3rd TuToRiaL
声が聞こえる。
始めはごく遠くから。
それが、
少しずつ近づいてくる。
というより、
(意識)が近づいてきているというべきか。
ひどく希薄になっていた意識が次第にはっきりとし始めるのに合わせ、声は明確になってゆく。
途中、
揺れる感覚が体に伝わる。
ぐらぐらと揺れた。
その辺りから、意識に血が巡り出す。
そこを契機にして次は思考。
何故、揺れる?
何故、声がする?
そうした思考が徐々に収束を始めると、その時にはもう耳に入ってきていた声の情報も、かなり理解出来てきた。
女性の声。
それも若い。
ただ、ここは幅のある表現だ。
聞こえた感じだけで言えば、十代後半から二十代後半ほど。
思うと、こうした声の印象はそれほど当てにはならないことに気がつく。
声だけ妙に若いという人も多々いることを加味すれば、下手をすると上への振り幅はさらに大きいかもしれない。
まあ……そうは言っても、
若すぎるということは逆に考えにくいとして、
十代後半なことだけはほぼ確かだろうと結論した。
と、
そこまで思考が自然におこなわれるようになると、意識もつられて明度を増す。
「……おい」
今度は言葉を聞き取れた。
同時に、体が揺れたせいだ。
いや、
ここに至ってやっと分かった。
揺れているのではない。
揺すられている。
どうも自分の肩の辺りを掴み、ぐいぐいと押し引きされている感触がある。
続け、
「……しっかりしろ……おい」
意識にかかった霧を掻き分け、声が聞こえた。
瞬間、
はっと目を開けた。
おかしな話だが、目を開けて始めて、自分が今まで目を閉じていたことに気がつく。
それほどに意識は混濁していたということか。
なにより、
そこはもう考えるべきことではないとすぐ知れた。
もっと優先順位の高いことから考えるべきだと、すぐに思い直したためである。
「あっ……!」
開いて最初に目へ飛び込んできたのは、急に目を開いた自分にびっくりする若い女性の姿だった。
おまけに、失礼にも小さな吃驚の声まで上げてくれた。
視界全体がほとんどその若い女性の顔で覆われるほどの近距離にいたせいもあるのだろうが、いきなり目を見開いた桂一に驚いたのは無理も無い。
だが、ならそんなに近くで見ていなくてもよかったろうにとも思えるが……。
などと。
実にどうでもいいことをあれこれ思考している間に、女性はすぐさま落ち着きを取り戻すと、少しばかり安心したような表情をして、再びの確認をするように桂一の顔を覗き込み、言った。
「よかった……とりあえずは生きてるようだな……」
とりあえずは生きてる?
これまた地味に失礼な言葉である。
が、不思議と大して腹は立たない。
女性の表情から伝わる安堵の感情が強いせいだろうか。
何をどうしたものか知らないが、桂一が目を覚ましたことがよほど彼女にはうれしいことだったらしい。
そこまで。
考えて、こちらも冷静になった。
頭が本格的に動き出す。
女性は見たところ、二十代前半程度といった感じだ。
肩にかかる手前辺りで綺麗に切り揃えられた黒い髪。
目鼻立ちはしっかりしており、大きいが切れ長の目と、桃色の唇にまず視線がいく。
桂一が起きたことで少し身を離したため、目に入ってきた顔以外……体の特徴を見てみると、(太い)という表現はふさわしくないが、女性にしては体躯が極めてしっかりしている。
(大きい)というより、(引き締まっている)と形容するのが適切だろうその形からするに、アスリートタイプと見るべきだろうか。
グレーのスーツを着て、白いシャツにダークグリーンのタイ。
下はタイトスカート。
女性は倒れている自分に対し、屈み込んで覗き込むような体勢をしているため、うっかりスカートの中がうかがえてしまいそうなことに桂一は気づき、とっさに視線をずらした。
すると、
ここでまた気づく。
この体勢。
自分は床に仰向けになっているらしい。
ただしそこからしてもう疑問が湧く。
寝た記憶は無い。
というか、意識が途切れる以前の記憶がやたらモヤモヤとしている。
どこでどうなって自分は意識が途切れたんだ?
それに、ここは……どこだ?
「おい君、立てるか? なんなら手を貸そうか?」
またも女性が声を発してきたので、ふと桂一も事態の理解のため、頭をさらに回転させ始めた。
肩……左肩に感じていた少しの圧迫感が取れたと思うや、女性が右手を自分へ差し出している。
つまり、今まで左肩をこの女性に掴まれていたわけだ。
となると、先ほど感じていた揺れの原因も察しがつく。
どういう経緯かは知らないが、床に仰向けで寝ていた桂一に声をかけつつ、肩を揺すって起こしていたのだろう。
そういった流れまでは把握できた。
だが、
逆にそこまでが限界。
それ以上はまったく分からない。
この床はなんだ?
どうやら、コンクリートの床のようだが、こんなところで急に眠気を催しても本気で寝るほどの趣味の悪さは持ち合わせていない。
それに。
この、女性は誰だ?
「あの……」
そうして、ようやっと桂一は目の前の女性へ意識を切り替えた。
状況を把握するのに、もう自分単独では不可能と判断したこと。
それにプラス。
いい加減でさっきから自分に対しアプローチを続けている女性へ反応を返さないと、これは自分のほうが失礼になると思ったからである。
遠慮がちに出した声は自分で思っていた以上に小さく、女性が聞き取れたろうかと一瞬、心配したが、声を出してすぐに女性がわずかに眉を動かしたのを見て、問題無く聞こえていると知れた。
加え、分かりやすく返事も戻ってきた。
「……ああ、口もちゃんときけるようだな。少し安心したよ」
前にも増して表情を緩め、女性は言う。
「で、どうした? 何か言いかけたみたいだったが……」
「あ……いえ、我ながら間抜けな質問なんで、ちょっと躊躇してしまって……」
「間抜けな質問?」
「こ……こって、どこ……なんです?」
言いながら、桂一は上半身を起こし、ふいと辺りを見渡す。
広い。
コンクリートの壁。
コンクリートの柱。
コンクリートの床。
コンクリートの天井。
それらを無造作に、かつ殺風景に配置したそこは、どこか大きなビルのワンフロアのようにも感じられた。
しかしながら、
ビルだとすると相当な大きさになる。
それほどに広く感じる。
どこまでもコンクリートしか見るものが無いせいもあるとは思うが、それを差し引いても異常なまでに広い。
言い足すなら、天井も高い。
ぱっと見にはちょっとした吹き抜けにすら見えるほどだ。
軽く見積もって、天井までの高さだけで6メートル。
広さは壁や柱の存在で多少の誤差はあるだろうが、下手をすると1000平米でもきかないのではというぐらいである。
どこまでも延々続く、灰白色の世界。
そんな認識を、周囲を見回して得たところで首を元に戻すと、今度もまた妙にありがたくない変化。
今少し前まで、桂一の覚醒に喜びの色すら顔へ映していた女性の表情が曇っている。
視線を落とし、不安げな顔。
どちらにしろ意味不明。
桂一からすると、どうしてよいものか困惑した。
何故、女性は急に不安そうな顔になった?
それより、自分の質問への答えはどうした?
ここはどこ?
こんな単純な質問をする自分も情けないが、その単純な質問の答えが返ってこないのもどういったことだろう。
さっきから自分でも次々に出てくる(何故)に辟易してきている。
小学生の頃、クラスにいた。
なんでもかんでも「なんで?」と聞いてくる(なんでオバケ)。
当時こそ彼のことをそういって疎ましく扱っていたが、今は自分がその立場だ。
差異があるとすれば、まだ頭に浮かんだ疑問をひとつしか口にしていないことだけ。
そこだけは自分のほうが随分と自助努力していると思うが、それで疑問の晴れるわけでもない。
無性に溜め息をつきたい衝動に駆られる。
すると。
そうした桂一の様子に気がついたらしく、女性は明らかに取り繕ったような笑顔を作り、やおら口を開いた。
「残念……なんだけど、ここがどこかっていうのは……私も分からないんだ」
「……は?」
「ほんと、私にとっても残念だよ。出来れば君がそのことを知っててくれればと願ってたところがあったからね……」
取り繕いの笑顔が苦笑に変わる。
にしても、おかげさまでこちらも疑問はまたもや据え置き。
一向に進展しない。
などと考えているところで、女性はそれほど間を空けずに言葉を続けた。
「自己紹介が遅れたな。私は睦月彩香だ。こう見えても一応、警察官をやってる」
突然の自己紹介だけでももしかすれば多少は驚いたかもしれないが、桂一は女性……彩香の職業に驚いた。
警察官。
確かに。
言われれば立ち居振る舞いといい、身体的なたくましさといい、お堅い職業ではと思わせるふしは所々にあった。
が、実際に警察官となると、やはり面喰らってしまう。
特に、こうも年若い女性がとなるとなおさらである。
「その様子だと、ちょっと驚いてるみたいだね。でも当節、女性警察官なんてそれほど珍しくはないんじゃないか?」
「はあ……それは、まあ……」
「何にせよ、今度は君のことを教えてくれ。とにかく今は絶対的に情報不足だ。少しでも補填できる部分があれば、話して解決していきたい」
言って、彩香はぐっと、身を乗り出して桂一に顔を近づける。
最初に目覚めた時と同じ光景。
時間が逆戻りしているような錯覚を覚えつつも、とりあえず桂一は、された質問へと回答した。
「俺は……麻宮、麻宮桂一といいます……」
「麻宮桂一君か。察するに、その恰好からして職業は中学生か高校生?」
言われ、ふと自分の服装を確認する。
なるほど、
着慣れたいつものブレザー。
学生という判断まではこれだけで出来るわけだ。
「ええ、はい。高校一年です」
「そうか……では、自己紹介はお互いに終わったところで、情報交換といこう。桂一君はここに来る以前、意識が飛ぶ直前の記憶はあるかい?」
「……いえ、何故だかまったく……」
そう答えると、彩香はわずかに横を向き、小さく嘆息した。
この反応からして、彩香も自分と同じく、意識の戻る前の記憶があいまいなのだと察しがつく。
「とすると……やはりどこかで意識を失い、それからここに運びこまれたんだと考えるのが自然だな」
「……運び込まれた?」
「ああ。私たちは何者かに拉致された可能性が高い」
拉致?
どうにも自覚が湧かない。
大体、自分は誰かに拉致されるようなことをしていたか?
それほど大仰なことをしていたつもりはない。
それに、自分が拉致された人間だとしたら、随分と自由すぎるように感じる。
拘束されているでもなし、暴行も受けた感じは無い。
「分かるよ。その疑問たっぷりの顔。言わなくても言いたいことは分かる。拉致されたと判断するには、私たちの置かれた状況はあまりに不自然なところが多い」
表情から考えを読まれたらしく、彩香が自動応答するように言葉を継ぐ。
「例えば……これだ」
言いながら、彩香は上着のボタンを外すと、スーツの左側を手に持って、引っ張る。
露わになったのは、シャツに喰い込むガンベルト。
それに付随するホルスター。
そこには、しっかり拳銃が収まっていた。
「さっき確かめてみたが、弾もそのまま。他にも無くしたらしい所持品は無い。これらを見るに、もし拉致されたという仮定で考えるなら、犯人側の意図が不明だ。一般人ならばともかく、警察官から銃を奪わないで拉致するなんて正気の沙汰とは思えないし、なにせ拘束する意思がまるきり感じられない。どうぞ自由にしてくださいとでも言っているようだと思える」
同感である。
言っている一言一句、反論は無い。
まったくの正論。
それだけに、疑問も大きい。
ならば何故、自分たちは拉致されたなどと判断するのか?
「状況だけで考えれば、確かに拉致の線は薄いだろう。が、ある程度、私にはこれが拉致だと確信するに足る理由があるんだ」
そう言い、彩香は上着を戻すと、ボタンを留めながら言葉を続けた。
「急に変な話をするが、桂一君は【eNDLeSS・BaBeL】というゲームを知っているかい?」
「………!」
まさに突然。
だけに、少しではあるが、桂一にも一抹の思い当たる点が浮かぶ。
【eNDLeSS・BaBeL】。
関わっていたといえば、関わっていた。
毎日、根掘り葉掘りとネットで情報を検索し、いくつもの掲示板に張り付き、書き込みに目を通していた。
情報の拡散もしていた。
だが、まさか……。
「その様子からして、心当たりがあるらしいな」
「や……心当たりっていうか……単に、【eNDLeSS・BaBeL】について色々と調べていたというぐらいで……他には特に……」
「いや、それだけで充分だよ」
「?」
「私は警視庁のサイバー犯罪対策課・コンピューター犯罪捜査官をしているんだが、そこで扱っていた案件が今、話している【eNDLeSS・BaBeL】に関する事柄だったんだ」
「【eNDLeSS・BaBeL】を……?」
「正確に言えば、【eNDLeSS・BaBeL】を開発・運営している【NeT TRuDe】への内偵作業だ。あそこは業務実績が不明確な上、相次ぐ(不慮の事故)とやらで昏睡状態になる利用者がここへ来て劇的に増えてる。それで捜査を急いでいた矢先さ。知らぬ間に知らない場所……ここへ連れ込まていた」
口調も態度も冷静さを崩さず彩香は説明を続けるが、焦りや苛立ちといった感情を完全には抑えられないらしく、しきりに左手の甲で床を小突いている。
「で、これは自分でも早計だとは思うが、もしかして拉致された基準というのは私と君の共通点である『【eNDLeSS・BaBeL】の真相に迫ろうとしていた人間』なんじゃないかと考えてみたり……」
と、言い止して彩香はやにわに屈んだ姿勢のまま素早く右横……桂一から見て左横を向いたと思うと、すでにその時点で彼女の手はホルスターから銃を抜き、寸分の隙も無い射撃姿勢を取っていた。
同時、
「そこの柱に隠れてるやつ、両手を開いて良く見えるように高く上げ、背を向けた姿勢で出てこい! ゆっくりとだ!!」
これまでの口調からは想像もつかない鬼気迫る形相で彩香は怒鳴るように命令する。
自分たちから10数メートル離れた柱に向かって。
当然というべきか桂一はこれに対し、なおさら頭を混乱させるよりほか、何をすることもできなかった。