DaTa FiLe [RooT 31]
事前情報があるというアドバンテージは大きい。
心構えや覚悟までなら、単純に経験や精神力などで行なうこともできるが、具体的対処も即座に可能な身構えとなると、事前情報無しではいかんせん、どうにもならない。
逆に、必要な情報を基礎として心身とも、ちきりと構えて望めば、大抵の事態ならまず初手でしくじるようなことは無いといえる。
そして実際。
英也はその事前情報のおかげで、危うく命を落とすような場面に遭遇しながらも、どうにかその一命を取り留めていた。
ただし、それでもひどく間一髪な危機回避ではあったが。
始め、一旦消失していた意識が回復しだしたとき、まず最初に取り戻した感覚は聴覚だった。
『……aWN QueeN】の予約行動が実行されました。【BeNeDiCTioN】を発動。このスキルの効果により現在、おこなわれている戦闘が終了するまで、【DaWN QueeN】の兵器グレードは上昇します』
ぼんやりと、付け替えたばかりの電球が徐々に灯るような緩慢さで、まだおぼつかない両の耳が聞きなれたアナウンスを拾う。
そして次に。
『【DaWN QueeN】の予約行動が実行されました。【BeNeDiCTioN】を【NooN JaCK】に対し使用。このスキルの効果により現在、おこなわれている戦闘が終了するまで、【NooN JaCK】の兵器グレードが上昇します』
聞こえて途端、今度は触覚。
不意に両手へずしりと重みがかかり、握りこむよう指がそれを支えると、同時にスラックスの左右のポケットへ重量感と圧迫感が発生した。
ようよう動き出した思考回路が理解する。
腕にかかる重みは【BeNeDiCTioN】の効果で与えられた銃。ポケットの重みはその弾丸だと。
そこでふと、考察が横へと逸れた。
作戦会議の際、【BeNeDiCTioN】の使用は満場一致で必要との認識を得、実際に今、その恩恵に英也は浴しているわけだが、そんな会議の中で何故か洋介と【NiGHT JoKeR】はそれを不要とし、スキル使用は自分と彩香の2陣営のみで良いという結論で話は終わった。
恐らく、【NiGHT JoKeR】に関しては予想がつくし、ほぼその予想で間違いは無い。
単純な話、【NiGHT JoKeR】は守らねばならない対象が無い。
すでに同盟者である桂一が死亡してしまっているという明確な事実のある限りは。
となれば、【NiGHT JoKeR】だけなら【BeNeDiCTioN】など使用せずとも、如何様にもやりようはある。
何せ、生存猶予期間を持たない(管理者)という立場ゆえ、他の生存猶予期間を持つ兵員や同盟者がいない以上、時間稼ぎだけならむしろ(管理者)単体のほうが都合はいい。
庇う相手というべきか、足手まといというべきか、ともかくそういったものが存在しないのだから。
だが、疑問なのは洋介についてである。
固有スキルの差異こそあれ、すべての兵力を放棄し、しかも【aBoVeBoaRD】を発動してしまった今、彼に限らずすべてのプレイヤーはあらゆる行動を取る際に事前連絡の必要が生じるている。
この事情と状況を思うに、さしもの洋介とはいえ、これをさらに覆すほどまでの奇抜な絡め手や隠し玉があるとはさすがに考えにくい。
ならばこそ何故?
不必要に不利な条件を彼は選んだのか。そこがどうにも英也には分からなかった。
無論、語られた言動から察するに彼は今まで何度となくこのゲームを繰り返しているのだろう。当然、その流れで【FouR oF a KiND】もまた。
ならば【iMiTaTioN】との戦闘経験は単純に洋介のほうが潤沢と見ていい。
となると、彼は知っているのかもしれない。
口で話し伝えられる類ではない、体で覚える類の、戦い方のコツを。
もちろん、これは好意的に解釈した場合の予測であって、まだ彼がもはや自分たちに対して隠し事を一切していないとまで断言するには、いささか彼とは長く、強く、敵対しすぎた。
が、それでもそうやって己の悪意を押し殺し、良いように憶測するのはひとえに、今はそんなことへ気を散らせていられるほど余裕のある状況ではないからだった。
だから英也はともかく、眼前の戦いにだけ専心する。
本質的に、軍人とはそういうものであるべきなのだから。
いざ戦うとなったら、その戦いの意味や背景など考えるべきではない。
ひたすら純粋に、自分が与えられた戦いを全うする。それだけを考えていればいい。
ゆえにこそ英也はただこの瞬間だけに神経を集中し、いまだ霧のようにくゆる自らの五感を駆使し、備えていた。
はずだった。
いや。というよりも、
そのつもりだった。のだが、
「中尉っっ!!」
突然、復帰したばかりの聴覚に鋭い叫び声が突き刺さり、はたと英也はその投げかけられた言葉の意味を理解しようと、思考の速度を上げた。
刹那。
皮肉にも英也は即時、導き出された予想を、時間差を置いてようやく機能を始めた視覚が捉えたそれによって瞬時、この場に限ってのありとあらゆる一渉りを把握した。
一瞬にして噴き出した、多量の冷や汗と共に。
ぼんやりと、いまだ十全とまではいかぬまでもほぼ七割、急速に戻り始めた彼の視覚が捉えたもの。それは、
そんな視界をほぼ覆い包むほどに迫るブロックノイズ。
事前情報が無ければ最悪あと数瞬。それが何なのか分からず、呆けて観測を続けてしまっていただろう。
ところが、そうはならなかった。
これを見た英也はほとんど考えもせず反射的、手に持った銃を前方へ構えようとする体に染み付いた習性を押し止め、背を後ろへ反らして右足を蹴り上げるよう突き出す。
途端、
右足の裏へ重い衝撃が加わる。
ちょうど人ひとり分の突進によって与えられるほどの大きな衝撃が。
お世辞にも安定感があるとは言えない体勢。そこに強烈な突進。英也自体もそれなり鍛えている自覚はあれど、さすがにこれは左の軸足一本で支えきれるものではない。
しばらくはうまくバランスを取り、通常では有り得ない負荷に右膝が今にも屈して曲がりそうになるのを堪え、同じく膝への負担に左足が軽い悲鳴を上げるのを無視し、靴底から煙でも上がりそうな烈度でコンクリートの床との摩擦抵抗を受けながらも、英也はかなりの勢いで後方へと押しやられてゆく。
しかし、そんな最中でさえなおも鮮明さの戻ってきた彼の視力は、次なる危機をその目に見る。
自分を後方へと追いやる突進するブロックノイズ。改めてようやっとそれが人の形らしき体を成しているのを確認したかしないか、そんな時。
人型のブロックノイズ……【iMiTaTioN】は恐ろしいことに、とてつもなく単純で直接的、なればこそ卑怯とすら言えるほど効果的な戦法を見せた。
ちょうどみぞおち辺りへ蹴り込まれた英也の右足から伝わる抑制をまるきり意に介さず突進を続けながら、さらにそんな彼の右足へ完全に空いた状態の両手を伸ばし、スラックスの裾をまくって直に皮膚へ触れようと動いたのである。
瞬刻、皮膚から溢れ出る冷や汗が脂汗に変わった。
頭では分かっていた。説明も聞いた。理解はしているつもりだった。
なのに、それでも。
今、まさに目の前へ襲い掛かってきている化け物……幻覚か、PCのモニターにでも映り込んだ画像の不具合、バグの類。
動きと五体を感じさせる全体の形以外、人間らしき要素などこればかりも持ち合わせていようとは思えなかったそれが、こちらの意識もまともに揃って明確化も終わらないうち、ほとんど鼻先までまさしく欠片の躊躇逡巡もなく弾丸のように迫ってきていた奇怪な存在が、元からそうするよう行動を組み込まれていたのか、はたまたシステマチックで理知的な思考からか、ともかく実際がどうかはさておき、当の英也としてはまるで手馴れた兵士が確実に、しかも最短にして最善の順序で敵の急所を狙い、最速で動きを組み立て、実行してきたような【iMiTaTioN】の動きへ、さながら綿密に訓練され、洗練された人間の兵士たちのイメージが頭の中で重なるよう想起されてしまい、皮肉にもまったく人間らしからぬと思っていたし、事実、一部分の動きの規則性や形を除く、姿形や行動、その速度や軌道、漂う雰囲気に至るまでがどこまでも人間離れしているはずのそれを、むしろ自分と同じタイプである、「一般社会的観点から見た場合、間違い無く異常であり、異端とされる人間」が持つ特有の情調へ奇妙な共感を覚えてしまい、彼の中にある同類・同属嫌悪にも似た恐怖心が揺り動かされてしまった。
さりながら、頭や思考とは別、体に刻まれた体験と経験が自然、無意識のうちに最適の行動を英也へ取らせる。
迷いによる内的空白時間など実際は無に等しい。
反射による外的行動時間はそれらをすべて無視して進んでいた。
すなわち。
スラックスを避けて直接に皮膚へ接触しようと【iMiTaTioN】が動くのを見た時点、すでに英也は咄嗟、ぐっと背筋に力を込めて反らしていた上体を前方へと傾け、手にした銃の片側を支える手を軽く脇腹の辺りまで引くや軸として固定し、片やもう片方の腕を打ち出す形で目の前まで迫っていた【iMiTaTioN】の横面に、美しいほどの四分円を軌跡と描いて、その頑健な木製の銃床でもって力任せ、殴りつけていたのである。
と、当然の如く【iMiTaTioN】は一瞬で体勢を崩し、ほんの1メートル程度ながら英也に弾かれ位置をずらすと、勢いよく固い灰色の床へと片膝をついてわずか、その動きを止めた。
瞬間。
さらに好機としか呼べないこの間を浪費することなく、充分利用して英也は動く。
突進を止める為に突き出していた右足が自由になったのを感覚で確認するや、すぐさまその足を地面へ打ち下ろし、重ねて地に着いたままの左足も、床を蹴りつけるように前へ押し出し、一気に【iMiTaTioN】との距離を空けるため、受身の体勢も何も考えず、強引に飛び退った。
そこで約2メートル。3メートルには及ばない距離を、英也はほとんど仰向けの姿勢で低く宙空を飛ぶと、無防備に左の肩口から落下した衝撃で、無軌道に床を転がる。
天地上下の感覚も整わぬままに、飛ぶ際に胸元へ抱えた銃をしっかと握る左手に途端、鈍く響く打撲の痛みと、床に擦れる熱く鋭い擦過傷の痛みを感じながら、それでもなお石の如く転がりつつ、残る右手を弾丸の詰まったポケットの中へ突っ込んだ。
地面を転がる不安定さと、その弾みによって数発、手とポケットの中から弾丸が床へとこぼれたが、そんなことを気にする余裕などあろうはずも無く、英也は手の中へ残った弾丸を摘み上げるとレバーを操作し、開いた銃の薬室へと素早くそれを詰め込み、再びレバーに手を掛け薬室を閉じる。
同時、英也の体が止まった。
これまで転げ回っていた床の上へ。驚くほど、きちりとした体勢で。
回転の余勢を借りて浮き上がった上半身を真っ直ぐ、距離を離した【iMiTaTioN】へと向け、その上体に瞬く間も無く即時に担ぎ構えた銃口を向け、そんな胴体部を支えるかのように、ほとんど座るような姿勢で下半身を下ろし、右足は膝からつま先までを床へと着き、左足は膝を柔軟に立て、いつでも片足一本でその体勢から立ち上がることも、飛び出すことも、飛び退くことも出来るよう、多くの選択肢と力を込めて。
無論、引き金へはとうに指がかかっている。
そして考えるまでも無く、英也はまず一発、眼前でまだ膝を着く【iMiTaTioN】へ向かい、もはや本能的な反応でもって最初の銃撃を加えようとしていた。
が、しかし。
そうした予定……決定とすら言ってよい英也の動作が、止まる。
容赦なく鼓膜へ叩きつけられた、強烈な銃声によって。
瞬時、目の前に在る【iMiTaTioN】の頭部が、首から下を引き連れてさらに1メートルほど、英也とは逆方向へと弾け飛び、ついには奥の壁に接する手前まで身をずらした。
見ずとも分かる。考えずとも分かる。確認の必要など無い。
【DaWN QueeN】による援護射撃。それ以外の可能性があろうはずも無い。
心情的には振り返り、目で確かめ、形ばかりでも礼の一言くらい掛けたいという衝動もあった。
だがそれはあくまでも平時、もしくはもっと膠着した戦闘状態に限って行えること。
とてもではないが、このような逼迫した戦時状況でそのような真似をしている余裕などあるはずが無い。そこは【DaWN QueeN】もまた分かっているだろう。
ゆえに英也はあえてそのまま体勢を維持し、またわずかに離れた【iMiTaTioN】へと照準を定め直すと、引き金へ掛かった指先に神経を集中させた。
かと思ったその時。
『【NooN JaCK】の予約行動が実行されました。【NooN JaCK】の【aCCeLeRaTioN】が発動。使用コスト999時間を設定。これよりゲーム内の時間経過速度に99.9%の加速値が加わります』
まだ微かに先ほどの銃撃音の残渣に震えて精度の落ちた英也の聴覚が、今作戦の会議中に定めて実行した最後の予約行動を宣言するメッセージを拾う。
転瞬。
銃を固定し構えた己が手のうち、左手の甲に光る生存猶予期間を一瞥して即座、再び視線を半ば壁側へ倒れ込んだ【iMiTaTioN】に向け直すと、改めて胸の奥からこみ上げて来る恐怖に思わず、喉元をちりちりと焼く胃液を無理くり飲み下しながら、乾ききった口の中とは対照的、不気味なほどさらさらとした汗が、頭皮を伝って多量に首元を流れ落ち、背筋へ走る悪寒と汗の流れが五感をひりつかせる。
時間の経過速度は主観的なもの。それゆえ、置かれた状況に応じて時間の経過は早く感じる場合もあり、またその逆に遅く感じる場合もある。
大抵の人間は経験則として、なんとなくでも理解している事象。
だからこそに。
英也は指先が、顔の皮膚が、首の背面が、痺れるほどの強い恐怖を感じていた。
作戦に係わるすべての予約行動は10秒区切り。そう予約した。
であるはずなのに、
始めの【BeNeDiCTioN】が実行されたとのアナウンスを聞いてから、次の【BeNeDiCTioN】が実行されたとアナウンスを聞くまでの10秒間。
その時間感覚に対して。
そこから【aCCeLeRaTioN】の実行を伝えるアナウンスが聞こえるまでの時間が同じ10秒なのだと考えた時。
戦慄した。
比喩などではなく、恐怖のあまり英也の体は確かに震えた。
時間感覚は主体的なもの。であるのなら、
明らか、自分は【iMiTaTioN】と対峙した時点で時間感覚が崩壊した。
朦朧とていた意識が晴れ始めてきたときの10秒。
その後、【iMiTaTioN】に襲い掛かられて一時、行動を止めるまでに要した時間もまた10秒。
であるならば。
ここからようやっと10分間、耐えるという状態となった自分にとり、この10分は果たしてどれだけの主観的な長さとして感じられるのだろうか。
倍の20分?
十倍の100分?
それとも、よく聞く喩えのように、永遠の如く感じるとでも?
思い、英也は覚えず真に成すべきタイミングを無視して本能的、引きそうになった銃の引き金を半ば麻痺したような指先へ祈りでも込めるように押し止めると、眉に溜まって流れ落ちた汗がもはや一度の瞬きをすら許されない、微塵の猶予も失った瞳へと伝い、不快な感触とともに濁ったと途端、涙の如く零れて晴れて蘇った眼球の機能を示すよう、頬を濡らして流れ落ちるそれをただ忍耐のままに受け入れ、まだわずか、波打ち滲んだ視界の中、再び蠢き始めた【iMiTaTioN】をより強く凝視しつつ、血の味の口へ広がるほどに無意識、己が下唇を深く噛み締めた。




