TeMPoRaRiLY SToReD [6th SYSTeM SLeeP]
「俗に『カルネアデスの板』、もしくは『カルネアデスの船板』と呼ばれる考えはその名のとおり、ギリシャのカルネアデスって哲学者のものさ。紀元前2世紀に起きたある事件を発端に、今でも思考実験や題材として取り上げられる、割とポピュラーな話だね」
ベッドの端に腰掛け、自分の膝に両手で頬杖をついた洋介は、直立不動で目の前へ立ち、静かに俯瞰してくる【DuSK KiNG】の顔を見上げてやおら、そんな話を始めた。
急に何の話をし出すのかとわずかに怪訝な感情を瞳から伝えてくる彼の反応をまるで無視して。
「ある時、一隻の船が難破して乗員はすべて海に投げ出された。と、そのうちひとりの男が浮いている壊れた船の板切れにしがみついた。藁にもすがる、ならぬ、板にもすがるってとこさ」
「洋介……一体、君は何を言いたいんだ?」
「まあ聞きなって。で、どうにか助かるかもって思ったら、同じく海へ投げ出されたもうひとりの男が、一緒の板切れへすがってきた。するとこの板切れ、人ひとりならなんとかなるが、ふたりとなると浮かせていられるほどの浮力は無かったんだ。ひとりなら大丈夫だったものが、ふたりでは掴まった板切れごと沈んじまう。どうにか助かるかもと思った矢先の男からしたら冗談じゃないって気分だったろうね。天国から地獄……か、それより泣きっ面に蜂のほうが表現としてふさわしいかな? ともかく、そこで男は極めて純粋かつ絶対的真理に基づき、速やかに行動へ出た。何ひとつ不思議じゃあない、至って普通の行動。そう……」
須臾。
洋介はそこまで言うと、なんとも薄気味の悪い間を空けて口角をより高く上げ、楽しげな笑みも満面に言葉を継ぐ。
「自分が助かるため、後から掴まってきた男を突き飛ばし、溺れ死なせたんだよ」
内容とは不釣合いのひどく愉快そうな調子で。
「その後、男は救助されたものの、司法によって殺人罪に問われた。が、もう想像はつくと思うけど有罪とはならなかった。自分が助かるためには相手を殺さざるを得なかったんだから仕方ないって理屈。それが『カルネアデスの板』。というわけで、現代風に、または無味乾燥な言い方をすれば緊急避難だったってこと。俺からすれば馬鹿みたいに当たり前の話なんだが、困ったことに……いや、別に俺は困らないけど……大抵の人間は、この話を理屈では理解できても、不思議と素直に飲み込めないやつが多い。くだらない倫理観や道徳観とかのせいでね」
「……なあ、いい加減で遠回しな話は止めて、何を言いたいのかはっきり……」
意図の掴めない洋介の話に痺れを切らし、さも面倒といった顔で【DuSK KiNG】は問う。
これ以上、よく分からない話を続けられないようにと。
すると。
この言動も反応も見越していたとばかり、洋介はこれまでの話を即座に切り上げてひと言。
「だから前にも言ったろ? 俺と違って、やつらは命に対して不誠実だって」
そして、その言葉に【DuSK KiNG】が当惑する間も与えず、洋介はそのまま続けた。
「今現在、やつらが最もやりくりに苦慮する、または現時点ですでに苦慮しているものは何だと思う? 考えるまでも無く分かりきったことだが、生存猶予期間さ。現状、【BiND oVeR】のせいで俺と戦えない以上、やつらが生存猶予期間を得る方法はふたつ。ひとつは俺以外の誰かが【NeuTRaL FLooR】を占領して所有階層を得たところを攻めて奪う方法。といっても、方法としてあるってだけで、出来るかどうかに関して言えばいろんな意味で不可能だろうね。いまさら、というかこのタイミングで所有階層を得てもデメリットだけでメリットは無いし、それにさっきまで仲良しごっこをしてた相手の階層だ。舌の根も乾かないうちに頭を切り替えてそこを攻められるような気概が、連中にあるとも思えない。となると、残るひとつの手段しか自然、選ばないし選べない」
「占領に行くのではなく、徴兵命令を実行して【NeuTRaL FLooR】へ赴き、そこで……」
「分かってるね。そういうことさ」
言い終わるのも待たず、洋介は【DuSK KiNG】へ大きく相槌を打つ。
皆まで言わずとも分かる、とばかりに。
「連中は今、自分と、自分の抱えている手駒の兵たちへ生存猶予期間を補充するために、俺が【BiND oVeR】を解くか、時間切れにでもならない限り、【NeuTRaL FLooR】で大規模な虐殺でも続けなくちゃあ、自分や手駒たちの命を維持できなくなってる。恐らく、溢れ返るような罪悪感と虚無感に襲われながらそれを続けることになるんだろうね。ま、俺はそんなもの微塵も感じないから、もしそんな状況になろうとまるで平気だけど、やつらみたいに命ってものの本当の価値が分かっていない馬鹿ならまずそっちの道を選択し、間違いなく自らの偏った論理で、自らを少しずつ削るようにして身を滅ぼすよ。前にも話した、とんでもなく馬鹿げた勘違いをやつらがしてるならまず確実に、だ」
「……それすなわち、常に最優先すべきは自分の命であり、その他の命はどこまで行っても次点でしかないという考えへ至れないゆえ……か?」
「まさしく、その通り」
【DuSK KiNG】の要約を聞いて満足したのか、洋介は声音に歓喜さえ滲ませて答えた。
さらにその後の言葉を継ぐため、ベッドから身を起こし、すいと立ち上がりながら。
「畢竟、命の価値っていうのは自分自身の命の価値にすべてが集約される。生き物に生存本能があるのは何故だ? 自分の命の価値を、何か根源的なレベルで理解しているからじゃあないのか? だとしたら、あらゆる形で存在する命の中で、最も価値あるものは自分自身の命に決まってる。他人を助ける? 守る? それは自分が幸福であるために必要だからすることであって、自分や他人の命の価値そのものとは一切関係無い。他人を助けたり、守ったりすること自体を、俺は別に否定はしないさ。そういう意味ではね。けど間違えちゃいけないのは、他人を助けたり守ったりすることは先に言ったように、自分が幸福であるための手段でしかない。目的じゃあないんだ。なのに連中はそれを分かってない。気づいてない。もしくは思い込もうとしてるのか……いずれにせよ、そんなだから下手をすればやつら、自分の命を懸けてまで自分以外の命を助けようとか守ろうとか、そんな狂った思考にすら達しかねない。自己犠牲の精神なんてもんじゃあない、完全な狂気の思考に、ああいう連中は到達しかねない。世間……一般社会では聖人とでも言われそうだが、俺から言わせればそんなやつは単なる狂人だよ。安い例えをするなら、有り金すべてをはたいて財布を買うようなもんだな。とはいえ、そのおかげで俺はただ、【BiND oVeR】を更新し続け、やつらが勝手に自滅していくのを待ってればいい。楽なもんさ。馬鹿を相手に戦うってのは。むしろこうして悪し様に言うより、本当は感謝すべきなんじゃあないのかと思えるくらいにね」
「……ふむ」
洋介の言い分にそれなりの納得をしたしたようで、【DuSK KiNG】は肯定の返事やうなずきの代わり、声と共に息を漏らす。
言わんとしている意味は分かる。
洋介の言わんとしていることの意味は。
こと、平和な社会生活を送っているのなら多少、事情も変わってくるかもしれないが、少なくともこのような状況……ゲームという名の殺し合いをさせられるような状況にあっては、建前の理屈が必ずしも正しいわけではない。
戦争を悪だと声高に断ぜるのは、大前提として平和な環境に自分がいることが必要になる。
もし、実際の戦時下でもそれを言い続けられる人間がいるとすれば、もはやその人間は逆に狂っているとしかいえない。
洋介が話していたように。
所詮、綺麗ごとを並べ立てられるのは平時の話だ。
そこをいざ、今のような非常事態に巻き込まれた際、速やかに切り替えられるか切り替えられないかが生死を分ける場面も少なくない。
どんな理論・理屈も、状況や環境が変わればそれに合わせて当否の基準も変わる。
そういった変化に順応できなければ自然淘汰されてゆく。
それは人間が生み出す脆弱な言葉の羅列とは違う、絶対的な摂理。
ある意味、洋介は誰よりもこうした残酷な事実・現実を無視することなく、理解し、受け止めているのだろう。
それゆえ、いつ何時でも冷静さを失うことが無い。
この少年の【eNDLeSS・BaBeL】における圧倒的なまでの強さのほとんどは、思うにそうした辺りを軸として成り立っている。
考え、【DuSK KiNG】はベッド脇へ立った自分の同盟者を見つめ、改めて確信にも似た心強さを感じ取っていた。
が。
「ただし」
そうまで思っていてすら、実際の洋介の周到さ、用心深さはさらにその先、その上へと向いていた。
「【NiGHT JoKeR】と、【NiGHT JoKeR】んとこのプレイヤーがいる限りは話が別だ。こいつらさえいなけりゃ言ったとおり、俺は【BiND oVeR】の徹底更新だけで勝負がつく自信があったけど、この不安要素がある以上、さすがに俺ものんびり高みの見物ってわけにもいかないだろうな。何せ、自分が生き延びるためなら机上の理屈や確率をまるきり無視して動いてくる。偶然やら運やらってのは予測が出来ない分、おっかないからね。そういう、まさか、とか、もしかして、っていうのを起こしかねないのが相手となると、やっぱり手抜きはありえない……って、わけで……」
崩れぬ微笑の中に一抹、言葉にした内容からくるものと察せる懸念の類を混じらせ、身長差のせいで見上げるような格好になった【DuSK KiNG】と視線を合わせつつ、だのになお、
「ま、ほんとは元からするつもりもなかったんだけど、俺は今回もいつもどおり油断も手抜きもしない。全力で相手は潰す。初戦の時だってあっちは出し惜しみ無しの大盤振る舞いで挑んできてくれたんだ。こっちも同じく、手の内すべて出し尽くすぐらいのつもりでぶつからなきゃあ……」
やはり微小な揺らぎ以上のものは見せることなく、洋介は再び静かな語り口の中へ、遊びにでも興じる子供の如き興奮と、形容するに難しい心嬉しさのようなものとを乗せて述べるや、終わりに。
「戦う相手に対して失礼……だよ、な?」
質して話を結ぶという奇妙な言動をとると、落ち着いた表情に明らかな底意を匂わせるよう、微細な傷を思わせる歪みをそこに加え、
意味ありげにその笑みを、強めた。




