2 距離感 (前編)
小日向は舞い上がっていた。
理由は簡単だ。中学生の時からいなかった、友達という存在が彼女に出来たからだ。家族以外とは話すこともままならない小日向にとって、それなりに普通に話せる他人というのは非常に貴重な存在だった。そう、彼女にとってはそれなりに普通に話せる他人=友達なのだ。友達の基準はもちろん人それぞれだが、彼女の場合、友達が今までいなさ過ぎて少々基準がずれてしまったことは否めないだろう。
だから、自分の行動に少しも疑問を抱けなかった。
「マキちゃん!!」
廊下のはるか向こうに真木の姿を認めた小日向は、大きな声で真木に合図をした。見ると、大きく手を振っている。小日向が喋っているのをほとんど聞いたことのないクラスメイト達は目をむいている。
真木はというと、小日向の姿を認めると、何処かへ消えてしまった。
「マキちゃん、どうしたんだろう」
小日向は友達の去って行った廊下の先を見て、胸が苦しくなるのを感じた。
小日向は舞い上がっていた。でも、その気持ちを表現すると、せっかくできた友達が離れ、友達ができる前よりもずっと暗い気持ちになるのだった。
「マキちゃん……今日の休み時間、どうしたの?呼びかけたのに……無視して……行っちゃう……なんて……」
放課後の地学室。小日向が相変わらず少し不器用な日本語で尋ねた。塔野は部活に行っているのか、今日は来てなかった。
「どうしたって、あんなに離れた距離であんなに大声で声かけられたら誰でも驚くわよ」
真木がまっとうな答えを返すと、小日向はそう?と小首を傾げた。その様子を見て、真木は小日向がコミュニケーションを苦手としていることを思い出した。
「……普通はそうなの。あと、それだけじゃないわ。私とあなたが知り合いっていうのを知られたくないのよ」
知り合い、という真木の言いまわしが小日向の胸に突き刺さった。
「……小日向さん?」
はあ、と真木はため息をついた。
「クラスも違って部活動もやっていない私たちがどうやって知り合ったって説明するつもり?説明しようとしたら、どうしたってこの教室のことを話さなくちゃいけなくなるじゃない。私はそれが嫌なのよ」
「マキちゃん……」
「この教室は、私にとって大切な居場所なの」
真木はじっと教室の中を眺めながらそういった。静かに見つめる真木はまるで高級な人形のようだった。
「……うん、わたしにとっても……ここは……大事な場所……だよ」
「だったら、私に声をかけないで」
「はうう……」
結局、小日向は真木に言い負かされてしまった。
「……て、ことが……あった……んだけど」
真木が帰った後の地学室で、小日向は暗くなってから来た塔野に今日のことを話した。
「なるほど。ひとつ言っておくが、そんな風に大声で声かけられたら俺でも逃げるからな。今度から気を付けるんだぞ」
塔野は小日向を優しく諭した。小日向も塔野の話に素直に頷いた。
「真木が話しかけるな、って言った話だけど、確かに真木と小日向が知り合ったきっかけを話そうとするとこの教室のことを話さなきゃいけなくなるってのは一理あるよな…」
「うん……。わたしも……それは……分かっているんだけど……」
「分かっているんだけど?」
塔野がそっと小日向に尋ねる。小日向は自分でも心の整理が出来ていないのに、それを言葉にするなんてとてもじゃないけど出来なくて、黙ってしまった。塔野は、小日向が口を開けるのをじっと待っていた。
「えっと……、マキちゃんが……は、離れちゃった…気がして…寂しい? 悲しい? って感じ…かな…」
小日向はじっくり考えた末に出てきた答えがあまりにも稚拙で恥ずかしくなった。
「そっか。まあ、それはそうだよな。せっかく知り合えたのに声かけるな、なんて言われたら、そりゃあ傷つくよな」
塔野の答えが小日向の言葉を真摯に受け止めたものだったから、小日向は少し心が軽くなった。
「うーん、じゃあ……、真木ともっと深く関われるきっかけを作って、信用できる友達にまでなってしまえば寂しさは和らぐかもしれないな。まあ、時間かかるし、難しいかもしれないけど」
「きっかけ……」
小日向はその言葉に何か感じるものがあったのか、下を向いてそっと呟いた。
「そっか。……わかった。わたし……少し考えてみるね。ありがとう。……ところで……塔野ちゃんって……下の名前……なんていうの?」
「えっ…」
小日向の唐突な質問に、塔野は凍りついた。
「マキちゃんは……マキちゃんだし……塔野ちゃんは……何て呼べばいいかな……と思って」
「……小日向、言っておくけど、真木のマキは名字だぞ」
「えぇ!?」
小日向は目を丸くしてのけぞった。
「……そこまでオーバーなリアクションしなくてもいいと思うけどな。真の木と書いて真木。名前は祥子だ」
「……じゃあ……祥子ちゃんって……呼ぶね」
「……いや、あいつの場合どうだろうな」
塔野は腕組みをして考えた。
「……今まで通り真木ちゃんでいいんじゃないか?なんか、名前っぽいし」
「うーん……そうかなあ……」
小日向は納得いかない様子だったが、しぶしぶ頷いた。
「そういうわけで、じゃあまた明日な」
「うん……また明日」
そう言って小日向と塔野は別れたのだが、
「……あ。結局、塔野ちゃんの名前って……何だったんだろう……」
小日向の中に疑問が残ってしまった。
***
「ねえ、遊びに……行こう」
唐突に、小日向はそう言った。
その場にいた真木と塔野は、状況が分からず、何も言えなかった。
「わたし、友達と買い食いとか、ショッピングとか、したことないんだよね。だから、してみたい」
「私は嫌よ」
さらりと真木は言った。
「だって、学校の人たちに見つかったら面倒じゃない」
真木のクールな台詞に、小日向はショックを受けた。加えて、学校の人たちに真木と自分の関係がばれてはいけないことが、そもそもの自分の悩みの原因だったことを思い出した。これは、真木との関係をより良いものにする解決策などにはなりえないと気付き、自分の愚かさにほとほとあきれてしまった。
そうやって小日向が沈んでいると、思わぬところから助け船が出た。
「まあ、隣町まで行って、私服に着替えればばれないんじゃないか?」
塔野が小日向の発言を支持するようにそう言った。
「塔野!」
真木が少し怒ったように言った。
「いいじゃないか、外に出かけるのも。真木だって、たまには普通に遊んでみたら楽しいんじゃないか?」
塔野の言葉を聞いて、真木の目の色が変わった。少し驚くような、戸惑うような、そんな色を見せて、最後には小さく頷いた。
「……分かった。着替えを持って、隣町まで行きましょう」
真木の台詞を、小日向は信じられない気持で聞いていた。
「本当に……? 本当にいいの? 真木ちゃん……」
「あなたが言いだしたことでしょ、小日向さん。それとも、本当は行きたくないの?」
少し意地悪く真木はそう言ったが、小日向はそんな真木の意地悪さにまるで気づいていない無邪気さで喜んだ。
「やったー! じゃあ、塔野ちゃんの部活がない、明後日でいいかな……?」
「ああ、俺は構わない」
「私も大丈夫」
「じゃあ、それで決まりね。やったー、すごく楽しみ」
心の底から喜んでいる小日向の姿を、塔野は温かい表情で、真木は複雑な表情で見守っていた。
三人で遊びに行くことにした当日、真木の提案で、隣町の駅のショッピングビル前で各自着替えてから待ち合わせすることにした。
「真木ちゃん、塔野ちゃんまだかなあ」
小日向は約束の三十分前に待ち合わせ場所に来ていた。小日向は一昨日からこの日が来るのをずっと楽しみにしていたのだ。正直に言うと、昨晩は興奮してあまり眠れていない。授業中ににやにやしてしまうのをどうにか我慢するのが精一杯だった。まるで遠足前の小学生だ、と自分でも少しおかしかったが、気持ちの高まりを自分ではどうすることもできなかった。
ショッピングビルのガラスに自分の姿を映す。お気に入りの花柄のワンピースにピンクの鞄、白いバレエシューズ。ちょっと乙女すぎたかな、でもこれくらい普通なのかな、と昨日散々迷った挙句決めたのにまた思い悩んでしまう。そうやって色々考えていたら、いつもならあっという間に時間が経つのに、今日はなかなか分針が進まなかった。
結局、塔野が現われたのは待ち合わせの五分前だった。
「ごめんな、小日向。待ったか」
塔野はTシャツの上に綿のシャツをはおり、ジーパンをはいたラフな格好だった。塔野の格好を見て、小日向は、自分の服装が少し恥ずかしくなった。
「う、ううん。さっき来たところだよ」
小日向はどこかで聞いた、待ち合わせした時の常套句を口にした。この台詞を言えて、小日向はそれだけで嬉しくなった。
「そうか、それなら良かった。小日向、その格好可愛いな」
さらっと口にした塔野の台詞に、小日向は言葉を失った。
「えっ、いや、あの、そんなこと、ない……。えっと、えっと……ちょっとわたしには可愛すぎるっていうか……」
小日向はしどろもどろになってしまった。それを見て、塔野が笑う。
「いやいや、否定するなよ。小日向はちゃんと可愛いんだから自信持てって」
「え、あ、うー……」
塔野の言葉に小日向はさらに何と言ったらいいか分からなくなってしまった。
「いちゃついているところ失礼。遅くなってごめんなさいね」
小日向が振り向くと、そこには黒いセットアップを大人っぽく着こなした真木が立っていた。
「ひょっとして私、邪魔者? 失礼した方がいいかしら?」
真木が冗談めかしてそう言う。小日向はぶんぶんと大きく首を振った。その様子を見て、真木も塔野も笑う。
「ははは、小日向、お前小動物みたいでホントかわいいな」
そう言って塔野は小日向の頭をくしゃくしゃとなでる。
「うー」
小日向は不本意だという声を出したが、二人に無視された。
「さて、じゃあどこに行きましょうか」
「えっと、服とかアクセサリーを見て、喫茶店に行きたい」
立ち直って小日向はそう言う。
「王道なコースだな。じゃあ、とりあえずこのショッピングビルの中を下から上に順に見て行こうか」
「そうしよう!」
元気を取り戻して小日向は先頭に立ってビルの中へ入っていく。
「真木って普段こういう所に遊びに来たりするのか?」
小日向の後ろで塔野が質問する。
「そうね、ほとんど来ないわね。あまり外で買い物をするってことがないから」
「通販で済ませているの?」
振り返って小日向がきく。
「ええ、そうよ。人混みはあまり好きじゃないもの」
「ふーん、そういうものなんだ」
そう言うと、小日向は前を向いた。
「わたしは、こういう人の多い所に誰かと来るっていうの、すごく憧れだったんだけどな……」
誰ともなしに小日向は呟いた。
「真木ちゃん、塔野ちゃん、見てみて、これ、すっごくかわいい」
「あ、見てこれ。この服雑誌に載ってるやつなんだって」
「これとってもきれーい」
小日向の喜びようは二人の予想を超えていた。一つ一つ店を見ては、いちいち感動する。商品だけではなく、ディスプレイ、店員、マネキンなど対象は多岐にわたった。最初は微笑ましく思っていた塔野も、だんだん疲れてきた。真木は二つ目の店に入った段階から閉口していた。それに気付かず、小日向は一人で盛り上がり続けている。
「……なあ、小日向。そろそろ休憩しないか」
「え、でもまだここ二階だよ」
「まあ、いいじゃないか。喫茶店に行こう」
そう言って塔野は半ば強引に小日向を喫茶店に連れこんだ。
喫茶店でも小日向は大いに感激し、どのケーキにするか、真剣に悩んでいた。
真木は一人だけコーヒーをさっさと頼んでいた。マイペースな二人に挟まれて、塔野はひそかにため息をついた。
「なあ、小日向。こういうショッピングビルに来たことないのか」
ようやく注文を終えた小日向に塔野は尋ねた。
「うーんと、お母さんと来たことはあるんだけど、なんか友達と来ると見たことあるものも新鮮に映るんだよね」
「ああ、それはいいことだな」
ほぼ棒読みで塔野はそう言ったが、小日向は額面通りの意味しか捉えなかったようで、えへへ、と天真爛漫な笑みを浮かべた。
塔野は、この状況をどうしたものかと頭を抱えた。小日向に全く悪意がなく、純粋にウインドウショッピングを楽しんでいる様子だったので、水を差すようなことを言うのがためらわれたのだ。
「塔野ちゃんはこういう所によく来るの?」
考えごとをしていた塔野は、小日向の言葉を理解するのに時間がかかった。
「え、ああ。部活の仲間やクラスのやつらとたまに来るな。買うことはほとんどないけど」
「ふーん……」
いいな、と小さく唇だけを動かした。
「まあ、また来ればいいじゃないか」
口にしてから塔野ははっとした。今日のことをどうするかも決めてないのに、次回のことを話すなんて、なんて失態だ、と思った。塔野は、自分が小日向に対してはどうも甘やかしてしまう傾向にあると発見した。
「うん」
小日向が満面の笑顔でそう言う。その笑顔に、塔野は何も解決していないのにほっとした。
「私は嫌よ」
空になったコーヒーカップを置いて真木が言う。コーヒーカップがソーサーに当たる硬い音が響いた。
「だって、私は楽しくない。疲れるだけだもの」
しばし沈黙が流れた。
「どうして?」
沈黙を破ったのは小日向だった。少し泣きそうな顔をしている。
「どうしてって……、あなたばかり騒いで、全然楽しめないもの。そもそも、私は人混みが嫌いだし」
小日向は下を向いて何も言わなかった。
「私、帰るわね」
コーヒーのお金をテーブルに置き、真木は立ちあがった。
「おい、帰ることないだろ」
塔野の呼びかけにも答えず、真木は鞄を持って去って行った。
「どうして……?」
あとには泣きだす小日向と、途方に暮れた塔野だけが残された。