3 月影 (前編)
十月も半ばにさしかかる頃、塔野と真木と唯の三人はいつも通り地学室にたむろしていた。制服の袖が長くなったことが、いつもと唯一違う点だった。
「もうすっかり秋だね」
外を眺めて唯がぽつりと呟いた。
「そうね」
真木はいつも通り短い返答をした。
「読書の秋とか、スポーツの秋とか言うけど、唯にとっては何の秋だ?」
塔野の質問に、唯は軽く考え込む。
「うーん、わたしは、食欲の秋かも。ついついいっぱい食べちゃうんだよね、最近」
「それは、きっとトイレでお昼を食べなくなったからね」
真木の言葉を聞いて、唯は真っ赤になった。
「あー、人が忘れたいと思っている過去を……」
「真木、そのくらいにしておけよ」
「ふふ、だって、唯ったら反応が面白いんだもの」
もう、真木ちゃんってばー、と唯がすねた声で言うと、真木は笑った。こんなふうに自然に笑えるようになったことを、真木は自分でも不思議に思っていた。今までは笑ったことなどほとんどなかったため、最初は顔の筋肉が少し痛かった。しかし、今ではそのようなこともなくなったので、より自然な表情を作れるようになっている気がする。
「食欲の秋と言えば、駅前のパン屋が美味いぞ。特にクロワッサンが絶品だ」
「クロワッサン! 大好き」
唯が無邪気に言うと、真木はちょっといじわるな表情を浮かべた。
「食欲の秋にかまけて食べ過ぎると太るわよ。クロワッサンなんて、脂肪のかたまりじゃない」
「うう……、確かに気を付けないと」
少し落ち込む唯を見て二人は笑った。
「私は、やっぱり読書の秋かしら」
こうやって、自分から会話に参加するようになったことも、真木の進歩だった。
「真木はいつでも本を読んでいるじゃないか」
「秋に読むのは、また違った風情があるのよ」
「ふーん、そんなものか。俺は理系であんまり本を読まないから分からないな」
塔野が伸びをしながら呟いた。
「確かに、塔野ちゃんは読書しているよりも、外でスポーツしている方が似合うな」
「バスケは屋内競技よ」
唯の呟きに、真木がすかさず突っ込む。
「……真木ちゃん、ツッコミが鋭すぎるよ」
うなだれる唯を真木がにやにや笑いながら眺めている。「真木ちゃんのいじめっこ!」という唯の叫びも、真木を笑わせるだけだった。そんな二人を塔野は温かく見守っていた。
「塔野ちゃんにとっては、やっぱりスポーツの秋かな」
気を取り直して、唯は塔野に質問した。
「そうだな。スポーツの秋だ。だけど、秋の醍醐味は別にあると思うんだ」
「秋の醍醐味?」
真木が顔を向ける。
「そう、秋になると夏によく出てくるあいつらの出現頻度が低くなるじゃないか」
塔野が顔をキラキラさせてそう言った。
「あいつら……?」
唯はぴんと来てないらしく、小首を傾げている。塔野が説明を重ねようとした、その時だった。
「きゃー!」
塔野が途端に黄色い悲鳴をあげた。視線を追うと、そこには黒光りする大きな虫がいた。
「……噂をすれば影ね」
真木もひきつった顔をしている。すぐに手近にあった古いプリントの束をつかむと、それを丸め、棒状にして大きく振りかぶった。
「死ね、死ね!」
叫びながら黒い虫を必死に叩く。
何度も何度もプリントを叩きつけ、終わった頃には虫は原形をとどめていなかった。
肩で息をする真木に唯が後ろから声をかけた。
「そこまでしなくても良かったんじゃ」
「唯は平気なの!?」
ぎっ、と半分睨みつけるような格好で、真木が振り向いた。
「えっと、嫌いだけど、そんなに過剰反応することは無いかなって思うよ」
落ち着いた声で唯がそう言うと、「意外なところがあるのね……」と真木が呟いた。
真木と唯が残骸を処分し終えた頃、振り向くと塔野はまだかすかに怯えていた。
「もう死んでいるか? 大丈夫なのか?」
「真木ちゃんが粉々に粉砕したから、大丈夫だよ。絶対生きてないって」
安心させようと、唯は笑顔を作った。
「良かった……」
本当に安堵したようで、塔野は大きな息をつき、肩の力を抜いた。
「塔野がゴキブリ嫌いなんて、ちょっと意外ね。平気そうなのに」
「一度、退治しようとした時に、あいつが飛んでこっちに向かってきたことがあったんだ。それ以来、あいつは無理だ」
塔野は「ゴキブリ」という言葉を意地でも使うまいとしていた。
「えへへ。塔野ちゃん、女の子らしくて可愛いところあるんだね」
無邪気な唯の言葉に、塔野の顔がさっと曇った。
「女の子らしい……ね。俺、そういう女性らしさを押し付ける言葉って、好きじゃないな」
怒りの込められた言葉に、唯はびっくりして、言葉が出なかった。そんな唯を見て、塔野ははっとした。
「……悪い。今日は先に帰るわ」
そう言うと、塔野は先に帰って行ってしまった。唯は動くことが出来なかった。今まで、唯は塔野のことを明るくて、優しくて、おおらかな人だと思っていた。だから、塔野がたった一言のせいであんなに怒ってしまうなんて、思ってもみなかったのだ。
「塔野ちゃん……」
「こんな展開、最近あったよね」
まるで他人事のように真木が呟いた。
「真木ちゃん、どうしよう。塔野ちゃんを怒らせちゃった」
泣きそうな表情で唯が真木の方を向いた。
「私にどうしろというの?」
こういう展開には慣れていないのか、真木は珍しく戸惑った表情をする。
「真木ちゃん、わたし、どうすればいい?」
とうとう涙をこぼしながら、唯は真木にすがりつく。
「どうしたらいいって……、あなたが、自分が悪いと思うのなら、謝るしかないんじゃないの?」
真木の口から正論が出たことに驚いて、唯は思わず聞き返す。
「真木ちゃんだったら、この場合、謝る?」
「私は、自分が悪いとは思わないから、謝らないわ」
真木の台詞に、唯は「さすが真木ちゃんだ」と心の中で叫んだ。
地学室を出て、塔野は大きくため息をついた。唯が悪意なく「女の子らしい」という言葉を使ったことは十分分かっていた。それでも、塔野には唯のその言葉を聞き流すことが出来なかった。
「あー、俺ってば大人げないな。……ま、大人じゃないから当然か」
自分でもよく分からない納得の仕方をして、とりあえず昇降口に向かうことにした。どうやら少し混乱しているらしい。
世の中の女の子たちは、どうやって自分が女性であるということを受け入れているのだろう。塔野はいつもそれを考える。女性である証の日が来て、家族で赤飯を食べた時、塔野はどうしようもなく悲しくなった。自分が女性であることが、とても嫌だったのだ。
それまで塔野の周りにいた女性は、常に陰だった。母親は専業主婦で、大して家事も手伝わない父親に常に気を遣っていた。姉はいつも違う男を連れてきて、男に媚びてばかりいた。学校に行けば、委員長が男子、副委員長は女子。男子は体育委員、女子は保健委員。名簿の順番はいつも男子が先。女の子たちは気になる男の子の話ばかりして、男の子と話す時だけ女の顔になる。人の気持ちに敏感な塔野には、女性のそんな側面ばかりが目についてしまう。
女性は男性を立てなきゃいけない。男性を陰から支えなきゃいけない。偉そうにする男性に媚び、機嫌をとって捨てられないようにしなきゃいけない。男性に可愛がられるために外見を磨き、家事を学ぶ。箱の中に閉じ込められて、自由に羽ばたく羽をもがれる。一生、小さな世界で過ごす。これが、塔野にとっての女性だった。そして、自分がそんな存在だということを受け入れられずにいる。
もしかしたら、自分の育った環境が悪かっただけなのかもしれない。そうは思うが、何しろ自分の経験からでしか物事を考えられないのだから、女性のイメージが覆ることは無かった。
「あ、塔野じゃん」
クラスメイトから声をかけられ、塔野は現実に引き戻された。
「どうしたの?今は部活の時間じゃん?もしかして、サボり?」
クラスメイトはスカートを限界まで短くし、軽く香水を付けていた。男に媚びるための行為に感じられて、塔野は軽い嫌悪感を覚えた。
「まーな。そういうお前こそ、サボりなんじゃないのか?」
わざと男らしい口調で喋る。女性である自分を否定するように。
クラスメイトはわざとらしく「しーっ」と人差し指を立てた。塔野とクラスメイトは顔を見合わせて笑う。
「ははは、じゃあお互い部員に見つからないようにせいぜい頑張ろうぜ」
塔野はそう言ってクラスメイトと別れた。
学校に溢れる女子たち。その半数ほどがこのクラスメイトと同類な気がしていた。
スカートを短くしていなくても、香水を付けていなくても、心は同じ。自分の意思がなく、男性にこびへつらって生きている。
「ああ、俺ってすごく考え方の偏った人間なんだよな、きっと」
そんな気はするが、どうしようもない。
そんなことを考えながら歩いていると、あっという間に校門に辿り着いた。学校の敷地を出て、ふと、明日どうやって地学室を訪れたらいいのだろう、という疑問が沸き起こった。この考えに今まで至らなかったことから、自分が相当混乱していたらしいことが分かる。
なんとも気まずい出方をしてしまった。向こうが、こちらの怒った理由を知っているのだとしたら、まだいいだろう。しかし、向こうは理由も分からず、ただ怒らせてしまって申し訳ない、と思っているのだろう。この事実が塔野の罪悪感を増大させた。
「わたしは、理由はよく分からないけど、怒らせちゃったことは事実だから、申し訳ないなって思うよ。だから、謝ろうと思う」
塔野が想像していた通りの考えを述べて、唯は真木の目を見た。
「……唯、随分変わったね」
真木の言葉にそうかな、と唯は首を傾げる。
「まだ言葉はそれほどスムーズじゃないけど、なんていうか、強くなったし、優しくなった」
真木の言葉に、唯が目を見開いた。
「真木ちゃんがわたしをほめた!!!」
「……唯は私のことを何だと思ってるの?」
「えっと、ごめん。そういうことじゃなくて……」
唯の狼狽する様子を見て、真木は一つため息をついた。
「ま、いいけどね。なんとなく、言いたいことは分かるし」
諦めたように真木はそう言った。
「女の子らしい、か」
真木のひとりごとに、唯はすぐに反応した。
「それが塔野ちゃんの怒った理由だよね、たぶん。なんで怒ったんだろう。わたしだったら、女の子らしいって言われたら素直に嬉しいけどな」
「……ま、塔野にはあんまり嬉しくない言葉だったのね」
そう言って真木は窓の外を眺めた。いつの間にか、かなり時間が経っていたらしい。暗くなった空に月が浮かんでいた。
***
翌日。唯のクラスでは、担任の授業をつぶしてクラス会議が開かれていた。十一月半ばに開催される文化祭の出し物が、未だに決まらないためだった。
「えー、案のある人はどんどん出していって下さい」
クラス委員長の男子が呼びかける。しかし、誰も声をあげようとしない。もちろん、唯も下を向いて押し黙っている。副委員長の女子生徒が手持ち無沙汰にチョークをもてあそんでいる。
「もう時間もないし、休憩所でよくない?」
「さんせー! 準備とか面倒くさいしね」
無責任な声があちこちからあがり、委員長は困った顔になる。
「えー、休憩所は今年から禁止になっています。各クラス、必ず何かしらの出し物をするようにと言われています」
委員長の返答に、えー、とブーイングが起きる。
「去年までは休憩所で良かったのに」
「あと一カ月しかないのに何をやるっていうんだよ」
否定的な声ばかりあげるクラスメイトに、委員長はため息をついた。
「ちなみに、他のクラスは、映画、占い、喫茶店、お化け屋敷だそうです」
「えー、どれも準備大変そう」
「映画とか今からじゃ無理だろ」
「お化け屋敷も難しくない?」
がやがやとクラスメイト達は隣近所の友人たちと思い思いの話をしだした。しかし、そのどれもが生産的でないことは火を見るよりも明らかだった。
「しずかに! ……本田さんは何か案はない?」
委員長が振り返ってチョークをいじっていた女子生徒に声をかけた。
「……え、私?」
急に声をかけられて、女子生徒はきょとんとした表情になる。
「そう。本田さんは副委員長じゃない。なにか案はない?」
「えっと、私、あくまで『副』委員長だし、女子だし、なんていうか、そういうの決めるのって男子の役目じゃない?」
副委員長の台詞に、何人かの女子がそうだそうだ、と声をあげた。その声を聞いて、それまでずっと下を向いていた唯が顔をあげた。今のやりとりに、何かが引っかかった気がした。
「あれ、小日向さん、何か案を思いついた?」
それまで男子が決めるべき、と言っていた副委員長がころっと態度を変え、唯に話を振った。
「……え?」