4th TuToRiaL
「……分かった。今出ていく。ただし、後ろ向きは勘弁願うよ。そちらの感情は痛いほど分かるが、その点では小官も君らと同じ立場にある。出来ればこちらの事情も汲んでもらいたいね」
彩香が銃を向けた手前の柱。まさしくそこから声が返ってきたのは、彩香の迫力ある命令が周辺に響いて後、ものの1秒も経たないうちのことだった。
落ち着いた若い男の声。そして。
すぐに柱の横から、パッと開かれた両手がよく見えるように突き出された。
「ご覧の通り、両手は何も持っていないのを示しておこう。さらにこの状態のまま動かさないことも約束する。代わりに、せめて横向きで出て行かせてくれ。いくらなんでも銃を持った相手に……たとえそれが警官だとしても、無防備に背中を見せられるほど小官の肝は据わっていないんだ」
この男の言葉へ彩香は一瞬、考えてから即座に返答する。
「……いいだろう。ただし、努めてゆっくりとだ。少しでも怪しい動きを見せたら……」
「了解してるよ。小官だって素人じゃあない。その辺りは心得てるさ」
答えながら男は彩香の指示通り少しずつ、少しずつ柱から姿を見せる。
始めは開かれた両手。続いて両足。最後に頭と胴体。言った通り、横向きの姿勢で顔だけをこちらに向け、素早く桂一と彩香を確認するや、最後は自分に狙い定められた銃口に視線を固定し、微かに口元へ笑いを浮かべつつ再び男は声を発した。
「その銃、S&W M360J……SAKURAか。偽装にしては手が込みすぎてるね。となると、君は本当に警察官……?」
銃を突きつけられているというのに、男は片眉を上げてそう平然と問う。
髪は角刈りを少し伸ばしたような短髪で、刈り上げた横と後ろは頭皮も透けて見える。
普通なら垢抜けない髪形だが、細面に一重の切れ長な双眸、こけた頬と直線的な印象を与える長方形の鼻と、色も厚みも薄い唇が逆にこの髪形ゆえに全体をむしろ重厚な感覚へ仕上げていた。
服装は白いTシャツにグレーのスラックス。靴は黒いブーツらしいが、裾に隠れてあまり判然とはしない。
「こんな状況だ。口先でなら何とでも言える。だからこそ不用意な行動や発言はしないよう、正確かつ信憑性のある自己紹介が必要になるだろうな」
「なるほど。だが、そっちの坊やについてはどうなんだ? 小官と違って最初から信用しているようにも見えたが」
「簡単さ。彼が気絶している間に持ち物を調べさせてもらった。学生証から何からね」
これを聞き、桂一はやにわに彩香を驚きと不信の目で見たが、彩香は背後の桂一を振り返りもせず答える。
「……申し訳ないとは思ってる。しかし繰り返すが、状況が状況だ。とりあえずはすべてを疑ってかかるのは警察官の性でもある。許してほしい……」
こう言われてしまっては桂一も強いて文句を言えなかった。
確かに状況が状況。そこは痛いほど理解できるだけに。
「さて、ではお互いに『それなり』の信頼を得るための自己紹介といこう。陰から聞いていたと思うが、私は睦月彩香。警視庁のサイバー犯罪対策課に勤務している」
「鋭いね……じゃ、こちらの番だ。小官は統合幕僚監部隷下、自衛隊指揮通信システム隊所属、長内英也二等陸尉。ま、表向きは……って言葉がついちまうから説明するのも難しいけどな」
「指揮通信システム隊ということは……まさか……」
「恐らく、お察しの通りだよ。こっちも【eNDLeSS・BaBeL】関係……というか直で【NeT TRuDe】に関する諜報任務についていたとこさ。上から米国のCIA(中央情報局)と連携して頑張れって話だったんだが、向こうの諜報員と接触しようかっていう矢先にこのザマ……我ながら何とも情けないね」
「だと……するとやはり……」
その時。
英也と名乗った男との会話から彩香が言葉を継ごうとした瞬間。
『ようこそ、【eNDLeSS・BaBeL】の世界へ』
突如、聞き慣れない女性の声によるアナウンスが広い室内へ反響して轟きわたる。
桂一、彩香、英也の三人が揃ってそれへ面喰らう中、なおアナウンスは続いた。
『現在、新規プレイ可能枠は3つです。【DuSK KiNG】は現在プレイ中のため、【NooN JaCK】、【DaWN QueeN】、【NiGHT JoKeR】のいずれかを選択し、プレイヤーエントリーをおこなってください』
「なっ、なんだ? 急に……どこから聞こえ……」
戸惑いつつも周囲を見渡し、音響の発生源を探そうと彩香が動くや、それを待ち構えていたように次の変化が起こる。
三人を中心とした斜め四方。
斜め右前方、斜め左前方、斜め右後方、斜め左後方。それぞれに位置していた巨大なコンクリートの柱が床へ沈んでゆく。
後に、内部から無骨な金属製の梯子を表して。
見ると、梯子は白、青、赤、黒の四色に色分けされているのが分かった。
そして何故かそのうち、白の梯子だけが完全には姿を現さず、ちょうど人が入り込むのは不可能な位置で、コンクリートの柱だと見えていたものが停止している。
「……また、凝った仕掛けだな。柱は外側だけで、内部の空洞に梯子が通ってたのか。こりゃ手の込んだことで……」
「何のんきな物言いをしてるんだ! ここまで大掛かりなことする意味が……相手の意図が読めない時に、何を落ち着いて……」
「いや、恰好だけさ。落ち着いてる暇なんて実際はありゃしない。何せ、小官の聞いてる情報が正しければ、もう秒読み段階だからな」
「は……?」
そう英也の発言に彩香が小さく声を漏らしたのとほぼ同時。
耳障りな甲高い警告音とともに、またしてもアナウンスが響く。
『プレイヤーエントリー締め切りはこれより30秒以内となっております。それまでにエントリーを終えられなかった場合、自動的に【WReCK DaTa(残骸情報)】として削除対象へ組み込ませていただきます。どうぞお急ぎください……』
「そら見ろっ!」
と、一転。
それまでどちらかというと物静かな物腰と言動だった英也は、よく意味の分からないアナウンスを合図のように突然大声を張り上げるや、現れた梯子のうちひとつへ、飛ぶような勢いで走り込んでいった。
瞬間、警告音と英也の急な動きに、驚きから頭と体が止まってしまった桂一に対し、経験の差であろうか、彩香はすぐさま駆けてゆく英也に銃口を向けつつ、問い叫ぶ。
「待て! 勝手に動くなと先ほど警告したはずだろう! それより何が起きているのか説明しろっ!!」
これに対し、英也は自分の駆ける足音と彩香の大声に混じり、微かに銃の撃鉄が引き起こされる音を聞く。
現実的に考えればダブルアクションの銃なのに撃鉄を自力で引き起こすというのには、大抵ふたつの意味がある。
ひとつは威嚇。
相手へ間違い無く発砲するぞという意思があるのを知らせる意味。
ひとつは射撃の精密性向上。
あらかじめ撃鉄を引き上げておくことによって機構上、引き金は自然、軽くなる。
当然だが弾丸発射時の引き金は軽ければ軽いほど射撃の偏差は少なくなるという意味。
こうしたことから、ふたつ目については単なる射撃の精密性に関してだけでなく、そういった意図を理解できる相手には二重の威嚇としても機能する。
事実、英也はこの隠された二重威嚇を認識していた。
しかし。
それでもなお、彼は動きを止めず、結局ひとつの……青色の梯子まで到達するや、その脇へ手を掛けるに至って、ようやっと答えを返した。
「悪いが細かい説明をしている時間はもう無い。ただ、はっきりしているのは残り20秒少々後もここに居座っていれば、確実に殺される。それが嫌なら、このゲームへエントリーするより他に無い。そういうことだよ」
「……!」
戻ってきた答えに刹那、彩香は驚きと疑惑で混濁した声を思わず飲み込む。
すると英也はその反応をちらりと横目に見て笑みを浮かべ、両手をしっかりと梯子の脇へ固定し、今にも滑り降りようとしながら言葉を継ぎ、
「言っておくが、この期に及んで疑うだの何だのしている暇は無いぞ。小官の話が信じられないなら好きにするといい。ただし言うべきことは言っておく。君も、そちらの少年も早く残りの梯子を降りろ。ちなみに梯子はひとりにつき、ひとつしか使えないからな」
言い残したかと思うや、次の一瞬にはもう英也の姿は青い梯子の下へ広がる暗い空間へと消えていった。
まるで木から滑り降りるようにして瞬く間に。
途端。
かまびすしく響いていた警告音がさらに音量を上げ、
『カウントダウンを開始します。10、9……』
さしもの、この急き立てにはかろうじて冷静さを保っていた彩香も声にならない苛立ちを息とともに吐き出し、素早く銃をホルスターへ戻しながら残された梯子のひとつ……赤い梯子に向かって走る。
最後にわずかな余力を遣い、背後に残した桂一へ呼びかけながら。
「桂一君、君も急げ! 癪だが、あの長内とかいう男の言う通りだ! 今は迷っている暇も無い、とにかく梯子を降りろっ!!」
まだ覚醒して間が無く、少なからず漫然としていた桂一の耳にそんな彩香の命令が届いたのは、すでに彼女の姿が英也の時と同じく赤い梯子の下部へと飲み込まれた後だった。
そうしてようやく、
『6、5……』
まるきり余裕の無いカウントダウンの読み上げと、つい今しがた彩香が残していった命令に差し迫り、急速な勢いで桂一は体を起こすや、ひとつ残された梯子を見遣る。
現実にはほぼ無意識。
極めて漠然とした感覚。
そのような思考に満たない思考。
無理に表現するなら、要因の特定できない、ひどく純粋な危機感と恐怖によって桂一は最後の梯子……黒い梯子へと駆けた。
いや、正確には駆けようとした。
ところが実際は。
立ち上がった刹那、桂一は自分の身体が予想以上に重く、しかも破滅的なまでに平衡感覚が機能していないことに気づいた。
膝が揺らいでいるのか。それともそう感覚を誤認しているのか。
いずれにしても、自分の身に起きている不具合をじっくりと思索する時間も無い。
『4、3……』
迫るタイムリミットと、それに後押しされる心情とは反比例し、走るどころか普通に歩くだけですら難儀する状態で、辿り着く必要がある梯子までの距離はまだ10メートル以上を残したまま。
万全の態勢だったとしても梯子まで辿り着けはしても、そこからさらに梯子を降りる時間が余るとは、もはや思えない。
それでも。
『2、1……』
桂一の本能、生存本能は。
彼自身が想像していた以上に大きく、そして強力だった。
絶望的な数字のカウントが聞こえる中で、桂一はその身の反乱を力尽くで叩き伏せ、恐らく潜在しているすべての力を振り絞り、跳躍する。
一度の跳躍だったか、二度か、もしくはもっと刻んで跳んだのか。
そこのところは桂一本人にすら分からない。
脚の感覚は無かった。
梯子までの1、2秒に関しては記憶さえ無い。
だから。
『……0』
ゼロカウントが耳に遠く響いた時。
桂一は自分の発作的な行動の一部をようやく知った。
梯子まで到達することはどうにかできるかもしれない。
さりとて、そこに梯子を降りる時間は含まれない。
それゆえの決断だったのだろう。
思考を伴わない決断。
遠く聞こえるカウントの声。
上方から聞こえるカウントの声。
何のことは無い。
桂一は。
梯子まで辿り着いた時。
迷い無くその暗い淵へ、梯子には触れもせず身を投げ込んでいた。
急激に遠ざかる光源と等しく、再び自分の意識が闇の淵へと落下してゆくのを感じながら。