DaTa FiLe [RooT 21]
「……大丈夫ですかー? 桂一さん……って、まあ……大丈夫なわけはないですかねー。その様子を見る限り、じゃあ」
意識の切り替わりも無く。
目に見える光景の切り替わりも無く。
今までの、何度か経験してきたものとはまるで異なり、この時の桂一は瞬時……文字通りの瞬時、つい先ほどまで居た場所を変わり、見慣れた寝室のベッドの上で浅く、早い呼吸を繰り返しながら横たわる自分を感じつつ、その声を聞いた。
何故か突然、目の前へ現れた【NiGHT JoKeR】の問い掛けを。
視界いっぱいになるまで接近し、それでいて憂慮の欠片も無い、軽く片眉を上げて探るよう覗き込んでくるその瞳を見つめ返しながら。
そして同時、桂一はまさしく、正気と狂気の双方を奇妙に体感していた。
自分は今、明らかに錯乱していると把握し、そのくせとても正常に思考することなど不可能なほど狼狽していつつも、何故かそんな自身の精神状態を、加えてそれに伴う肉体の反応をも、冷静に理解していた。
過呼吸のためか両手の指先は痺れ、軽いめまいから視界が一歩、後ろに下がったような、厚いガラス越しのような違和感を帯び、やかましく耳障りに過ぎる自分自身の性急な心音と呼吸音が、ただでさえ亀裂を生じた理性を苛み、順序や時系列などまるきり不明な、散乱したいくつもの情報を一時に流し込まれたことで、とうに理性的・論理的な解釈を委ねるには脆くなりすぎたはずのその精神で。
次から次、止め処無く溢れ出し、頭皮から耳の裏、首筋へと伝い落ち、枕へと染み込んでゆく冷や汗と脂汗。
ベッドのシーツと衣服の間……背中一面を湿して冷えた汗の不快感。
眼球の奥を熱く、刺すような痛みが走り、鈍く重い頭痛が食道まで胃液を上らせ、喉の下辺りへかけて胸の内側が焼け焦げるように痛む。
そんな中。
心因性か、それとも身因性か。
はたまた心身両面の複合した要因か。
何にせよ、はっきりとした知覚麻痺を感ずる指先だけに限らずまるで丸一日、眠り続けた時の如く思うように働かず、力も入らぬ全身へ無理やり意志を込め、ようやく動かせたのは口と声帯のみであった。
それもひどく拙く。
「……俺は……」
発せたのはうわごとのような短い言葉。
「……俺は……誰……だ?」
顔を引きつらせ、首に筋を浮かべ、必死に一言、一言を人に聞かせるに堪えるレベルへ維持して最低限、呂律を正常な範囲へ保ちながら。
が、そんな桂一が懸命、絞り出した問いへ対し、【NiGHT JoKeR】はまるで変わらず、軽薄な調子で答えを返す。
「また開口一番、妙なことを聞いてきますね。そんなのもちろん、『麻宮桂一』なんじゃないんですかー? ていうか、自分でも今の今まで、そう思ってたんでは? だったら、そうなんですよきっと。それにほら、これにだってしっかり書いてあるでしょ? 『麻宮桂一』って」
「違うっ! それは……それは、ただ……サブ・アカウントを作るために、偽造された学生証の……」
「……偽造された学生証の内容だから、自分が『麻宮桂一』だってこともまた偽造された事実であって、真実じゃないと? けど、それなら貴方は『糸田洋介』だとでも? でなけりゃ、それこそ一体何者だと?」
知らぬ間に上着から抜き取られたのだろう、桂一の学生証を眼前に差し出して見せつつ答える【NiGHT JoKeR】へ、音量も迫力も無い、哀れなほど弱々しく荒げた声で桂一は言葉を継いだ。
それへ対し何も変わらず、無関心にして無感情な、共感覚の欠如した調子を崩さぬ彼女へと向けて。
とはいえそもそも、桂一が真に求めている答えはようやく口にした質問の額面通りというわけではない。
もっと自己存在の根幹に関する、ともすれば哲学的な回答を望んでいた。
だがそれはすなわち、ほぼ欲するところの答えを得られる可能性がほとんどゼロであるという証明でもある。
つまりはどちらへ転ぼうと、もし相手が【NiGHT JoKeR】以外の誰かであったとしても、まず桂一が期待する結果が訪れることは有りえないのだと、彼自身も頭では分かっていた。
感情の面で納得できるかに関してはまた別として。
だが、状況はさらに変化する。
もはや即時適応など不可能な頻度と速度で。
「ま、どっちにしろ僕にとってはどうだっていい話であることには違い無いですね。以前にも少し話したと思いますが、僕からしたら真実であるとか虚偽であるとか、そんなことには何の意味もありやしないんですよ。例えば、貴方がもし本物の麻宮桂一……もしくは糸田洋介だったとしたら? それはそれで問題は無い。自分が実在する人間だったということに無意味な安心でも感じていればいい。で、もし本物ではなく、偽物だったとしても、それが理由で何か不都合が? そこにあるのは単に『本物』と、『偽物という本物』って違いだけでしょう? 本物は、ただ本物。偽物は、偽物としては本物。どちらもカテゴリが異なるだけで、本物であることに変わりは無い。所詮、その程度の意味ですよ。やたら大方の人間が重きを置いて、馬鹿みたいに大事にしてる価値観の本質なんて。それに、今はそんな些細なことなんかへかまけてる場合じゃないと思いますけど? なんせ……」
言いかけた【NiGHT JoKeR】の言葉を中途で断ち切るように突如、室内へ聞き慣れたアナウンスが響いた。
『タイマー設定された時刻です。これより予約されていた命令を自動実行します』
機械的な合成音声の、どこで途切れるのかも分からぬほど長い伝達事項。
『【NiGHT JoKeR】より【SuRRoGaTe(代行者)】が実行されました』
『【SuRRoGaTe】の効果を使用。【NiGHT JoKeR】より【DaWN QueeN】の固有スキル【VeNoM(毒)】が【DaWN QueeN】に対して実行されました。これより【DaWN QueeN】管轄の【NeuTRaL FLooR】から指定された階層、【NeuTRaL FLooR 1188】は【DaWN FLooR】となりました。以後、【DaWN QueeN】はこの階層を所有する限り、固有メリットを除いた通常命令・固有スキルに対する実行コストが2倍となります。また、この階層は所有するプレイヤー自身によっては破棄できません』
『【SuRRoGaTe】の効果を使用。【NiGHT JoKeR】より【DaWN QueeN】の固有スキル【VeNoM(毒)】が【NooN JaCK】に対して実行されました。これより【NooN JaCK】管轄の【NeuTRaL FLooR】から指定された階層、【NeuTRaL FLooR 1188】は【NooN FLooR】となりました。以後、【NooN JaCK】はこの階層を所有する限り、固有メリットを除いた通常命令と固有スキルに対する実行コストが2倍となります。また、この階層は所有するプレイヤー自身によっては破棄できません』
これを聞き終えた時。
いや、聞き終えるより早く。
ベッドの上で桂一はまさしく、跳ね起きた。
数秒と立たぬ間、自動実行された固有スキル。
【SuRRoGaTe(代行者)】
【NiGHT JoKeR】との同盟プレイヤーが持つ固有スキル。
他のプレイヤーが持つ固有スキルを、その名の通り代行者として無断で実行することが出来る。
代行して固有スキルを実行するプレイヤーも、その対象者も自由に選択できるなど、極めて実用性・汎用性に富んだ固有スキルである代償として、本来の使用コストの実に10倍を支払う必要がある。
加えて、生存猶予期間のコスト以外に使用条件がある固有スキルの場合、同一の条件を満たさなければならず、さらにスキル使用時点での保持兵力が10を下回っていなければならないなど、実行難易度もその強力さに比例して高い。
使用コスト・代行使用する固有スキルの通常使用コストの10倍。
使用条件・代理使用するスキルの実行に必要な条件のクリア。加えて、スキル実行時点での保有兵力が10以下であること。
【VeNoM(毒)】
【DaWN QueeN】との同盟プレイヤーが持つ固有スキル。
指定した相手プレイヤーへ自らが所有している、していないに係わらず、指定階層の中から好きな階層ひとつを相手の所有階層とする。
しかし、このスキルによって所有した階層は持っているだけで自動的に所有するプレイヤーは以後、実行する命令・固有メリット・固有スキルの使用コストが2倍となるうえ、自らこの階層を放棄することはできない。
また、このスキルによって所持させることの出来る階層はプレイヤーひとりにつき1階層のみである。
使用コスト・100時間。
それらが意味する事柄。
今、起きていることの重大性。
さらには、それが何故に起こり得たのか皆目検討がつかないという事実。
断片的な憶測や推考ならば無くはない。
というより、思わざるを得ない。
十中八九、これは【NiGHT JoKeR】の仕業であろうと。
ここのところずっと、毎日のように口うるさく自分へ課してきた生存猶予期間2000時間超のノルマも、これが狙いだったのだとすれば話の辻褄は、合う。
ただし、こうした上で何が目的なのか。そこまでは分からない。
だとしても、ここだけに限れば辻褄は、合う。
さりながら。
自分がこんな命令を実行した記憶は、当然ながら桂一にはまったく無い。
無論、【NiGHT JoKeR】へ命令実行を委任した記憶も無い。
どんな命令も、その実行も、正規プレイヤー自身か、もしくは正規プレイヤーが直接の委任をしなければ、如何に同盟者であろうと管理者であろうと、一切の命令実行は不可能。
それが【eNDLeSS・BaBeL】というゲームのルール。
のはず、なのに何故?
思って刹那、未だ混濁していた意識を乱暴に覚醒させるや、桂一は微塵の迷いも無く今まさに起こした体ごと、首と頭、それへ付随し、衝撃のあまり裂けたように見開いた両眼を【NiGHT JoKeR】へと向ける。
同時、論理的にも感情的にも問うべき問いを、口から発するため。
ところが。
「その顔……一体全体、何が起きてるんだか分からないっていう顔ですね桂一さん。まったくまあ……貴方に限らず、人のそういった表情だけはほんと、掛け値無し……堪らなく、純粋に面白い……だから今、とても機嫌のいい僕としては今回だけ特別、優しく教えてあげますよ」
そんな桂一へ声を出す間も、口を開く間も与えず、
「これらの命令すべて、当たり前ですけど貴方がやったことです。同盟者とはいえ、僕に独断専行の権利はありませんし、貴方から事前の許可も得ていない。だから当然、貴方がやったことなんです。それ以外に有りえない。分かりますか? 桂一さん」
【NiGHT JoKeR】は、さらりと答えた。
重ねて。
その答えを聞いてなお、まるきり納得など出来ていない桂一の様子を見るや、
「その感じ……明らかに分かってませんね。または……分かりたくない? 納得できないとか? いずれにしろ理解できようが、理解したくなかろうが、現在のこの状況は何ひとつ変わりませんよ? 現実は無視しようと思えば無視できますけど、それは単に目を閉じているだけ。見え方を無理やり変えているだけ。そんなことしたって、現実そのものが変わってくれることなんてありやしないんです。それとも何ですか? この期に及んで自己弁護のための言い訳でも考えてるんですか? 顔に書いてありますよ。『自分には覚えが無い』って。『こんなこと、した覚えは無い』って。けど、記憶が無ければ非は無いと? 自覚が無ければ非は無いと? 心神喪失もしくは心神耗弱状態でおこなった事柄なら、自分に非は無いとでも? 残念ですけど、【eNDLeSS・BaBeL】の中ではそんな甘ったれた理屈は通用しません。大切なのは事実だけです。『やった』のか、『やっていない』のか、極めてシンプルな判断のみ。だから、さっさと諦めて受け入れてください。大体から現今、考えるべきことなんて普通、ひとつきりでしょ? こうなったからには、とにもかくにも……」
おどけた表情を浮かべ、ただでさえ自ら身を寄せてきている桂一のほうへと腰を折り、低めた顔を、ぐっと近づけ、
「……如何なる手段も厭わず、選ばず、実行へと移す卑怯者……裏切り者……最低最悪の人でなし……だと、少なくとも傍からはそう見られ、思われ、惜しみない悪評を受ける身となってしまった今となってはもう、せめて……」
頭から水でもかぶったように顔中を濡らし、湿気で張り付き、すっかりボリュームを失った、水気に光る髪の先から滴る汗をベッドシーツへ落とす桂一の瞳を真っ直ぐに見据えながら、
「勝たなきゃ……ダメでしょ……?」
言って、【NiGHT JoKeR】は自分のこめかみへ人差し指の先を当てると、気だるげに首を軽く左右に振り、口元から白い歯をギラリと覗かせ、見た者の背筋を例外無く凍りつかせるほどの、まるきり気の触れたとしか見えない、ただ濃密な狂気だけを含んだ笑みに、その顔を歪めた。




