TeMPoRaRiLY SToReD [3rd SYSTeM SLeeP]
広大な病室を思わせる奇妙な部屋の中。
そこで先刻、【NooN JaCK】から手の中にちょうど収まるほどのカプセル型の何かを渡され、それについての説明を受けた彩香は完全に絶句していた。
確かに、受けた説明の通りなら今までのことも、今現在のこともすべてのつじつまが合う。
そう、つじつまは合う。のだが、
そのあまりに常軌を逸した内容に、さしもの彩香も声を失わざるを得なかったのである。
しかし、【NooN JaCK】のほうはそんな彩香の様子を分かったうえでさらに話を続けた。
「簡単に整理いたしますと、この世界……一般に知られる仮の【eNDLeSS・BaBeL】とは異なる、この【eNDLeSS・BaBeL】の世界においては、存在する者を四種類に大別できます。先ほどお渡ししたカプセル……正確には補助知覚装置、もしくはより専門的に(DiGiTaL NeuRo NeTWoRK DeViCe)という名の頭文字を取って、【D.N.N.D】などとも呼びますが……ともかく、これをこめかみから脳へ埋め込まれたことによって、実際はあるはずのないものが見えたり聞こえたりといった影響を自覚している者。次にそうした事実を知らずにいる者。加えて、単なるデータでしかない、同じデータ同士か、または【D.N.N.D】を埋め込まれた人間にしか知覚できない者にも、自覚している者と自覚していない者とがおります。とはいえ、お話した内容から察せられると思いますが、この四者は自覚している者ですら、持ち得ている自覚そのものが疑わしいのです。自分自身が人間か、それともデータなのかを判断する方法はありませんし、逆もまた然り。相手が人間か、データなのかを判別する方法もありません。知覚しているもの、感じている情報自体の何もかもが、【D.N.N.D】という存在がある以上、常に不確実、不確定であるため、何ひとつとして特定できないということだけが、わたくしたちにとって唯一真実だとしか申せません」
この時点で、彩香の精神は正気と狂気の境界を極めて危険な範囲で揺らいでいた。
知らぬ間、自分の頭におかしな機械を埋め込まれたかもしれない。
これだけでも充分な負荷。
であるのに、実際はそれどころか。
自身が人間であるのか、人間ではないのか。
それすらも確証を得る方途が無い。
自分は本当に自分なのか、はたまた単にそう思い込んでいるだけのデータでしかないのか。
先に【NooN JaCK】が話した通り、(確かなことが何も無い)ということしか自分たちには立証不可能なのである。
今、感じている漠然とした不安による動悸も、はやる呼吸も、額に浮かぶ汗も、どれもこれもただの幻想かもしれない。
そう思うと、彩香はめまいのような曖昧さの中で、自分の思考と意識が混濁してゆくのを感じた。
気がふれる過程というのは、もしかするとこういうものなのだろうかとおぼろげに思いながら。
ともすれば。
いや、まず間違い無く、そのままでいたなら彩香の精神は狂気の側へ落ちていただろう。
そうなって当然の状況であったし、当然の話しでもあったのだから。
だが。
「……しかし、まいったなあ……」
突然、背後から声を上げた男のおかげで、結果的に彩香はかろうじて正気を確保することとなる。
反射的に振り返り、目にした男……偶然の巡り合わせから、危うい戦況を一気に好転させた功労者……博和によって。
「食事にお招きいただいておいてこういうのは失礼だって分かってるんだけど……食い物がこの妙な板切れだけってのはさすがにきついよ。せめて何かつけるものは無いのかい? ジャムとかマーガリンとか……この際、ぜいたくは言わないから調味料だけでも……」
何やら悲しんでいるような、困っているような、なんとも情けない表情でアルミパックの固形物を見つめ、名前こそ呼んではいないが【NooN JaCK】へ空しいリクエストをしている。
「ヒロカズ、戦時下にあって食糧に文句をつけるのは感心しませんね。餓死しないで済むだけでも……いえ、仮に君が人間でないとしたら、それすら有り得ませんが……いずれにせよ、食事に関する要望は却下します。大体、君はこの大事な時にわたくしの話をきちんと聞いていたのですか?」
「もちろん、ちゃんと聞いてたさ。でもそんなものは食事を楽しみとしておこなえないことに比べたら大したことじゃないだろう?」
この博和の発言に、思わず彩香は無意識に彼へ向けた目を厳しくした。
どうでもいい?
こんな自分も他人も、何者なのか正体の分からない状況が?
八割の驚きと、怒りと苛立ちを一割ずつ足した感情を映した双眸で自然、射るように睨みつける。
と。
寸刻の間も置かず、博和は視線の向きを変えるや、彩香の睨みを己が瞳で真っ直ぐに受け、
「その通り。すごくどうでもいい。人間なのかデータなのか? そんなもの気にしてどうするんだい? 死後の世界が有るのか無いのかを議論するのと同じくらい無駄なことだよ。検証不可能な命題に思考や労力を費やすのは完全な徒労さ」
やおら落ち着いた口調で語り出した。
「そのやたらおっかない様子を見るに、君は……えーと……」
「睦月。睦月彩香……」
「すまない、察してもらえてよかった。で……と、睦月さんは恐らく自分が果たして人間なのか、それともデータなのかって辺りで悩んでるみたいだけど、悪いがそれはひどくくだらない悩みだよ。今すぐそんなことは考えるのを止めるよう、強くおすすめするね」
「……くだらない悩み? 自分が何者なのか分からないことがか? 己の存在がこれほど不鮮明な状態だというのに、それを貴方はくだらないのひと言で片づけるのかっ!!」
勢い、彩香は怒声を上げる。
あまりにも自分と比して博和の悠長な態度、言動が腹立たしくなり、我慢できずに。
ところが。
「おかしなことを言うなあ。君の存在が不鮮明? それこそ意味不明だ。睦月さん、君は確かにここに存在する。少なくとも僕の認識の中では。これ以上、何が必要だっていうんだい?」
まるで悠然とした調子を崩さず、博和はさらに続けた。
「前にも話したと思うけど、僕はこれでもヨーロッパ文明学が専門でね。そういう関係でヨーロッパ哲学史もそれなりにかじってる。思うに君は今、何ひとつとして確かなものが無いと感じ、そのせいで自身の存在すらも危うく感じているのかもしれないけど、それについての答えは500年も前のフランスで、かの有名なデカルトがすでに出してる。君もどこかで聞いたことくらいはあるんじゃないか?」
淡々とした、それでいてなだめるような優しさを含めた口調で、
「Je pense, donc je suis……我思う、ゆえに我あり。まあ、素人目にも欠陥のある命題なのは認めるよ。もし何もかもを疑ったとしても、その疑っている自分が存在していることだけは絶対的な真実だっていうね。けど、それだってもしかすれば主観だと誤認した妄想や幻想である可能性は否定できない。思っている、考えているということそのものすらも実際的には証明の方途は無い。だけどさらに飛躍すれば、誰のものかは分からないまでも、妄想や幻想としての僕らは確実に存在している。こと、これに関してはもう絶対さ。疑いの余地は逆に一切無くなる。そして存在なんてものは、幻や空想といった程度で充分なんだ。実存なんて確固たるものは必要無い。大事なのは如何に思考の無駄を省くかだよ。答えの出ないことに時間や労力を費やすんじゃなく、幻だろうが何だろうが、すべてに価値を見出して行動することさ。どうせこんなものの答えは死ぬまで出ない。死んだって出ないかもしれない。だったら余計、限られた命を、時を、大切に使うべきだ。よしんば存在の証明、または非存在の証明ができたとしても、それで得られるのは馬鹿馬鹿しいほどちっぽけな達成感だけ。少なくとも僕はせっかくの人生をそんなくだらないことで使い切りたくないね」
自己存在の揺るぎになどまるきり関心など無いとばかり、博和は言い切る。
流れるように長々と語られたその内容の半分すら理解できず、半ば呆けた様子となった彩香は、されどいくつかの拾い上げることに成功したその言葉の中に明らかな安堵を得たのを目にしながら。
そうして。
「あー、でも……Je pense, donc je suisは一般的ではなかったか。普通、よく知られているのは元であるフランス語のほうより、ラテン語訳されたほうの……」
いつもの如く、思うまま興味の対象へと話題を手前勝手に切り替えた博和は片眉を上げて問うような顔をするや、
「Cogito ergo sum……かな」
言って、話を締めくくった。




