LoG oFF
椅子に座っている。
背もたれも座面も少し堅い、木製の小洒落た椅子へ。
目の前には丸く、大きなラウンドテーブル。オリーブ色の落ち着いたテーブルクロスに表面を覆われ、その上にはこれまた洒落たデザインの柄つきがあしらわれたカップが、コルク製の厚みあるコースターへ載っている。
カップの中には、なみなみと注がれたカフェ・マキアート。
さらにその表面へ添えられた少量のホイップクリームとシナモンパウダー。
立ち上る湯気からは香ばしいエスプレッソの苦味ある香気にクリーミィなミルクとホイップ、そしてシナモンの甘い香気が混ざり合って鼻をくすぐり、えも言われぬ幸福感と飲食欲求を彼女へ与えていた。
だが、彼女はそれを口にしない。手すら伸ばさない。
ただ、本能的な欲求だけは感じつつも、それに従う意思を持つことが出来ず、呆けたように彩香はずっと目の前のカップを見つめたまま動かない。
すると。
「どうしたんだい? 睦月さん。さっきから固まったままで。せっかく殺伐としたゲーム世界からの脱出を記念して、ささやかながらもお好みの飲み物を用意してみたってのに、手をつけないのかい? まあオープンカフェとはいえ、こうもおおっぴらに持ち込んだものとなると、口をつけるにゃ気が引けるのかな? それとも、それが僕の用意した物だってことへ対する警戒から? けど、僕らはもう現実世界の法の外にいる存在だ。飲食店への飲食物の持ち込み程度で罪悪感を感じる必要も無いし、そもそもこの行為を責める相手がいない。もし、そっちの心配だとしたら安心してくれていいよ。あ、もちろん僕が用意した物だっていうことについても、ね」
右の斜向かい。何か放心したような様子で眼前のカップを見つめ続ける彩香に、同席した博和は手に持った透明なデミタスカップから奥行き深いエスプレッソの香りを楽しみつつ、すすっていたのを一旦中断し、探るような目つきの視線を送りながら問いかけた。
なれど。
「いや……それ、どれも違うと思いますよ二条さん。恐らく、睦月さんはただ、まだ自分が置かれた今のこの状況をどうにも飲み込めないでいるだけでしょう。当然ちゃあ当然です。正直、【eNDLeSS・BaBeL】の関係者だった小官ですら、まったく戸惑ってないと言ったら嘘になるって感じですし……となれば、彼女にはなおさら、落ち着いてお茶でもどうぞなんて、暢気を要求するのは無茶な話ですよ」
こちらは彩香から見て斜め左正面。彩香に代わり、彼女と同じく目の前へ置かれた飲み物……大振りのマグへと注がれたノンカフェインのチコリコーヒーが上げる、まろやかさのある独特の香りへ少ながらず魅せられつつも、やはり口をつけることなくテーブルの上へ右肘をつき、軽く前傾した体勢から頬杖を突くか突かぬかといった格好を取ると、手持ち無沙汰な調子に人差し指を使って右耳の裏辺りをいたずらにさすりながら、英也が口を挟む。
晴海通りに面した、豊洲駅近くの開放感あるオープンカフェ。
ワインレッドを全体の基調とし、小粋でドレッシーな雰囲気を出しつつも、それでいて店やテラス部分の床などへ使用している木材の持つ温かみも生かしたデザイン。
年代を問わず気軽に利用できるカジュアルな雰囲気と、スマートでスタイリッシュなニーズにも適うであろうその造りは、優良店の多いこの界隈でもお世辞抜き、頭ひとつ抜けた存在感を醸し出していた。
そんな店のテラス席の奥。
正午もとうに過ぎ、歩道側の雑踏も店の賑わいも一段落した長閑やかさに包まれ、快晴の空から降りしきる暖かな陽光を浴びながら、どこかのんびりとした調子の中、会話……というにはあまりに話し手の少ない、ほぼ博和の独白じみた語りが進んでゆく。
そして実際。
「で、どうかな? 記憶のほうは。様子からして長内さんは問題無さそうに見えるけど」
「おかげさまで問題ありませんよ。何もかも、すっかり思い出しました。思い出したかった記憶も、思い出したくなかった記憶も……」
このやり取りをきっかけ。
何やら歯切れも悪く博和の質問へ答えを返した英也は、そのほぼ同時、横目でチラリとわずかばかり彩香を見るや、そこから急、言葉数を極端に減らし、まるで彩香と変わらぬほど、無言に近しくなる。
手持ち無沙汰どころではない。
目のやり場、身の置き場すらも迷い、気持ち、彩香から顔を逸らし気味に横を向き、軽く握った拳の上へ顎を乗せた、物憂げな頬杖を突いて。
ところが。
「にしても、やっぱり壮観だとは思わないかい? 遥か向こうに見えるあの『塔』。現実世界で、何も遮るもの無しに見る、あの『塔』ときたら。【eNDLeSS・BaBeL】のゲーム内じゃあ、どうしてもゲームシステムによるフィルタリングを受けながら、しかも比較対照するような物が無い状態で眺めるしかないせいで、どうにも実感が曖昧なというか、いかにも作り物でございって感じが拭えないところがあったけど、こうして立ち並ぶビル群の先、天を貫き、そそり立ってるあの光景はさすがに圧巻だろ? 例え、これもまた実在するわけじゃない……このエスプレッソと同様、単に僕らがそこに『有る』、と知覚しているだけの、それだけのものだとしても、さ」
当の博和はそんな英也の様子になど気づかないのか、もしくは気にしてすらいないのか、冗長な語りの中、手に持ったデミタスカップを、空いた左手の指先で弾き、鳴らしつつ、やおら通り側へ顔を向けたかと思うや、何やら妙に機嫌も良さげ、雑多と行き交う人や車、雑然と並ぶ建物の群れを掻き分けるよう、顎を上げて視線を遠く、高く、空の先まで飛ばしてそれを見遣る。
言葉通りの、『塔』を。
大空を穿つ、『塔』を。
【eNDLeSS・BaBeL】を象徴するその長大な、『塔』を。
さりながら。
そんな博和の様子にでも誘われるよう、『塔』のほうへと無意識、目を向けたふたりだったが、さしたる感慨を得るでなく、気の無い一瞥をしただけですぐに己が手元へ視線を戻して静止する。
途端。
「……小官には、分かりかねますね。残念ですが、そうした陽性の感情は抱けそうにありません。ただ、不気味だとしか……こうして、『塔』が見えてしまっている事実そのものが、自分がまっとうな存在じゃあないってことの証左であると、そう感じるぐらいにしか……」
依然として沈黙を守り続ける彩香の、希薄な反応を埋め合わせるかのように口を開いた英也と、
「表現は正確に、だよ長内さん。僕らの中ではすでに分類は終わってるはずだ。現実世界と【eNDLeSS・BaBeL】……その双方には、三種類の高度情報思考個体が存在する。ひとつは通常一般の人間。ひとつは僕らのような人格データ。そして最後は、そんな僕たちと【eNDLeSS・BaBeL】という、仮想世界を担うサーバ……【D.N.N.D】を脳内へ埋め込まれた人間たち。この三種の分類から選ぶなら間違い無く、君も僕も睦月さんも、揃って二番目……人格データだろうね。まあ、【NiGHT JoKeR】辺りがここにいたら、『だからどうしました?』とでも言ってきそうな事実でしかないけど」
その問いへと答える、博和だけを例外にして。
「それに、今さら自分が人間じゃないってことぐらいで受けるショックなんか無いだろう? 改めて何といった不便のあるわけでもないし。むしろ便利なもんさ。【D.N.N.D】を持たない普通の人間たちは、僕らを知覚できない。おかげでこうして街中のおおっぴらな場所でも、人の目や聞き耳を気にせず話ができる。ただ……」
そこで束の間、話を区切ると博和は、分かりやすい動作でグルリと首を回し、周囲を見て取るや、すぐさま目線を英也の瞳へと戻し、
「豊洲は僕ら管理者たちが満場一致でサーバ指定をしたほど、【D.N.N.D】埋設手術を受けた人間の多く住む土地だ。チラホラではあるけど、さっきからこっちを見てくる人もいた。つまり、『見えてる』人間もいるってこと。今一時、感じているこの孤独も、徐々に緩和されてゆく。安心していいよ」
微笑みを浮かべた顔を斜に傾け、いたずらっぽく肩をすくめてみせた。
声を発する喉を、言葉を発する口を、語りを、止めることなく動かし続けながら。
「思えば、このアイディアも【NiGHT JoKeR】が出したんだっけか……というより元々、【D.N.N.D】なんてものを開発・設計したのが彼女だったからこそ、こんな大規模な計画の実行が可能になったとも言える。設計段階の時点で、【D.N.N.D】の内部にはアメリカ本国の研究班すら見抜けないほど巧妙に、そのシステム全体と直結した、彼らの【BaBeL PRoGRaM】なんて稚拙なものとは……高錬度兵員促成栽培計画なんていうくだらないものとは違う……僕らの目指す【eNDLeSS・BaBeL】に関するソース・コードを、云わばプログラム的なブラックボックスとして組み込んでいた。それが【eNDLeSS・BaBeL】の世界を構築するためのデータ……僕たちなんかの人格データとかを中心に、様々な情報を含んで保存・運用するサーバとしての役割と、【D.N.N.D】同士や君らや僕らのようなデジタル化された人格データとのインターフェイスにもなってる。だから、僕ら人格データの存在を認識・知覚できるのは、同じ人格データ同士か、または【D.N.N.D】を持つ人間だけ。現状は規模こそ小さい。はっきり言って草の根レベル。インターネット黎明期、まだ民間へと解放される前のそれと似たような閉塞感の強い、ごくごく矮小な世界でしかない。でも……」
継続される語りの中で次第、熱を帯び始めた博和は、まだ中身の残ったカップを指へ掛けたまま急に椅子から立ち上がると、さらに熱気を増しつつ、感情の昂ぶり、ほのかに赤く上気しだした顔へより歪んだ笑みを刻み、なお演説の如く、言葉を紡ぐ。
「時間の経過と共に状況は変わってゆく……勝手に、自然な流れのように、僕らが望んだ状況へと、結果へと向かってゆく。始めは一部の軍人たちだけだった……それが次に民間の医療技術として【D.N.N.D】はスピンオフされ、脳神経系の疾患治療のため、急速に広まる……いや、もう実際に広まり始めてる。そしてもっと時代が進んでゆけば、【D.N.N.D】は治療などの医療目的からよりライトな需要……デジタル機器との精密で高速な、効率的インターフェイスとして普及する。そこまでいけば、あとはもう増加傾向は指数関数的なレベルさ。誰もがこぞって【D.N.N.D】を持ち、最終的には全人類が【D.N.N.D】によって繋がり、現実世界と【eNDLeSS・BaBeL】の世界との、複合空間での人生を送るようになる……そうした自然な共生関係がさらに【D.N.N.D】を普及させていく。そしてやがて、あらゆる人間、すべての人間の頭の中へ【D.N.N.D】が埋設される時代が遠からず訪れる。その時こそ……」
そこまで。それから大きく、博和は息を胸いっぱい吸い込む。
かくして高らか、
「人類という種そのものが、【eNDLeSS・BaBeL】を支える、地球規模のサーバ・ルームとなるんだよ!」
万歳でもするよう高く両手を広げ、指からぶら下がるカップも、その中身も、零れ落ちはしないかと危なげ、何らか宣言でもするかの如く胸へと込み上げる歓喜の波に堪えきれず、打ち震えた声を発した。
陶酔し、うっとりと細めた両眼で彩香と英也、両者を見つめたままに。
ところが。
過剰とも感じさせるほどの喜びの感情をストレート、面貌に映していた博和は次の瞬間。
一瞬のうち、その表情を凍りつかせる。
見れば何故か、英也もまた同じく。
ただし、英也はその視線を彩香へと向けて。
そして。
それこそがまさしく。
ふたりが揃い、目にした彩香の姿こそがまさしく。
寸刻のうち、博和と英也の顔から血の気を失わせるとともに、衝撃と喫驚とによって瞳を見開かせた理由、そのものだった。
博和はずっと見ているつもりであった。その様子を。
が、話すことへ夢中になりすぎ、実のところは見えているようで見えていなかった。
英也は気配に気づくことが出来なかった。その異常な気配を。
本来であれば、こうした空気に対して職業柄、鋭敏すぎるほど鋭敏であるはずの彼もまた、どこまでも追いつくことの無い己の思考と、変化し続ける状況、加えて博和の独りよがりなスピーチへ辟易し、それらの相互作用から大きく集中力を欠いていたのが原因であったのだろう。
とはいえ、いずれにしろ。
事実は変わらない。
ふたりの顔から色を失わせ、その身を硬直させるに至った光景は。
他所のテーブルでの他愛ない会話。注文を繰り返すウェイターの声。カップの中身を掻き混ぜるスプーンの、小さく高い、鈴のような衝突音。歩道側から聞こえる、いくつもの雑多で忙しい靴音の数々。
それら数多の音の中へと紛れ、彩香はひとり語る博和にも、それを興味も無しに聞き続ける英也にも一切、構うことなく黙々と行動していた。
ごく自然、上着の脇へと右手を滑り込ませ。
ごく自然、左脇の下へ固定されたショルダーホルスターから、そこに収められたリボルバー拳銃を引き抜き。
ごく自然、添えた左手のひらの上へ、銃を握った右手にスナップを利かせ、残弾わずか一発となった回転式弾倉を振り出す。
そんな一連の動作が終わったところでようやく、彼女の異変へと気づき、博和と英也ともに揃ってそちらへ目を向けたときにはすでに、彩香はその振り出したシリンダーの中へ唯一、残された一発の弾丸……シリンダー内へきちりと収まり、金色に光る底部のヘッドスタンプと雷管部分だけが確認できる最後の弾……それを何の感情も示さぬ能面のような表情で覗き込み、静かにその残弾の存在を合点すると、そのまま添えていた左手を、銃の脇を撫でるように動かしてシリンダーを再び、銃本体の中へと戻した。
さながら、録画された映像のような無機質さで。
あるいはゆえにこそ、博和も英也も気づけなかったのかもしれない。
仄かにすら思考の存在を感じられない、意思の介在も感じられない、機械的に累次しておこなわれていった、その挙動を。
転瞬。
彩香はやにわに背筋を伸ばすよう上体と首を跳ね上げると、手元の感覚だけで本体へ収めたシリンダーをカチリと回転させ、弾丸を発射可能位置のひとつ手前へと移動させるや、そこから親指で撃鉄を起こす。
ダブルアクション機構によって、手前にあった弾丸は次弾装填作動で発射可能位置へ巻き出される。
刹那。
英也は先入観からの独断により、その銃口が自分へ向けられるものと思って咄嗟、呼吸を止めながら軽く奥歯へ力を込め、死の覚悟を決めた。
考えるまでもないこと。
すべての記憶が戻った今、彼女を殺した……正確には、まだ人間であったころの彩香を、今の人格データとなる前の彩香を、その手で殺した自分に対し、彼女が憎しみや殺意を抱くのはむしろ必然。
情報と感情を処理するのに充分な時間だったのかは、彼女自身にしか分からないことではあるが、そうであっても何ら不思議でない。
だからこそ、そう確信めいた憶測が通るからこそ、英也は彼女の復讐心に殉じようと覚悟した。
元々、惜しむほどの命でもない。
それどころか、この件……【eNDLeSS・BaBeL】というものに係わった時点、すでに命は捨てている。そして真実、一度は死んだ身でもある。
ならば、一度死ぬのも二度死ぬのも同じようなもの。
そう思い、英也はそれでも湧き出してくる恐怖心を抑えつつ、ただ黙して彼女からの制裁を待った。
だが。
彼の予想は的中することなく終わる。
自分へと向けられると、自分へと放たれると、覚悟し構えていた英也の、緊張に歪められた眉間は瞬時、驚倒で裂くように開いた双眸へ伴い、ピンと皮膚を張り詰めた。
銃は動く。それを持った彼女の手と共に。
けれど、銃は英也へと向かない。
代わりに、その銃口は別の場所を目指した。
彩香自身の手によって。
森閑とした動きの中、深閑とした動きの中、彩香は自らの手にある銃の銃口を、自らのこめかみへと。
もはや表情だけではない。
何らの意思も思考も、意識も認識も感じられない空虚な顔を晒し、それでも虚ろに開いた両の目は広く、視野の中へ博和と英也の双方を捉えて。
意思を持たぬ人形のように。意識を持たぬ人形のように。
瞬刻。
次に起こすであろう彩香の行動を予測の必要も無く悟った博和は咄嗟、呼び止める叫びを上げる間すら惜しみ、迷い無い素早さで彼女を止めようと、広げていた右手からカップを振り落としてその手を伸ばす。
黒鉛色の銃身へと。
彩香の、その手へ握られ、今まさに自分自身のころかみに突きつけている、その銃身へと。
しかし。
床へと落ちゆくデミタスカップの割れるより先。
床へと零れるエスプレッソの飛び散るよりも先。
無情の瞳の中へ深淵の暗闇を映して彩香は、喜怒哀楽の何もかもを失ったその頬へ静か、目頭から溢れ出た涙をひとすじ流し、そして。
滑り込ませるようにトリガーガードの中へと指を突き入れると、
ほんのわずかの躊躇いも無く、その引き金を引いた。




