8 誘い
期末試験が終わると、後は楽しい冬休みが待っている。クリスマスに正月と、イベントの豊富な冬休みを前に、生徒たちは色めき立つ。その余波は、普段教室の隅にいる少女にまで届いていた。
「小日向さん、良ければクリスマスに、俺とデートして下さい」
人気のない学校の屋上で、小日向は男子生徒にそう誘われていた。自分が言われたことを理解できないのか、目を白黒させている。そんな様子を物陰から盗み見ながら、塔野は予想外の展開についていけずにいた。そもそも、どうしてこうなったんだっけ……。塔野は昨日のことを思い返していた。
「引き出しに差出人不明の手紙が入っていたの」
放課後、唯はそう言ってノートの切れ端のような紙を開いた。そこには、「明日の放課後、屋上に来てください」とだけ書かれていた。
「なんだ、この不気味な手紙は」
「確かに、なんだか気味が悪いわね」
塔野も真木も、この手紙に良い印象を抱かなかった。
「で、どうするの?」
真木が淡々と尋ねる。
「どうするって……」
唯は押し黙ってしまった。
「まあ、無視するのがいいとは思うけどな」
「確かに、行ったら怖い目に遭うかもしれない。でも、無視したら、もっとひどいことされちゃうかもしれない。引き出しに虫の死骸を入れられたり……」
「やめろ、想像するだけで気分が悪くなる」
虫が大の苦手な塔野は話に出てきただけで眉をしかめた。
「その可能性は否定できないわね」
真木はあくまで冷静だった。
「わたし、どうすればいいかなあ」
唯が泣きそうな表情をして二人に訊いた。
「行かないリスクを大きいものと考えるのなら、行くべきでしょう。でも、行った場合のリスクは最小限にする必要があるわね」
「つまり、どうするの?」
「決まっているじゃない」
そう言ってにやっ、と真木は笑った。
その結果、今に至る。先に塔野と真木が屋上に上がり、物影に隠れて唯を見守るのだ。もし、大事になりそうならば、真木が相手の気を引きつけている間に、塔野が携帯電話で助けを呼ぶ。そのような手はずになっていた。
だから、塔野も真木も緊張した面持ちで二人を見守っていたのだ。
それなのに、蓋を開けてみれば……、なんてことだろう。いや、確かに緊張感あふれる場面であることは間違いないのだが、想定していたことと方向性が違いすぎて、塔野は放心してしまっていた。
「あら、こっち方面のお誘いだったのね」
真木がこともなげに呟いた。塔野は、真木の頭の中を覗いてみたい衝動に駆られた。
「えっと……わたし、あの、田中君と、その、あんまり、話したことない……気がするんだけど」
ようやくショックから立ち直ったのか、とぎれとぎれに唯がそう言うのが聞こえた。
「たしかに俺が話しかけても、小日向さんは緊張してあまり話してくれなかったね」
はうう、と唯が鳴いた。
「でも、だからこそ、二人きりでデートすれば、たくさん落ち着いて話す時間が作れると思うんだ。……駄目かな」
田中がちょっと眉を寄せてそう尋ねた。唯はおろおろするばかりだった。
「えっと、あの、その、そもそも、なんでわたし……? わたし、あの、友達とか、いないし、もっといい子、たくさんいると思う……」
「同じクラスになった時から、小日向さんのこと、可愛いなと思ってて、ずっと気になってたんだ。特に最近、なんだか雰囲気が明るくなった気がして、ますます気になってて……。俺、何言ってんだろ」
田中は真っ赤になってうつむいた。そんな田中を見て、塔野は何故か苛立った。唯とまともに話したこともないのに、何を言ってるんだ。お前に唯の何が分かるんだ――そんな考えが頭をよぎった。
「……あの、それって、今……返事、しなくちゃ、駄目?」
唯が困り果ててそう訊いた。
「あ、ごめん。そんな急に返事をしてって言われても困るよね。うん、ゆっくり考えて大丈夫だよ。一週間後、またこの場所で返事を聞かせてもらえるかな」
田中の言葉に唯が小さく頷いた。それを確認すると、田中は唯に背を向けた。
「それじゃ……また、一週間後に」
振り返ってそれだけ言うと、田中は屋上から姿を消した。
田中の足音が遠ざかってから、塔野と真木は唯に近づいた。
「まさかの展開だったわね」
「うん……。まさか、デートに誘われるなんて思わなかったからびっくりしたよ。わたし、こんなの初めて」
「嬉しいのか?」
塔野の口から自分でも思いもよらない言葉が飛び出た。
「うーん、どうだろう。でも、純粋に好意を寄せてもらっているのは嬉しいかな」
「そうか」
塔野の言葉の冷たさに、唯は驚いた。塔野自身も驚いている。
「あ、ああ、気にしないでくれ。ちょっと展開についていけなくて混乱しているんだ」
「そっか。それはわたしもそうだよ」
唯はあっさり納得した。真木が何か言いたげな目で塔野を見ていた。
「それなら、早く帰って、自分の中で整理をした方がいいかもしれないわね。田中君が唯にとってどういう存在なのか、知っているのは唯だけだから」
「そうだね。……うん、分かった。今はちょっと自分で考えてみるね。後で、二人に相談するかもしれない」
それじゃあ、と言って唯は背を向けた。
「唯」
塔野は無意識のうちに声をかけていた。
「何? 塔野ちゃん」
愛らしい、丸い目が塔野を捕らえる。塔野は思わず目をそらした。
「ああ、いや、何でもない。ごめんな」
「そっか。じゃあ、また明日ね」
特に気にした風もなく、唯はあっさり去って行った。
唯の足音が消えるまで、真木も塔野も動かなかった。
「……塔野」
真木が塔野に向き合った。静かな目は自然の奥に潜む湖を思わせた。その静謐さが不気味で、塔野は死刑宣告されるときはこんな気持ちになるのだろうか、とぼんやり考えた。
「あなた……唯に恋しているのね」
その一言はある意味、塔野にとって死刑宣告よりも重たいものだった。
「あなた……唯に恋しているのね」
真木に言われたこの一言が、ずっと塔野の頭の中に流れている。恋するって何だ。同じ言葉が頭の中で再生され続けていたせいで、言葉の意味が解体されてしまった。
恋するとは、誰かを慕い、大切に想うこと。そんな意味だろう。
唯に恋しているのだろうか。確かに唯は大切だ。尊敬もできる。でも、これは恋だと言えるのだろうか。
そもそも、自分の性別すら分からないのだ。ましてや、恋愛対象の性別なんて、分かるわけがない。
そう、塔野は自身の中で言い訳をしていた。
そんなの全て言い訳だ。本当は、全部分かっている。
塔野は唯に恋している。
いつからだろう。もしかすると、ずっと前、出会ってすぐの頃からかもしれない。
でも、無意識のうちに、思考がそこに辿りつかないように気を付けていたのだ。気づいたって、誰も幸せにならないから。
それが、真木の一言のために気づいてしまった。吸い込まれるように、自然に、ごく自然に、塔野はその気持ちを見つけてしまった。
唯との思い出がよみがえる。初めて会った時のおどおどした態度。遊びに行った時の楽しそうな笑顔。真木に謝罪した時の強い瞳。塔野の悩みを知っても、受け入れてくれた優しい表情。塔野の全てが仮面ではないと語った芯のある声。そして……文化祭で握った、唯の手のぬくもり。
ああ、何だ。最初からだったんじゃないか。最初から……唯のことが好きだったんだ。
ははは、と乾いた笑い声が塔野の口からこぼれた。
なんだこれ。誰かにとられそうになってから気づくなんて馬鹿げている。そもそも、この気持ちに気付いたところでどうしろって言うんだ。唯は大切な友達で、きっと向こうは恋愛感情なんて微塵も抱いていない。
それに、唯はちょっと躓いてしまっただけで、普通の女の子なんだ。本人も、普通になることを望んでいる。だから……自分のような普通じゃない人間が普通じゃない領域に引きずり込んではいけない。
これまで通り、何も気づかなかったふりをして、自分の気持ちに蓋をして、今までどおりに接するんだ。それが正解なんだ。
そう、分かっていても……塔野は胸の痛みをどうすることもできなかった。唯への想いを抱えたまま、何もしない。それが最善の策だと頭では分かっている。だが、それはあまりにも辛すぎる。塔野の強くない心が悲鳴を上げていた。
塔野に、唯に恋していることを突き付けた後、塔野は焦点の合わない目のまま、黙って引き上げていった。
真木が声をかけても、返事がない。
あまりにも様子がおかしく、心配だったので真木は後をつけた。きちんと地学室に鞄を取りに行き、無事帰路についていたので、大丈夫だと判断した。真木は自分の家路についた。
塔野が唯に特別な好意を抱いているのは、薄々気づいていた。だが、今日の出来事で、それが恋心だとはっきり分かった。塔野は自分でも自覚しないまま、唯を傷つけそうになっていたため、指摘した。
それが、最善だと思った。
真木は、今の三人の関係を壊したくなかったのだ。
だが、塔野があんなに虚ろな様子になってしまったのを見て、果たして本当に最善策だったのか、自信がなくなってしまった。
「気づかない方が……いいことも、あるわよね」
真木の呟きは、街の雑踏に溶けた。
唯は家に帰る道すがら、ずっと今日の誘いのことを考えていた。
正直に言って、田中のことを男性として意識したことは無い。向こうの好意にも、これまで全く気がつかなかった。そもそも唯は男性にデートに誘われたことがないのはもちろんのこと、中学生以降、女友達に遊びに誘われたことすら無かったのだ。人の好意に鈍感になっていたとしても無理は無いだろう。自分のこれまでの青春を振り返って、唯は軽く落ち込んだ。なんて乾いた青春だったのだろう。
気を取り直して、田中のことを考える。顔立ちは、悪くはない方だと思う。少し気が弱そうだが、優しそうな性格だ。あまり話したことはない――というか、自分がまともに返事を出来なかった――とはいうものの、今日話した感じだと、一緒にデートしても、それほど気負いなく一緒にいられるタイプだと感じた。初めてのデートをする相手としては、それなりに良い方なのかもしれない。
まさか、塔野と真木以外に友達のいない自分に、友達よりも先に恋人が出来るかもしれないだなんて、少し前では思ってもみなかったことだ。そう思いを巡らし、唯は運命のいたずらに驚くばかりだった。
翌日の昼休み。唯が地学室を訪ねると、真木がいた。塔野がいないのはよくあることだったので、唯はあまり気にしなかった。
「あら、唯」
黒髪をたなびかせ、振り返った真木は、女性の唯でも息をのむほど美しかった。
「やっほ、真木ちゃん」
そう言って、唯は真木の近くの席に座った。昼食を広げる。真木はすでにパンをほおばっていた。
「真木ちゃんって男の人からデートに誘われたことってある?」
これだけ美人なんだから、きっとあるのだろうと思って、唯は尋ねた。
「そうね、あるわよ。……昨日のことを考えているのね」
「うん。誘われた時、真木ちゃんはどうした?」
「どうしたって……、全てお断りしたわ」
「そっか。なんとなくそんな気はした。どうして?」
「興味が無かったから」
ばっさり切り捨てる真木の言葉に、唯は笑った。
「真木ちゃんらしいなあ」
「私に興味がないのに、デートに行ったって、お互い不幸なだけじゃない」
「もっともな考えだね」
「唯は?」
真木の短い問いの意味するところが分からず、唯は目を瞬かせた。
「唯は、あの人のこと……どう思っているの?」
唯は外を眺めた。外は陽が照っていて明るかった。この教室の窓は西向きのため、昼間は教室の中まで日光が入って来ない。対照的に、唯の手元は暗く感じた。
「……分からない」
唯が小さな声で呟いた。
「そう」
真木は何かを考え込むように目を閉じた。
「……分からないから、デートに行ってみる、という考え方もあるし、相手に失礼だから、行かないという考え方もあるわね」
「そうなの。だから、どうしていいのか……」
唯が戸惑った表情を浮かべる。
「まだ時間はあるわ。ゆっくり、考えるといいわ」
「そうだね」
そう言って唯は、再び明るい外を眺めた。
***
屋上での出来事があってから、塔野はもう二日間、地学室を訪れていなかった。唯の顔をまともに見れる気がしなかったのだ。
でも、このままだと、また唯は自分が悪くもないのに塔野に謝りに来るのだろう。そのことだけははっきりしていた。そんなことをさせてはいけない。だから、地学室に行かなくてはいけない。分かっていた。分かっていたけど、いつも足は部活へ向かっていた。
唯が塾で地学室に来ないことが分かっている金曜日の放課後、塔野はようやく地学室の扉に手をかけた。真木が窓辺で本を読んでいた。
「ようやく来たわね、塔野」
「真木……」
塔野は目を伏せた。真木とも屋上での一件以来、まともに話していない。どうすればいいのか分からず、その場で固まってしまった。
「そんなに気にしないで、塔野。私はこの間のこと、気にしてないから」
真木の言葉を聞いて、少し塔野の肩の荷が下りた。真木のもとへ近づく。
「俺は、どうしたらいいんだろうな」
塔野の呟きを受けて、真木が珍しく目を泳がせた。
「私は、何も言わなかった方が良かったのかしら」
塔野は真木を見た。真木がいつもより小さく感じた。いつもの自信に溢れた様子は陰を潜め、両腕で自らを抱いている。
真木が思い悩んでいたなんて、塔野には思いもよらなかった。確かに、塔野が自分の気持ちに気付いたのは、真木の一言のためだから、塔野が思い悩んでいるのは真木のせい、と言うこともできる。
「真木が言わなくても、俺が自分で気づいたかもしれない。だから、そんなに思い悩むことは無い」
塔野は本心からそう言った。真木の一言はきっかけに過ぎなかった。
「でも……」
「真木は責任を感じなくていい。これは、俺と唯の問題なんだから」
言い募る真木を塔野は諭す。真木はしばらく考えて、分かった、と呟いた。
「塔野は……どうするの」
塔野は真木に背を向けた。窓の外を眺める格好になる。今日は曇り空で、夕焼けは見えない。オレンジ色の輝きを放つことなく、空は暗闇に飲まれていくのだ。
「どうしたらいいんだろうな。……そんなこと、分かりきっているか」
ははは、と乾いた笑い声をもらした。真木が何かを言おうとして、躊躇ったような気配を感じた。
「今まで通り、友達として接する。俺の気持ちに、蓋をして」
振り返って真木を見た時、悲しそうな表情をしていた。
***
月曜日の放課後。唯が地学室を訪れると、まだ誰もいなかった。真木の鞄が置いてあったので、何処かへ出かけているのだろう。図書室だろうか、と思いを巡らす。
唯は真木の鞄が置いてある席の前に鞄を置いた。
明日火曜日が、例の誘いの回答期限だった。唯は、まだ答えを決めけれずにいた。答えは自分の中にあるはずなのに、何故かここに来たら答えが見つかる気がしていた。
扉の開く音がして、振り返ると、そこには久しぶりに見る友達の顔があった。
「塔野ちゃん」
「よ、唯」
にっこりと笑う塔野の表情がいつも通りで、唯は思わず笑顔になる。
「塔野ちゃんとここで会うの、久しぶりな気がする」
「そうだな。ここのところ、部活に顔を出してたからな。金曜日には来てたんだが、唯が塾だからな」
「すれ違いだったんだね」
塔野は、真木の鞄のある席の後ろに鞄を置いた。真木を挟んで前後に並ぶ形になる。
「唯、例の回答、どうするんだ」
塔野が窓の外を眺めたまま尋ねる。こちらを見ない塔野を見つめて、唯は口を開いた。
「まだ、決めてない……」
「そうか」
しばらく沈黙が流れた。唯は机の角を眺めた。古い机のため、角がはがれてきている。それを指でいじる。小さな木屑が指についた。
「田中君のこと、悪い人じゃないと思う。でも、そんなに興味があるのかと言われれば、まだ分からない。あんまり、話したこともないから。こんな状態でデートに行って、いいのか、分からない」
ぽつり、と唯が言葉をこぼす。塔野はまだ唯の方を見ない。
「俺だったら、行かないな」
少し強い口調で、塔野ははっきりそう言った。
「デートの誘いを受けたら、相手に期待させるだろ。その期待に応えられるなら、別にいいと思うけど、唯の話を聞く限り、その期待に応えられない可能性は高いと思う。だったら、断った方がお互いのためじゃないか」
塔野の断定的な意見を聞いて、唯は自分の考えが固まるのを感じた。
「そうか。そうだね。相手に期待させちゃったら、申し訳ないもんね。うん、明日は断ろう。ありがとう。塔野ちゃん」
唯が無邪気に笑いかけた。塔野は唯を一瞬見たが、次の瞬間には目をそらしていた。
「地学室に来たら、答えが見つかる気がしていたんだ。本当に見つかって良かった。それじゃあ、わたし、今日はもう帰るね。また明日」
唯は鞄を持って、地学室を後にした。
真木が地学室の扉を開けると、満面の笑みを塔野に向ける唯がいた。塔野の表情は見えないが、きっと笑顔を向けられて喜んでいるのだろう。地学室の中は、二人の世界だと感じた。耳の奥で、キーンと音がした。真木の中に、今まで感じたことのない痛みが生まれる。胸が締め付けられそうだ。
もう一度地学室の中を見ると、唯はいなくなっていた。もう帰ってしまったのだろう。真木がいたことにも気付かないなんて、本当に唯は鈍感だ。真木は心の中で悪態をついた。
「真木」
塔野が振り返る。その表情はなぜか辛そうだった。想像していた表情と雲泥の差で、真木は戸惑った。胸の痛みは何処かへ消え去った。
「俺、唯に、デートの誘いを断るように、言ったんだ。そしたら唯、屈託ない笑みでありがとう、って言ったんだ。……俺は嫉妬して、わざと断るように仕向けたのに」
塔野の瞳が揺れる。
「唯はなんていいやつなんだ。そして……俺は本当に嫌なやつだ」
うずくまる塔野に、真木はかける言葉が見つからなかった。