DaTa FiLe [RooT 18]
「……何をしてらっしゃいますの? 中尉」
有意義と呼べるものだったかどうか、有益であったかどうか、どうにも疑問符を付けざるを得ない微妙な会談を終え、【MoNiToR RooM】から【BeD RooM】へと戻ってきた英也は、そう問うてくる【DaWN QueeN】を、まるで故意に無視するかのように後ろへ置き去り、室内に少しく深く歩みこむや、透き通る壁の一面へ広がる奇怪な空の景色と、その中心へそびえる一本の、頂上も根元もまるで伺う見ることのできない、あまりにも馬鹿げて有り得ない超高層の塔を改めてしばし眺めた。
右へと、左へと、上へと、下へと。
眼球と首とを、そちこちへ動かし、目の前にあるものの存在から、小さな傷程度の破綻は無いかを探って。
非存を、仮想を、幻覚を示す微かな綻びが有りはしないかと。
が、そんなものが今更になって見つかるほど、現状は易しくない。
そう改めて認識し、ふと視線を落としたのとほぼ同時であった。
今度はやおら、英也は自らの左手を口元まで運んだかと思うや、おもむろに鈍く光るその手のひらへ、舌を這わせ始める。
丹念に、浮き出た生存猶予期間を舐め取るようにして。
当然というべきか、これには【DaWN QueeN】ですら重ねてかける言葉が分からなくなり、思わず声を失った。
よもや考えられない……いや、実際は考えたくも無かったことだが、まさか壊れてしまったのだろうかと。
上辺ではそこまで混乱した様子は感じ取れなかったが、実は想像していたよりも内面の崩壊は進んでいたのだろうかと。
英也へ向けたまま固定され、動かせなくなった視覚の映像とともに、そんな思考が流れ出るように頭の中へ溢れてくる。
途端、背筋へ寒いものが走るのを感じ、【DaWN QueeN】の顔から血の気が引いていった。
適切な答えを求めつつも、実際には散文のように取り留め無く沸き出で、一向、答えを導き出そうとしない己の無軌道な思考の数々で紛糾する意識の不快を強めながら。
しかし。
「……やはり、はっきり分かる違いは無いか……」
そう呟き漏らし、背後を振り返った英也の瞳を目にして、そして継がれた自分への言葉に、彼女はそれらの予測が完全な杞憂であったとすぐさま理解することになる。
「失礼、ご婦人。ちょっと確かめておきたかったことがありまして……お見苦しい真似を見せてしまい、申し訳ありません」
その表情にも、その声音にも、まるで気が触れたような様子は無かった。
己を見つめてくる双眸の澄んだ光と同様、発せられる一言ずつに明確で論理的な響きが宿っていた。
この落差には【DaWN QueeN】も思わず狼狽で詰まり、逃げ場を失っていた息を勢いよく喉から逃がしたのは致し方なかったろう。
それでも、即座に英也へ再び問い直してみせたのは、やはりさすがというべきか。
ただし。
それで彼女の不安が一掃されたわけではない。
むしろ、ここからが本番であったとすぐに気づかされることになる。
「中尉……一体、何を……?」
「ご覧の通り、確認です。味の」
「……味?」
「ええ。ご存知かもしれませんが、人間の分泌する汗というのは、その発汗時の体調や精神状態などで、そこに含まれる成分がだいぶ異なるんです。なので当然、味も変わります。そして今、確かめてみたらやはり高ストレス下で分泌される汗に特有の辣味を感じました。とはいえ別段、この行為自体に大した意味はありません。それでここが現実か否かを断定できるわけでもないことぐらい理解していますから。もし、これすらも……この汗の味すらも、ただ再現された仮想感覚の産物だとしたら、汗の味見で証明できるものなんて、何ひとつありませんからね。しかし、少なくとも私に決断をさせる程度の後押しにはなりましたよ」
答え、英也は自分の言わんとしていることを【DaWN QueeN】が察したろうかと、あえてしばらく間を空けたが、変わらず少しく困惑した顔で己を見つめ返してくる彼女の様子を見るや、何かを納得したようにひとつ、うなずくと継いで、
「ある仮定に沿っておこなう……いわゆる(見立て行動)というやつです。急で申し訳ありませんが、小官はこれからここを(現実世界だと仮定)したうえで動こうと思います。もちろん、脱出を目的として」
明確な意思を表し、語る。
落ち着いた口調と落ち着いた態度。うっすらと微笑み、目を逸らすことなく、しっかりと【DaWN QueeN】の瞳を見つめ返して話し続ける様子から、彼は狂気になど染まっておらず、至って正気であり、そのうえでこんなことを口にしているのだということが、彼女に推察の労をかけさせることなく、瞭然と伝わってきた。
「実を言えば、ここへ連れてこられた当初からもう予定していたことだったんです。ただ、急かしつけられるような状況に、少なからず飲まれてしまって先送りにしていただけで。幸いなことに、どうやらこのゲームから物理的に脱出しようと試みる行為へ対し、特に禁じるようなルールは無いようですし、となれば脱出を図ることそれ自体で何らかペナルティを受けるわけではない。ならばとりあえず、やれるだけのことはやってみようかと、そう考え至ったという次第です」
だが。
「まあ、少々の本音を晒せば、どうせゲームとして正攻法で攻略しようという行動に関しては麻宮君や睦月君のほうが得手でしょうし、小官も自分の得意なやり方で動くほうが気楽だと思っているのは確かです。それに、事実として選択は多様化すれば多様化した分、全体としての脱出成功の確率は統計学的に上がるはずですから、もし小官が失敗したとしても、まんざら無駄になるわけでは……」
「いけませんっっ!!」
英也の言葉を遮り断つよう、【DaWN QueeN】は叫声を上げた。
後に続く言葉など無い、ひと言。
伝えようとしたすべてであり、唯一の言葉。
蒼ざめながらも、上気して紅潮した顔を歪ませ。
まとまらぬ思考に動揺し、分散した精神をただ一点だけ集中させ。
単純な喜怒哀楽では表しきれない、絶対的な拒絶と否定を爆発させて。
あまりに感情が勝ちすぎ、加減無しで張り上げた声のせいで乱れた呼吸を整えようともせず、荒い息遣いのままに英也を、果たしてどう表現してよいのか分からないまでに悲壮と不安の入り混じった視線で見つめて。
ところがこの【DaWN QueeN】の突然すぎる狼狽ぶりに、英也は微塵も動じず、見つめあった目を逸らすことなく、露の間を空けて静かに、ゆっくりと深呼吸をひとつするや、
「……ご婦人、申し訳ないですがそのご意見、聞き入れるのは現状、まず不可能です。小官……そして恐らく、麻宮君や睦月君も目標としているのは、この世界……ゲーム……【eNDLeSS・BaBeL】からの脱出なんです。けれど全員が全員、ただゲームにかまけているわけにはいかないんですよ。何故なら、何度となく聞かされはしましたが、一向に見えてこない。分からないんです。思えばゲーム参加の時点で、すでにちょっとした疑問があった。小官たちが参加する以前の段階で残っていたのは【DuSK KiNG】だけだった。なのに、なら、それなら……」
優しけな口調とは裏腹、厳然とした雰囲気を漂わせ、
「一体、このゲームのクリア条件とは何ですか? 一体、何をどうしたら小官たちはゲームをクリアしたと、そう判断されるんですか?」
突きつけるように問うてそのまま、英也は口を閉じた。
寸刻、その場を支配した鉛の如く重い空気と、墨のように暗い沈黙とを、とうに覚悟を決めていたのか、微動だにせず直立した身を保ち、そのすべてを受け入れながら。




