1 地学室
それは、彼女にとってただの気まぐれだった。
「先生、ちょっといいですか」
九月の半ば、真木祥子は職員室で担任の教師に声をかけた。
「おう、真木か。お前がここに来るなんて珍しいな。どうした?」
「実は……、次の試験に向けて勉強したいのですが、いい勉強環境がなくて困っているんですよ」
そう言って真木は少し困った表情をする。
「そうか。図書室や放課後の教室じゃ駄目なのか?」
教師の言葉に、真木は首を横に振った。
「図書室も放課後の教室も、お喋りの声で溢れかえっています」
「そうか。確かに、試験はあと二カ月も後の話だしなあ」
参ったな、というように、教師は頭の後ろをかいた。
「うーん、俺としては、真木がやる気を出してくれているのは嬉しいし、出来る限りのことはしてやりたいんだが、どうしたものか」
腕を組んで、教師はしばらく考え込んでいたが、ふと何かを思いついたのか、真木を職員室の外に促した。
そして、人気のない階段の踊り場に来ると、そっと真木に鍵を手渡した。
「これは?」
「地学室の鍵だ」
その言葉に、真木は驚いた顔を向けた。
「地学室って、今は地学の先生がいないから使われていないんじゃないですか」
「そうだ。少し埃っぽいかもしれないが、掃除すればこれ以上ない、静かで快適な環境になると思うぞ。最上階の、一番隅の部屋だからな」
「そんな……、私が勝手にそんな部屋を使うなんて」
「まあ、気にするな。真木なら真面目に勉強のための教室として使うだろうからな」
「ありがとうございます」
「その鍵は預けておく。ないとは思うが、失くすなよ?」
そう言って、教師は真木に背を向けた。
真木は、教師が見えなくなるまで、その背に頭を下げ続けた。教師が去って、真木が顔をあげた時、長い黒髪の陰から不敵な笑みが浮かんだ。
「思った通り、単純な教師ね」
ふふ、と笑うと真木はその場を後にした。
結論から言うと、真木は試験勉強をするつもりなんて、毛頭なかった。ただ、家に帰りたくないだけだった。外に出て時間をつぶすには場所を探すのに手間がかかる。それに、何より、真木は一人でいたかった。
真木は、一人でいることを誰よりも愛していた。頬杖をつき、空を見上げながら一人思索にふける時間が、真木にとって一番幸福な瞬間だった。
足取り軽く、地学室に向かい、鍵を開けた。地学室の中は、ほとんど掃除もされていないのか、ひどく埃っぽかった。
「これは、快適に過ごせるようになるまで、少し骨が折れそうね」
一人呟いて、真木は箒を探した。ドアと窓を全開にして、埃という埃を教室から追い出さんとした。
大量の埃をゴミ箱に押し込んだところで、廊下からふいに話しかけられた。
「へえ、美人で有名な真木さんがこんなボロ教室掃除して、埃まみれになってやがる」
そこにいたのは、スレンダーな体型の短髪の女子生徒だった。
「そういうあなたは、運動神経抜群と噂の、塔野さん。どうしてここに?」
「それはこっちの台詞だね」
そう言うと、塔野は自然に教室の中に足を踏み入れる。
「ボロ教室の割には綺麗だな。あんたの掃除の仕方がいいのかね」
「ちょっと!」
「いいじゃないか。教室はみんなのものだぜ?私物化するのは良くないな」
「!」
真木は何も言えずに、黙り込んでしまった。自分一人だけの貴重な空間が失われて、機嫌が悪くなる。
「塔野さん、確かバスケ部じゃなかったかしら?練習はいいの?」
真木は刺のある言い方で言った。自分でも子どもっぽいと思うが、仕方がない。
塔野は窓の外を見上げて、目を閉じた。何を考えているのだろうか、と真木が思ったところで、塔野は目を開けた。その目は、さきほどまでのように輝いてはおらず、むしろ暗い闇をたたえていた。
「いいんだよ」
真木はその目に驚いたせいで、その言葉がどの言葉に対するものなのか、一瞬分からなかった。意味を理解して、暗く澱んだその目を見ると、なんとなく、塔野をここから追い出す気持ちが失せてしまった。
「好きにすれば」
「……は?」
真木の言葉に、今度は塔野が困惑した。
「好きに、ここにいていいわよ。……って、私が許可を出すのもおかしな話だけど」
「ああ。好きなだけ、ここに居させてもらうよ」
それから、真木と塔野は何をするでもなく、教室から空を眺めていた。
その日から、真木と塔野は何日か地学室で一緒に放課後を過ごした。それまでクラスメイトと話をすることはあっても、それを煩わしいとしか感じていなかった真木にとって、誰かと一緒にいて苦痛じゃないというのは不思議な感覚だった。
でも、一緒にいるといっても、とりたてて何かを話すわけではない。真木はもともとあまり話す方ではなかったし、人気者の塔野も、自然体でいる時は静かなタイプだった。
真木は、クラスの中心にいて、高校生活を満喫しているように見える塔野がなぜ暗い目をしているのか、とても気になっていた。しかし、安易に尋ねても良い話題ではなさそうなので、触れずにいた。真木も、自分のことについて色々と聞かれるのは嫌な性質だった。
そうして、なんとなく時は流れ、真木が地学室を借り受けてから一週間が経った。
その日も、真木は地学室にいた。塔野は部活に出ているのか、いなかった。真木は哲学入門のページをめくりながら、塔野といても苦痛じゃないのは、一人でいる時と同じような時間が流れるからではないかと考えていた。
哲学入門の中盤にさしかかった頃、真木は一度本を置いて、教室を出た。戻ってくると、真木の座っていた席に、見たことのない女子生徒が腰かけ、窓の外を眺めていた。ボブカットにした髪型が愛らしい、少し童顔の女子生徒だった。真木が入ってきたのを見ると、あわてて席を立った。
「どうしてこんなところに?」
真木が尋ねると、女子生徒は「え」とか「あ」とか意味のない言葉を断続的に呟いた。
「どうしてこんなところに?」
真木がもう一度訪ねると、女子生徒は
「な、なんと……なく?」
と、ようやく意味のある言葉を返した。
「そう」
たしかに、こんな廃教室に目的があって来る人なんていない。この答えはもっともだ。真木はそう思って自分の質問の無意味さを痛感した。
「そ、そういう……あ、あなた……は?」
女子生徒がゆっくりと尋ねてきた。
「なんとなく」
真木は先ほどの女子生徒と同じ答えをした。
「そ、そう」
と、女子生徒は納得しかけたが、「あ、いや、えっと、そ、そう……じゃなく……て」と続けた。
「こ、このきょうし……つ、えっと、い、一週間……くらい……まえ、まで……、たしか、えっと……か、鍵、かかって……た。ほ、埃まみれ……だった……はず、と思う。そ、それが、鍵……開いて……て、し、しかも……きれ……い。どういう……こと?」
女子生徒の聞きとりづらい言葉に、真木は目を丸くした。まさか、この廃教室に頻繁に通う生徒がいたとは思いもしなかったのだ。
「どうして、そんなに頻繁にこの教室に通っているの?」
真木は、苦し紛れに質問に質問で返した。真木の質問に女子生徒は、「あ」と「えっと」を繰り返しながらも懸命に答えようとする。
「あ、えっと……この教室、な、なんていうか……わたし……す、好き? えっと、あの、その、お、落ち着く……感じ?」
「疑問形で尋ねられても私は分からないけど……」
この女子生徒のコミュニケーション能力を鑑みるに、これ以上質問を重ねてもまともな答えは出てきそうにないと判断し、真木は口を閉ざした。
「そ、それで……えっと……、ど、どうして……か、鍵、開いて……る?」
どうやら、女子生徒は最初にした質問を忘れてはくれなかったようだ。さて、どうしたものか。真木は頭を悩ませた。
「さあ。来てみたら、空いていた」
真木はそう言ってからしまった、と思った。たまたまここが空いていたのだとしたら、この女子生徒をここから追い出す理由がなくなるし、何より、この女子生徒が他の生徒にここが空いていると話してしまったら、他の生徒のたまり場になってしまうかもしれない。それは避けたかった。塔野に関しては、他の生徒を呼ぶような心配をする必要はないと感じていたが、この女子生徒に関しては分からない。
「そ、そう……」
女子生徒は再び席に座った。どうやらここに居座るつもりらしい。真木はその場に立ったまま、打開策を見出そうとしたが、良い案が浮かばず、女子生徒から少し離れた席に座った。
まあいい。女子生徒のあのコミュニケーション能力ならば、きっとそんなに友人も多くないだろうし、他の生徒を呼ぶこともないだろう。あの女子生徒は、会話がしづらいのが難点だが、そもそも会話をしなければ気にならないのだから、特に問題はあるまい。そう判断し、真木はいつも通り、一人の時間を満喫することにした。
そうしてまた一人、地学室の住人が増えた。
次の日には、地学室に三人とも集まった。最初に真木が来て、次に塔野、最後に例の女子生徒が現われた。
「へえ、見ない顔だね。俺は塔野。よろしく」
塔野は例の女子生徒を見るとそう話しかけた。それを聞いて真木は、そう言えば自己紹介をしていなかったな、と思いだした。
「え、えっと……よろしく」
例の女子生徒は相変わらず挙動不審な受け答えをした。その様子に塔野がかすかに眉をひそめると、あわてて口を開いた。
「あの……えっと、ご、ごめんなさい。わ、わたし……ひ、人と話す……の、に、苦手……で……」
あたふたと手を振り回す様子はむしろ小動物のようで微笑ましかった。塔野もそう思ったのか、ふ、と笑うと「そうじゃなくて」と言った。
「君の名前を教えてもらえる?そうじゃないと呼べないし」
「あ……そ、そっか。ご、ごめんなさい」
そう言って女子生徒は頭を下げた。「そんなの別にいいから」と塔野はさらに頭を下げようとする女子生徒を手で制した。
「こ、小日向……小日向唯。えっと、に、二年B組……です」
「B組か、じゃあ俺の隣のクラスだな。俺はA組だから」
「そっか、隣……。ぜ、全然……知らなかった」
「まあ、よそのクラスの連中なんて、そんなに知らないよな」
そう言って塔野は笑った。コミュニケーション能力のかなり低い小日向相手に、それなりの会話をできる塔野に、真木は軽い驚きを覚えた。さすが、常に人の輪の中心にいる塔野だ。どんな相手とでもコミュニケーションをとれる。そんな塔野に、真木は軽い嫉妬を覚えた。おかしいな、と真木は笑いたくなった。自分は一人でいることを愛しているのに、どうして塔野のコミュニケーション能力の高さに羨望を抱いているのだろう。
「えっと……で、あ、あなたは……」
小日向に水を向けられ、真木はふと我に返った。
「そうね、昨日は自己紹介をしなかったものね。私は真木。2年D組よ」
「に、二年生だったんだ……!」
小日向は真木が同学年だったことに目を丸くした。確かに、真木は落ち着いているため、よく年上に見られがちだ。だから、小日向が真木を先輩だと思っていたことは不思議ではない。しかし、真木は疑問に思った。昨日、確か小日向は真木にタメ口で話しかけていた。小日向のコミュニケーション能力では先輩に対して敬語を使うというのも難しいということなのか。真木はこっそりため息を吐いた。
「それにしても、小日向さんもよくこんな場所を見つけたよな。ここ、特別棟の最上階の一番端っこで、普通通らないところだもんな」
だから落ち着くんだけど、と塔野は笑った。
「えっと……、わ、わたし……よく……ここに……か、通ってた……から」
小日向の言葉に、塔野は目を丸くした。
「通うって……なんでまた?」
「あの、えっと……、な、なんていうか……この場所……が……お、落ち着く……から……」
「この場所が落ち着く?」
「そう、あの……えっと、わ、わたし、教室に……居場所……ない……し……、こ、この教室……も、なんと……なく、この……が、学校に……居場所……ないの……かな……って……か、勝手に……し、親近感……みたいなの……持ったり……して、それで」
「なるほどね」
塔野はそう言って目を閉じた。小日向の言葉に、真木は共感していた。真木がこの教室を手に入れたかったのは、静かで落ち着く、というのもあったが、なんとなくこの教室が自分と一緒の境遇のような気がしたから、というのも理由の一部だった。だけど、それは別に意識していたわけでは無くて、小日向の台詞を聞いて、そんな自分の気持ちに気付いたのだ。
「俺も、それ……あるかも」
塔野が例の暗い目をしてそう言った。小日向は塔野のそんな表情を見てひどく驚いた顔をした。それもそうだろう。コミュニケーション能力が高く、孤独とは無縁そうな塔野がそんな顔をしたのだから。
「なんで……そんな、わ、わたしは口下手……で……ひ、人づきあい……苦手……だから……そんなだけど……、えっと……塔野さんは……そんな……感じ……しない……のに」
塔野は小日向の言葉にふ、と悲しげに笑った。先ほどの優しそうな笑顔とは全く違う、暗い笑みだった。
「やっぱりそう見えるのか。ま、そんな大したことじゃないんだけどさ。自分が分からないって感じかな。教室にいるときの俺は、演じている俺っていうかさ」
「高校時代なんてアイデンティティを確立するためのものじゃない。自分が分からないなんて、大抵の高校生が抱いている悩みよ」
真木は気がつくとそう言っていた。大抵の高校生が抱く悩みだからって、それが本人にとって深刻な悩みでないとは限らない……そんな簡単なこと、真木はとっくに分かっていた。だけど、そう言いたくてしょうがなくて、口をついて出てしまった。
「ま、そうだよな。俺の悩みなんて、そんなもんだよ。ありふれた高校生の悩みさ。ドラマティックな過去もトラウマもない、平凡な高校生の平凡な苦しみさ」
平凡な苦しみ……言ってしまえば自分の抱いているものも、そんなものなのかもしれない。真木はそう思って、胸のあたりを抱きしめた。
「もっと、大げさなもんだったら、かっこついたり、大げさに嘆いたりできたのかもしれないのにな」
そう言って塔野は笑った。さっきの、悲しく暗い笑みだった。
「で、でも!えっと、理由は、なんでもさ、わ、わたしたちだけのいばひょ……居場所、が、出来たってこと、な、なんかいいよね!!」
小日向が暗くなりそうな空気を払拭しようと大きく手を振って言った。勢いよく喋ったせいで思いっきり噛んでしまったが、それがかえって空気を軽くした。
「これで、わたし、毎日、トイレで、お昼食べなくて、よくなった、よ!」
「ええ!?トイレでご飯食べる女子って本当にいたんだ!?都市伝説だと思ってた」
塔野が小日向の発言に酷く驚いた顔をした。
「だ、だって……、えっと、その……教室にいたくないけど、あの、誰にも……み、見つかりたく……なくて……、そ、そうしたら……と、トイレ……しか……ない……かな……って。いや、あの、た、確かに……き、綺麗な……ところ……じゃ……ない……けど……さ……」
小日向が少し恥ずかしそうにもじもじする。勢い余って恥ずかしいことを言ってしまったとでも思っているのか、手で顔を覆っている。
「ふうん、そうするとこの教室は小日向さんにとってトイレ代わりということなのね」
「うわ、そんな言い方すると、この教室、臭いそうだぜ」
真木と塔野が意地悪な言い方をすると、小日向が慌てて顔をあげた。
「ちょ……え、え、そ、そんな言い方、ないじゃない!!もう!!」
小日向は顔を真っ赤にして手をぶんぶんと振った。リアクションがいちいち大きくていじりがいがある、と思って真木はにやりとした。
それにしても、と真木は思考を巡らせる。小日向はこの一通りのやり取りの中でだいぶ円滑なコミュニケーションをとれるようになっていた。もしかすると、これまでコミュニケーションをあまりとっていなかったためにうまくやりとりができなかっただけで、案外、すぐに人と打ち解けられるタイプなのかもしれない。相変わらず顔の赤い小日向を見て、真木はそんなことを考えていた。
ふと周りを見ると、真っ赤になっているのは小日向の顔だけでは無かった。塔野も、真木の手も、机も、椅子も、全てが赤く染まっていた。
「夕焼け……だ!」
小日向が窓の外を見て言った。見ると、太陽が遠くの山の影に沈もうとしているところだった。
「綺麗だな……」
塔野も小日向と同じ方向を向いた。
「この教室、四階で西向きだから、夕焼けが綺麗に見えるのね」
真木はそう言って、単純に夕焼けを綺麗だと思わず、分析してしまう自分が少し嫌になった。けれども、それをとめることは出来なかった。
夕焼けは真っ赤な明かりで街を染めあげていた。大人も、子どもも、男も、女も関係なく、夕焼けは全てを染めあげる。その平等さが、真木にはありがたかった。
真木はこれまで何日か、この教室に通っていたが、このところ秋雨の影響で曇り続きだったために、夕焼けがこれほど綺麗に見えた日は無かった。三人揃った今日、夕焼けが見えたことに、真木は何故だか暗示めいたものを感じていた。
そうして、三人揃って無言で夕焼けを眺めていると、次第に赤い色は力を失い、暗い闇が街を支配するようになった。その様子に、真木は何故だか悲しい気持ちになった。
「あ……夕焼けが……綺麗だったの、少しだけ……だった……ね……」
小日向も悲しい気持ちを抱いているのか、誰に対してでもなくそう呟いた。
「綺麗なものは寿命が短いのよ」
真木は、思ったままのことを言った。
それから三人は、ばらばらに帰路についた。今日の夕焼けのことを思い描きながら。