想通りだった。
「だって、それまでクラスの人とまともに話したことなかったし、今朝いきなり話しかけてくるだなんて思わなかったんだもん。そりゃ、なにも言えないよ」
うー、とうなり声をあげて唯は机に突っ伏した。
「まあまあ、そんなこともあるさ」
ははは、とおおらかに塔野が笑う。
「次を頑張るしかないわね」
真木がいつも通りの無愛想なトーンでそう言った。
「次?次なんてないよ、きっと」
「そんなことないぞ。もしかしたら、これはチャンスかもしれないじゃないか」
塔野が唯の突っ伏している机の前に立ち、手をついてそう言った。唯は顔をあげた。
「チャンス?」
「そうだ。これをきっかけにクラスメイトと仲良くなれるかもしれないじゃないか」
塔野の言葉に、唯は体を起こした。
「そうかな」
「そうだぞ。今まであまり話しかけてこなかったクラスメイトが話しかけてくれたんだろう?これまでよりかなり良い状態になっているじゃないか。唯、ここで頑張るんだ」
「……うん、わたし、頑張る!!」
唯は立ちあがって拳を握り、ガッツポーズをとった。そんな唯を塔野はにこにこしながら眺めていた。
「まったく、単純なんだから」
そう言う真木の口元にも笑みが浮かんでいた。
チャンス、とはいうものの、唯にはどうすればいいかが分からなかった。
いつも通り自分の席について、教科書を眺めながら何て話しかけようかを考えていた。本田の席は唯の席からは遠いので、わざわざそこまで行って話す価値のあることでなければいけない気がした。しかも、特にこれまで話したことがあるわけではないので、さらに話題は限定されてしまう。そう考えていると、本田に話しかけに行くのは絶望的に思えた。
そうやってあれこれ考えているうちに授業が終わってしまった。次は移動教室だ。移動教室なら、廊下を歩いている途中で話しかける機会があるかもしれない。唯はそう思い、必要な道具を持って席を立った。
本田を見ると、友人と楽しげに話しながら席を立ったところだった。それとなく本田と友人の後ろを歩く。話しかけるタイミングを窺うが、ずっと友人と話しこんでいて、あっという間に目的地の視聴覚教室に着いてしまった。
「なにやってんだろ、わたし」
唯は思わずため息をついた。いつも通り、一番後ろの出入り口から一番遠い端の席に着く。その席はクラスメイトと適度に離れており、なかなかクラスに馴染めない唯には心地よい距離感が保たれていた。そんな席に座っているからいけないのかもしれない、という考えが頭をよぎったが、いまさら前の方の席に座る気にもなれず、ぼんやりとクラスメイト達を眺めていた。
クラスメイト達は、だいたい二~五人ずつのグループにきれいに分かれており、めいめい近くの席に座り、お喋りを楽しんでいるようだ。そのグループは常に固定されており、示し合わせたわけでもないのに一緒にいるメンバーはいつも決まっている。はっきりとグループが分かれてしまっている今、唯はますます自分の居場所がないように感じた。
「みんな、何をそんなに話すことがあるんだろう」
もともと、それほどおしゃべりでない唯には、クラスメイト達に毎日毎日話すことがたくさんあるのが不思議でならなかった。唯は家でもあまり喋らず、地学室でも黙って外を眺めるか、本を読んでいることが多い。テレビを見ず、読書以外の趣味もあまりないため、話題がないのだろうとは思うが、それだけが原因ではないような気もする。やはり、自分はコミュニケーションに欠陥があるのだろう、という考えが頭の中を侵食し、暗い気持ちになってしまった。地学室で塔野や真木と知り合い、自分が変わったような気がしていたが、やはり根本的なところは変わらないようだった。
唯が放課後の地学室を訪ねると、すでに真木と塔野がいた。唯の浮かない顔を見て、二人は何があったのかを察した。
「おかえり、唯」
塔野が柔らかい声で言った。
「ただいま。……わたし、チャンスを生かせなかった」
ぼそり、と呟く唯の言葉に、塔野は顔を向けた。
「唯、チャンスは今日だけじゃない。気長にやるんだ。機会を見つけて、少しずつ仲良くなっていくんだ」
塔野は優しく語った。だが、その言葉は唯の胸に突き刺さった。
「それは、塔野ちゃんが人気者だからそう思うんだよ!」
唯の激しい言葉に、塔野は目を見開いた。
「塔野ちゃんは、人とコミュニケーションをとるのが上手くて、明るくて、おおらかで、面白いから。だから、そう思うんだよ! 塔野ちゃんに、人と話したくても話せない、わたしの気持ちなんて、分かるわけがない!」
塔野の悲しそうな顔を見て、唯ははっとした。こんなひどいことを言うつもりじゃなかった。途端に自己嫌悪に陥る。
「……そんなこと、ないんだ」
塔野が小さな声で呟いた。
「そんなことない。俺は、人気者じゃない。明るくも、おおらかでも、面白くもない。コミュニケーションだって、ただ見よう見まねで型どおりにやっているだけなんだ。ただ、人気者のキャラクターという仮面をかぶっているだけなんだ」
塔野の言葉を聞いて、唯は初めて地学室であった時のことを思い出した。
「自分が分からないって感じかな。教室にいるときの俺は、演じている俺っていうかさ」
寂しそうな横顔で、そんなことを語っていた。その時の横顔と、今の横顔が重なった。
「小学生のある日、友達に言われたんだ。『塔野って、いっつも暗いことばっかり言って、いっしょにいてもつまんない』ってね。俺はショックだったよ。自分では仲がいいと思っていた友達に言われたんだ。それ以来、俺はひたすら明るく、おおらかで、楽しい自分でいるように心がけているんだ」
そう言って、塔野は真木と唯を見た。二人とも驚いた表情で、塔野の話に耳を傾けている。
塔野は続ける。
「ちょっと人気者のクラスメイトを観察すれば、どうすれば明るい人に見えるかが分かったよ。思ってもみない前向きなことばかり言って、楽しくないけど冗談を飛ばして、気になってずっと考えていることでも気にしないふりをする。 そんなことを繰り返して、高校生になった。そしたら、なんだか虚しくなった。周りに人がたくさんいて、人気者だと言われるけども、それは本当の俺じゃないんだ。本当の俺を見てくれている人なんて……誰もいない」
塔野の話を聞いて、唯は胸が締め付けられた。塔野は塔野で孤独を抱えていたのだ。
「お前たちに俺の性別の話をした時、ちょっと素の自分が出ていたかな。後ろ向きで、優柔不断で、弱い俺。そっちの方が本物の俺なんだ」
唯はたまらなくなって、塔野の手を握った。
「演じている塔野ちゃんだって、塔野ちゃんの一部だよ。完全な仮面じゃない。だって……、わたしには、同じことできないから」
塔野は目を丸くした。唯の言葉を聞いて目からうろこが落ちたのだろう。
「わたしも、明るいふりして、冗談言っていればもっとうまくコミュニケーションが取れるんだろうなって、なんとなく分かっているよ。でも、頭で分かっていたって、実践はできないよ。それができるのは、塔野ちゃんが塔野ちゃんだからだよ」
「唯……」
唯の優しいまなざしに、塔野の顔が歪んだ。
「やっぱり、駄目だな、俺……。唯を励まそうと思っていたのに、俺の方が唯に慰められているや」
「気にしないで。ごめんね。ひどいこと言っちゃって。わたし、塔野ちゃんのこと、全然分かってなかった」
唯はそう言って握る手に力を込めた。
「……人とコミュニケーションを取ろうとするだけ、二人とも偉いわよ。……諦めていた私とは大違い」
真木がぼそっと呟いた。その言葉は二人の耳には届かなかった。
「でも、ちゃんと本音も語れるようにならないとな。適当にやり過ごすだけの接し方じゃ、相手だって同じようにしか返してくれないだろうし」
「そうだね。それはあるかもしれない。でも、大丈夫だよ。うまく行かなくても、ここに帰ってくればいい。ここに帰ってくれば、おかえり、と言ってくれる人がいる。それだけで、わたしは頑張れる気がするんだ。きっと、塔野ちゃんも頑張れるよ」
一切の曇りがない表情でそう言う唯を、塔野はまぶしそうに見つめた。
「唯は強いな」
「そんなことない。みんなのおかげだよ」
「ま、そうね。唯が泣きながらここに来たら、唯で遊んであげるわよ」
真木の言葉に、唯は苦笑した。
「真木ちゃん……。真木ちゃんらしいや」
今日も地学室に笑い声がこだました。