WiLL NoW ReBooT/[PRoGReSS RaTe]: 54%
椅子に座り、部屋を見渡す。
いや、正確には見渡していた。今、自分がいる部屋を。
急に何の自覚も無く見知らぬ場所へ居るという現象への既視感とともに、ちょうど部屋の中央辺りへ置かれた椅子に座り、見渡していた。
見えたのは、40平米ほどの広い部屋。
広さは充分にある。が、何故かひどく息苦しい圧迫感を覚える。
しばらくして、その理由が少しずつ分かってくる。
天井が微妙に低い。目算でもおよそ2メートルちょうどといったところか。
長身の人間ならさらに感じる不快は増すだろうし、単純に身動き自体へ不便をきたすことは想像に難くない。
加えて、なお居心地の悪さを強める要因は閉塞感。
四方の壁にはもちろん、床や天井にも窓ひとつ無い。
それどころか、出入りをおこなうためのドアすらも。
あるのはただ、どこまでも均一な灰白色のコンクリート。それで出来た壁、床、天井。
鼻をわずかに埃のような粉っぽさと真新しいコンクリートの匂いがくすぐり、乾いた空気は少し油断すると喉を張り付かせてくる。
といって、決してそれは緊張による喉の渇きが起こしているわけではない。あくまで乾燥した室内の空気だけがその原因。
無論尋常ならば、こんな状況にあって緊張を感じないのはおかしげではある。
むしろ、緊張を感じないほうが異常と言える。
くまなく目を配っても、どこにもドアや窓、継ぎ目の類さえ無い。
唯一、天井の四隅に埋め込まれたLED灯だけが、ひと繋ぎのように変化の無い室内で光源として、同時にアクセントとして機能していたが、それとてそれぞれ大きくても十数センチの占有率。この部屋を出ることにも、入ることにも何ら関連性を見出せない。
つまりは、密室などというレベルを超えた密閉空間。
通気すら皆無と思えるほどの、完全に鎖された空間。
そんなところへ、ごく普通の人間が突然、訳も分からず自身の居ることを認識したならどうなるだろう。
およそ落ち着いているのは不可能だ。軽度の混乱、狼狽で済むかどうかも難しい。
が、実際のところ彼はそれで済んだ。知らぬ間、そんな場所へ居る自分を知った桂一は。
理由としては(慣れ)。それが最も大きな要因と言えよう。
すでにここまで幾多と味わってきた非現実的体験を踏まえれば、もしくはそれも当然かもしれない。
もはや現実と仮想、その境界線の曖昧さには、ある意味ありがたいことに桂一自身の意識がほとんど麻痺とも近い状態へまで至っていたのだから。
もちろん、それが単純に良いか悪いかなど結論付けられない。
単に感覚が鈍磨してきているというのなら、予期せぬ危機に直面した際、対応が遅れる危険性があるともいえるし、そうだとすればむしろ自分自身という存在そのものが磨り減ってきているのではないかと、不意に思うことで自らの思考に自らの心が毒されてゆく危うさも孕んでいる。
とはいえ、これ自体は何といって不思議なことではない。むしろこれもまた正常といえる。
だからこそ感覚的に……このような状況にあっては、最も信頼できないはずのものだが……感覚的に知れた。
これは夢だと。
浅く、質の悪い眠りへつくと大抵、無駄に鮮明かつ不可解で不愉快な思いをさせられる、そういったよくある悪夢の類だと。
こんな場所、状況、環境で、安穏と深い眠りにつけるとしたら、そんな神経の持ち主こそよほど異常だ。
それでも、初日の1、2時間置きに意識が覚醒してしまう眠りに比べれば、比較対象が悪すぎる点を差し引いてもまだマシなものではあったかもしれない。
具体的な期日までは決められていないものの、出来るだけ早く生存猶予期間2000時間超というノルマを達成するよう、【NiGHT JoKeR】に急かしつけられ、四者会談から数えて三日が経過した時点で、
まず静岡の伊東市サーバ、次いで下田市サーバ。
あくる日には、神奈川の横浜市サーバと川崎市サーバ。
さらに今日は東京の羽村市サーバ。続けて千葉の船橋市サーバ。
計6サーバへ赴き、そのすべての場所において、
虐殺をおこなった。
無論、直接に桂一が手を下したわけでなく、【BuBBLe GuM】と【SoDa PoP】、そして【NiGHT JoKeR】らが実行し、自分はただそれを遠目に見ていただけ。
だからといって、実際そのようにせよとの最終命令を下した桂一自身が、罪の意識から逃れられるわけも無い。
彼とて、そこまで都合良く己を正当化できるほど器用でもなかったし、そこまで都合の良い思考回路も持ち合わせてはいなかった。
また、そういった表面上の責任転嫁をおこなうことにより、もし自分が多少なりとも罪の意識から逃れられたとしても、そんな軽薄な行為が、まさに犠牲となった人々の存在に対する最大の侮辱とも思え、元からする気も無かったことを含め、強いて桂一はそういった思考を自分の中から排斥していた。
どういった理由にせよ、どういった形にせよ、おこなったことの事実と責任から目を逸らさぬようにと。
直接的かや間接的かなど関係無く、自らが奪った多くの尊厳を、ひとつたりとも残さず背負い込もうと。
だがそれは単に桂一をより強く精神面で逼迫させただけで、何の解決にもならない行為であったのは言うまでもない。
それどころか刹那的に自分を納得させるという、ひどく矮小な自己満足のために自身の倫理観と道徳観の間へ挟まれた良心は、瓦解寸前まで追い込まれた。
そのような状態の人間が、良好な夢など見れようはずは無い。当然の結果としての悪夢だ。
極めて道筋の整った経過によって訪れた悪夢の世界だ。
思ってつい、苦々しげな顔へ自嘲の笑みが混ざる。
何もかもが不確かな世界の中で、それでもどこかで刻まれた内心の価値観に抗えず動く、実利とは程遠い己の非効率さに。
そして同時、そうは思いながらも非効率的などという、感情や倫理とは相反した論理へも重きを置こうとする馬鹿げた自己矛盾に。
しかし。
「……こりゃまた……面白い反応をするなあ。この状況で笑うかい? 別に狂ったという様子でもないのに、笑う……笑うか。まったく、今までも散々と観察してきたってのに、それでも未だ人間心理の不可思議さには毎度、驚かされるよ。もちろん、甚だ良い意味でね」
心理と感情は一瞬で書き換わった。
唐突に背後から響いてきた声によって。
瞬刻、桂一は無意識で椅子から立ち上がり振り返る。ほぼ条件反射のような反応と素早さで。
と、すぐさま視界に入ってきたのは。
見覚えの無い男の姿。
ライトグレーをしたスーツの中にオリーブのシャツを着、ノータイのラフな服装。
軽く波を打ったダークブラウンの髪を短めに刈り、耳元へ触れて垂れている。
太い眉の割りにベビーフェイスのためか、強面といった印象には程遠い。
柔らかな見た目を強めるバレルタイプフレームの眼鏡が一層、そうした所感を強調する。
歳のころなら三十台中盤か。いずれにせよ少しばかりスマートな体格もあり、あまり外見から正確な実年齢は特定できそうも無い。
見ると、ジャケットの脇ポケットから無造作に何やら取り出しては口に放り込み、閉じた顎を上下させて咀嚼しつつ、眉間へしわを寄せながら震えるように歓喜の表情を浮かべ、それを嚥下しながらまた口を開いた。
微かに漂ってきた甘い……香りだけで甘味を感じさせるほどの香気に我知らず、胃は音を鳴らし、鼻腔内へ匂いが張り付き、口中には溢れるような唾液の満たされた桂一へと向かって。
「んん……にしても美味い……ほんと、今までも何度となく試してきたが、相変わらず最高の体験だよこれは。砂を固めたみたいなレーションと水。ただ生きるためだけの食事……や、食事ですらない。餌だ。生きるのに必要だから摂るだけの餌。そんなものしかない限定された世界を抜け、持たない、得られない、存在しないっていう絶対的な飢餓感の中を潜り抜けて研ぎ澄まされた感覚ときたら、こんな単なるジェリービーンズをすら最上の美味に変えちまう。たかだか安物の駄菓子が、麻薬のような愉悦を与えてくれる……味覚に限りゃせず視覚、臭覚、触覚……すべての感覚が歓喜の叫声を上げる。そこにはもはや天然物であるとか合成物であるなんて下らない区別は無い。【iMiTaTioN(贋物)】と【GeNuiNe(本物)】の間にある無意味な壁は脆く、儚く崩れてく。問うべきはそう、希求力……欲する力……欲求、欲望、切望、渇望……どれだけ何かを強く得たいと思えるか、何もかもがそれに帰結する。それこそが人間の存在意義であり、証明でもあるってことにね。ま、この持論もまたあくまで僕がそうだと考えているだけであって、みんなはみんなでそれぞれ少しずつ違う考えを持ってるから、そこはそれとして尊重はするけど……」
そう語り、男は真っ直ぐに桂一を見る。
何を考えているやら、何を言いたいのやら、何も分からぬ不気味さを感じさせ、何よりも、
男は突然、この密室に現れたのだ。
桂一自身以外には誰も居るはずの無い部屋の中へ。
新たに入ってこられる場所など無いはずの室内へ。
考え、驚きと警戒に書き換えられた情動を隠す余裕も無く、慌てて男のほうへ振り返ったものの、桂一は瞬時に思考と疑問を声にして発することはできなかった。
始めてこの世界を訪れた時と同じ。始めて【eNDLeSS・BaBeL】を訪れたその時と同じく。
加えて甘い香気へ嫌でも刺激され、過剰反応を起こす味覚と臭覚によって乱された理性。
問いたいこと、聞きたいこと、知りたいことがあまりにも多く、頭の中で優先順位が定まらず、しばし口の中で分泌され続ける唾液を何度も嚥下しつつ、呆然と男を眺める。
ところが。
「うん、やっぱり記憶領域の削除についちゃあ、もはや安定感があるね。プロセスがシンプルな分、手順さえ間違えなければミスは起きない……技術としては確立したと考えていいようだ。けど、特定方向への思考ブロックはまだまだ難しいか。まさか長内さん、ブロックしたはずの『ゲーム参加以外の方法による脱出への試み』って思考プロセスを自力で復活させちまうなんて……いや、決して悪いことじゃない。それだけ、僕たちの期待していた以上に人間ていうのは奥が深いってことだし、研究者としてはこういうイレギュラーは喜ぶべきなんだろうな。少なくとも、安易に解決できる問題なんて、僕らみたいな人種にとってはただ退屈なだけだからね」
ひとり、男は勝手に納得した様子で桂一をしげしげと観察しながら滑らかに良く動く口をさらに躍らせ、
「とはいえ、僕自身も記憶領域を削除するっていう体験は経たわけだが……駄目だね。ただいくつかの記憶を欠落させただけで、これほど自分が脆くなるとは思わなかった。不安、焦燥、憂慮……そしてそこから導き出される……ああ、まったく駄目だ。情けないほど脆い。記憶や経験といった後ろ盾が無くなるだけで、どこまでも脆くなる。恐らく、大道さんに知られたら『研究者としては無意味に人間的すぎる』とか、厭味のひとつも言われるのが目に見えるようだよ……」
もはや独白にしか聞こえぬ意味不明な台詞を男は連ね、
「と、個人的な愚痴はここまで。この先、大切なのは君の処遇だ。せっかく半ば部外者感覚に近い新鮮な視点でゲームを楽しんでいたところを悪いとは思うんだけど、僕の予測が正しければ、そろそろこのゲームも(詰め)の段階だ。すなわち僕らの研究も、ね。だから君にはもうこれ以上、不完全なままでいられちゃあ困る。贋物と本物の境界線を否定した舌の根も乾かないうちにこんなことを言ったら矛盾にしか聞こえないだろうけど、矛盾を孕まない真理は存在しない。これも僕の持論さ。てわけで」
ようやく、話していることの意味はまるで理解できないまでも、明確に桂一へ対してその意識と言葉を向けてきたと思った次の瞬間、
『定時メンテナンスの時間です。これより30秒後、すべてのゲームデータを解析し、修復作業を開始します。作業中はサーバ内のバックアップ領域が開放されるため、メンテナンス中もプレイに支障は起こりません。プレイタイムを残されているお客様は安心して引き続き、【eNDLeSS・BaBeL】をお楽しみください』
男が言葉を切ったタイミングに合わせたように、無機質な室内へアナウンスが響く。
すると同時に、自分を置き去りどんどんと進み行く事態へ、ついに恐慌をきたして辺りそこらじゅうへ桂一は視線を巡らせる。
すでに思考は停止した中、狼狽した精神が感情だけで暴れ狂うまま身を任せて。
刹那。
「お目覚めの時間だ【NiL SPaDiLLe(存在しない切り札)】。過去の夢を見ながら、ゆっくり目を覚ますといい。何もかも思い出し、理解し、呑み込み、十全になってまた戻ってきてくれ。偽りの記憶も、偽りの名も、偽りのアカウントも、何もかも捨てて、一緒に見つけにいくとしよう。そう、僕らの求める真実……大仰な言い方をするなら、真理にも等しい『本当の真実』ってやつを……」
継がれた語りの終わりを待たず、桂一の意識は既視感に支配された。
薄れゆく意識。感覚。
黒く塗り潰されるのではなく、白く靄のように消えてゆく自我と思考。
それが虚無へと続く道程であるのか、それは今でも分からない。知る術も無い。
さりながら。
眠りにも似て、それでいてまるで違う胡乱の淵へ溶けてゆく自身を、消失していく自身に対する恐怖すら霧散してゆく虚無の狭間。
辛うじて純白と化すその須臾。
『……aNaLYSiS CoMPLeTe.STaRT ReSToRiNG(解析完了。復元開始)……』
最小単位まで分解され、意識とすら呼べぬほど希薄となった何かが捉えた限り無く幻聴に近いメッセージへ送られ、桂一は再び、
非存の深淵に、消えた。




