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oFF-LiNe  作者: 花街ナズナ
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DaTa FiLe [RooT 39]

意識の帰還をまず告げたのは、ひどく不快な臭覚への刺激だった。


異臭。鼻を突く匂い。容易に吐き気を催させるほどの強烈な腐敗臭。

それが今回、目覚めの鼻先へ文字通り、突きつけられた感覚。


途端、覚醒した体は無意識に眼を見開き、もう幾度となく経験してきた、コンクリートの固い床へ寝そべる自身の上体を起こすと、まず何より先、情報収集・状況理解のため、まだ置き抜けで筋のこわばった首をめぐらせ、辺りを視認する。


と、見えてきたのは。


これまでとはまた違う、系統の異なる異様が、光景として網膜へと焼きついてきた。


床、天井、壁。何もかもが無機質なコンクリートの部屋。

そこまでであれば、むしろ見慣れてさえきた光景ですらあったものだが。


逆を言えばそれ以外、あらかたの要素が今までこのゲームの中、目にしてきた幾多の部屋とはあまりにも違っていたのである。


その部屋はこれまで見てきたどの部屋より薄暗く、霧のような影が落ちたそれは、まるで全体に墨色のフィルターが掛かったかのようだった。


とはいえ視界を大きく阻むほどの暗さというわけでもない。


あくまでも薄暗いのであり、不自由さを感じる程度の暗さでしかない。

神経を集中させさえすれば、さほど難渋するほどの要素でもなかった。


部屋の広さは見渡しておおむね40平米。もはや見慣れた正方形の造り。

見回した限り、四方の壁の遠さが均等なところから思うに、自分はちょうど部屋の中央付近にいるのだろう。そして、


同時に先ほどからずっと鼻を……どころか、口を通して味覚にすら作用してくるほどの強烈な悪臭、その正体を知る。


薄暗さのため気づくのに時間を要したものの、よく見るとこの部屋全体、血に濡れ染まっていたのである。


それこそまさしく壁も、床も、天井も。


人為的に塗りたくったというのではない。飛散してぶちまけられたといった感じで、わずかに元の灰白色をしたコンクリート部分を残しつつ、その大部分が赤く、ところによっては赤黒く、またはほぼ黒を混ぜた焦げ茶色にまで変色し、本来は灰色で統一されていたはずの混凝土を粗く乱暴にペイントしている。


それぞれの場所場所における色合いの違いは簡単な話、時間経過の差異であろう。

血が染みてすぐの部分は赤く。

少し時間の経った部分は酸化して赤黒く。

かなり時間が過ぎた部分はもはや酸化と乾燥で元の色を失い、黒茶けた色味へと変わって。


そんなことを思いながらふと、見遣っていた視線を戻して我が身の近くへ目を向けてみると、そこで今度はこの立ち上る腐臭の原因を認めた。


室内の暗さ、変色した血の黒さでカムフラージュされてしまい、すぐには分からなかったが、血染めの部屋のほうぼう、あちらこちらの床には血染みだけではなく、


肉片らしきものまで転がっている。


これもこれとて、すでに長く時が経過したのか腐敗による変色が激しく、よくよく見なければそれが肉なのかどうかさえ知れない代物に変わり果てていた。


そんなものが転々、部屋のところどころの床に点在し、血の汚れだけでは到底、説明のつかなかった強烈な悪臭の、大半における原因となっているものだということを言葉も無く主張している。


普通であれば、動揺する状況。普通であれば、狼狽する状況。

普通であれば、半狂乱になってもおかしくはない異常な状況。


なのに、不思議と心は落ち着いていた。


いや、不思議だとは言えない。理由ははっきりしているのだから。


すべてを理解したから。すべてを思い出したから。


今や欠落していたすべての記憶が取り戻され、疑問を差し挟む余地も無い。


ゆえに、これほどまで異常な空間へ身を置いているにもかかわらず、恐慌に陥ることもなくただ、状況を理性的に受け止められた。


唯一、本能からか感覚からか、立ち込める独特の、血肉がえた臭いへ対して反射的にえずき、喉元まで込み上がってくるものを押し止めるのにだけは、さすがに苦慮こそしたが。

しかし。


「……やっとでお目覚めか。いささか遅いのではないかと思って無駄な心配をしそうになったが、どうやらその様子なら問題は無さそうだな」


自分のいる位置からしてちょうど正面、北側の壁辺り。


落ち着いた調子の、低い男性の声が聞こえてくると、そんな不快感も一時、頭の中から忘れ去るように排除された。


聞こえてきた声に導かれ、その方向へと目を向ければそこには、


声からイメージしたとおりの男性の姿。

年のころは五十前後といったところか。


肩を過ぎるほどの白髪混じりな長い髪を揺らし、同じようにところどころ白髪の目立つ顎鬚を蓄えた男性の姿。


切れ長で奥目な瞳が印象的なその人物は、ともすれば2メートル近くもあろうかという長身に鮮やかな朱色のスーツを纏い、後ろ手に組んだ姿勢で直立し、壁際から真っ直ぐ、こちらへ視線を投げかけている。

と、改めて見るや、男性の足元に白く文字が浮かび上がっていた。


【DuSK KiNG(黄昏の王)】。


ちょうど真白なペンキで大きな刷毛を使い、書き示したかのように。

直後。


「ですね。問題は無いでしょう。質問するに及ばず、この様子から察するに『彼』はもう、取り除かれていた記憶のすべてを取り戻しているようですから」


今度は右。東側の壁のほう。

年若い、青年らしき男の声が響いてくる。


それへ素直に反応し、また声のしたほうへと首を向けてみるとやはり、


若い、青年の姿。


何故だか幾何学的な模様を印すように、いくつものボタンの縫われた黒のスーツと、そこへ付随する、同じく多数のボタンが縫い込まれたスラックスやネクタイ。

首の辺りで切り揃えられたオールバックの黒髪の下には、凍りついたように一切の表情を表さない、それでいて仮面のように端正な顔。

加えて、


そんな彼の足元にもまた、書き表された文字が床に照り浮かぶ。


【NooN JaCK(真昼の騎士)】。


ただしペンキの色は赤。


ともすれば血塗られ、薄暗い室内では埋没しそうにも思える配色だが、その赤は明らかに血の色とは違って鮮やかにも清涼たる赤。


煤けたような血の赤へ埋まるどころか、むしろその輪郭さえもが明白と床から飛び出すよう、配色の相違と文字の所在を画然とさせている。


ここでしばし露の間、思考というにはいまひとつ軽く、意識というには少しく重い、それら中間ほどの何かが頭をよぎった。


青年の言うとおり今、自分にはこれまで欠けていた……いや、欠けていたことにすら気づかなかった記憶が再帰している。


自分がここに来た理由。

自分がここへいる理由。

大仰ではなく事実として、自分がここに存在している理由。


今となってはもう、それらすべてが分かる。

考えなど経ずして、明瞭に。判然たる具体的記憶として容易に。


だからこそ。


「でしたら、すぐにも始めてもらうことにいたしませんこと? 言わずもがな、【NiL SPaDiLLe】が実行されてしまった今、このゲームシステムの完全崩壊まで残された時間はもうあとわずか。『友人』を助けるためなどという、自らをすら誤魔化す劣悪な欺瞞で、これまでこのゲームを続けてきた『彼』の……本当は『友人』などではなく、『自分』を助けるため、おこなってきたこの戦い……独りよがりで身勝手な……この戦いへ、いい加減で終止符を打っていただくためにも……」


自分から見て左側。西の壁。

隠しもせず険も露な女性の声へ振り向くと、そこにはもはや当然のように女性の姿。


肩をくすぐるほどの長さをした、美しい金髪の巻き毛。

睨みつけるようにこちらを見る琥珀色の瞳。

彫りの深い目鼻と、薄闇の中でも際立つ、透き通るほどに白い肌。


淡いスカイブルーとタンジェリンを基調とした、高い立襟の古風な西洋ドレスに身を包む女性の姿。


その足元にはもう知れたとおり、


【DaWN QueeN(夜明けの女王)】の記載。


【DuSK KiNG】の白いペンキには及ばないが、それでも充分なまでに精彩を放つ、蛍光色のように浮き立った青色の文字は、暗く、血に汚れ、死臭で満ち溢れた汚穢な室内の中に一点、清浄な印象を錯覚させた。


とはいえ。


「はいはい、気持ちは分かりますけど、そこで『彼』を責めるのは酷なんじゃないですかー? だって『彼』は別に、自分で忘れたくて、その事実を忘れたんじゃないんですからー。それでも誰か責めたいっていうなら、責めるべき対象は二条さんだと思いますよー? 何せ、僕らを含めて全員の記憶を弄ったのはあの人なわけですし。加えて、今さら『彼』をわざわざ責める必要なんてあります? 今になってもまださらに? これから『自分』の存在そのものを賭けて『自分』と戦う、そんな彼に?」


それが一瞬の慰め以上には、何らの救いにもならなかったが。


すでにそういった流れだとでもいうよう、新たな声のした自らの後方、正方形の室内にある四方の壁の最後、南側のほうへと身をよじり、目を凝らすと、


「いずれにせよ【DaWN QueeN】、貴女自身が言ったとおり【NiL SPaDiLLe】の管理者アカウントがついさっき有効化されたせいで、【eNDLeSS・BaBeL】のゲームシステムは存在していないはずのアカウントを誤認し、非正規の手順でもってこれを実行ファイル扱いしてしまい、とんでもなく重大なコンフリクトを起こしてます。それこそ、この瞬間にもシステム全体が、吹っ飛んじゃうぐらいに致命的なレベルの、ね」


記憶を取り戻していなければ間違い無く、自分の正気を疑う光景が、その視線の先にはあった。


左の髪は赤、前髪は紫、右の髪は緑。

そんな奇怪な色をした髪の左側、目が痛くなるほど真っ赤なリボンで結わえつけらたヴェネツィアン・マスクを揺らすその下の顔は、先ほどから口にしている言葉や口調といったものからは想像し難い、あどけない少女の容貌。


首から下にはボタンをかけ忘れたのかと思うほど胸元の開いた、膝まで届く丈の長い黒いシャツと、それを上から覆い隠す、裾が床へ届かんばかりのこれまた大きな白い革のロングコート。


そのコートから伸びる長い袖を、両手を寄せてパタパタと旗のように振りつつ、少女は屈託の無い笑顔で遠く、自分のほうへと視線を向け、見つめている。


そうして足元。そんな奇妙な少女の足元にもやはり、書き記された文字。


【NiGHT JoKeR(真夜中の道化師)】。


隠そうという意図でもあったのか、それとも単なる偶然か。これまでのものとはまったくの正反対。


薄暗い室内の、赤黒い床へ、真っ黒なペンキで書かれたそれは、ともすると注意して見ていなければ視認できなかったろう。


だが、結果としてそれは読み取れた。つまりはそれだけのこと。


「ですからもう、僕らは『管理者』なんて堅苦しい役割に縛られなくってもいいんですよ。もうすぐ消える……この、最後に残った隔離領域さえ消え去り、ゲームとしての【eNDLeSS・BaBeL】が早晩、終わりを迎えようって今、僕らはもう、単なる『傍観者』でいいんです。ただ、『彼』の最後の戦いを……『人間として自らを認識した彼』か、はたまた『データとして自らを認識した彼』か、そのどちらが残るのか。それを決める戦いを面白おかしく見物すれば、それだけでもう、いいんですよ……」


刹那。

急におどけた口調が瞬刻、淑やかな響きへと変わったように聞こえたかと思ったその次の瞬間。


身を回して【NiGHT JoKeR】の姿を見ていた自分の背後に気配を感じて咄嗟、元の体勢へと戻りながらその気配に目を向けるや、視界に飛び込んできたのは、


自分。


誰でもない、自分。自分自身。


薄闇の中、侮蔑するような瞳でこちらを見下ろし、たたずむ自分。


転瞬。


「さーて、そろそろ始めてもいいんじゃないですかー? 人間としては同一人物であり、さりながらデータとしては極めて似通った別人。システム崩壊を誘発する【NiL SPaDiLLe】を見事実行し、この狂ったゲーム世界が終わりを迎えようとしている今、自動的にゲームから脱出できる英也さんや彩香さんたちと違って、『貴方』に関してはどちらもってわけにはいかない。それが最低限、このゲームに自ら望んで参加した『貴方』の負うべき責任であり、守るべきルール。理解はできましたかー? ま、理解できてないわけないですしー? 万が一、理解できてなかったとしても、棄権だとかタイムだとか、そんなもん言ったところで許しませんけどねー」


途端に普段のふざけたような調子へ口振りを戻すと、【NiGHT JoKeR】は両の腕を左右へ大きく振り上げるや、


「Are you ready(準備できましたか)? と言っても、準備できてようが、できてまいが、もう待つ気なんてさらさらありませんけどねー。 あ、くれぐれも退屈な戦いだけは勘弁してくださいよー? 何せこれが正真正銘、ゲームとしての【eNDLeSS・BaBeL】でおこなうことのできる最後の戦いになるわけですからー。製作者一同の思いを汲み取り、出来る限り、力の限り、精一杯のエンターテイメントな戦いで幕引きにしてくださいなー。それでこそ、『貴方』のせいで消えていった彼らの犠牲も報われるっていうもんです。そうは思いませんかー? ねえ、そう思うでしょー?」


はなから答えなど求めていない問いを発しつつ、さながらスタートの合図とばかり白い袖を舞わせて自分を促してくる。


が、そんな催促の必要も無くすでに。


立ち上がっていた。


視線を逸らすことなく、膝を伸ばし、自分自身を睨むもうひとりの自分へ向かって。


かつて。


『麻宮桂一』という別人であった自分を睨み続ける、

『糸田洋介』という別人であった自分を睨み返しながら。


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