eXeCuTaBLe FiLe [DaWN QueeN 03]
もはや何度目かと思う意識の暗転を経て、豊洲サーバからモニタールームへ帰還した英也は、気づくと椅子に腰かけたままの自分を確認するや、精神的な疲労の濃い顔を右手で覆うと、背もたれに上半身を投げ出して仰向いた。
つい数分……いや、数秒前の出来事を思うと、顔を掴む右手が冷汗に濡れる。
無論、顔と手の両方から流れ出てくる。溢れるほどに。
特殊な職務の関係上、一般人ならば普通、見ることの無いような惨たらしい現場をいくつも見てきたが、今回は事情が違う。
単純に視覚的な凄惨さで言えば、先ほど目にしたものより数段はひどいものも見た経験はあるものの、それとこれとでは比べること自体がナンセンスに思えた。
はたとすると、上を向いた自分の顔から耳の横を通って大量の汗が流れ、そのうえ自分が震えていると感じたが、この状態のままでは右手が震えているのか、それとも顔を含めて体ごと震えがきているのかの判別すら出来ない。
かといって、右手を顔から離して確かめる気にもなれなかった。
自分は今、ひどく怯えている。
その現実が変わらない以上、何かを進んでしたいとは思えず、何よりそんな気力など湧いてくるような余裕は英也に無かった。
などと。
少しでも気を抜くと苦悶に喘ぎそうになる己を抑えているところへ、まぶたと手のひらで固く閉ざした目に姿は映らないが、剥き出しの耳に響く【DaWN QueeN】声が、英也へさらなる不安を与える。
「体調がよろしくないようですわね中尉。それとも、ご気分が優れないのかしら?」
分かっていて聞いてきている風ではない。
素直に、どうしたのかと心配をしての問いかけ。
声音の裏に微か、当惑した音が混じっているのを感じるに、恐らく本気で心配をしてくれているのだろう。
こうした人の機微を鋭敏に察知する能力は職業的に身に付いたものゆえ、英也本人、この判断へ限り無く確信に近い自信を持っていた。
だからこそ、包み隠さず真実を話す。
「まあ……その両方というところです。や、正確を期して言うなら、気分が優れないことに引きずられて体も参っている……と、そんな感じでしょうか……」
言いながら、英也はわずかに残った気力をどうにか振り絞り、顔から汗を拭いつつ右手を払いのけ、首を横に倒して【DaWN QueeN】へ取り繕った笑顔と視線を向けた。
「実際、相当に混乱してます。ますます分からなくなってきてしまって……一体、ここはどこを境に現実なのか、そうでないのか、と」
「先ほどの【NeuTRaL FLooR】での事が原因……ですわね」
「まさしく」
水を向けた通りの解答を聞き、英也は気持ち、大きめの声で返答する。
「始めにこの部屋でモニター越しに見せられたのは【NeuTRaL FLooR】。そして先ほどまでいた場所も【NeuTRaL FLooR】。しかし前者は明確に仮想空間だったのに対し、後者は……」
「現実、だったのではないかと?」
ところどころで無意識に口ごもる英也へ、察して先回りに【DaWN QueeN】はまた答えた。
もちろん完璧な、とまではいかないものだったが。
「確かに、大きく異なってお感じになられたでしょうね。思うに、主な理由はこれのせいかしら?」
言葉を継ぎ、【DaWN QueeN】はどこから取り出したものやら、右手に持った柄の長い武骨な金属製の斧を差し出し、英也へ見せる。
黒みがかった銀色の刃先に、まだ凝固していない鮮やかな紅い血を滴らせたそれを。
瞬間、英也は思わず息を吞んだ。
が、すぐさま止めた呼吸を再開し、深く大きな溜め息とともに声を返す。
「やはり改めて見ても、ぞくりとしますな。そういえばそんなかさばる物をいつの間に用意されてたんです?」
「必要と思えば、いつでも」
「……?」
【DaWN QueeN】の答えの意味が分からず、怪訝な表情を英也が浮かべる。
と、同時。
「こういうことですわ」
そう言い、【DaWN QueeN】は右手を軽く捻って斧を半回転させると、
途端。
握られ、宙空で振り回された斧は煙のように消え去ってしまった。
その光景を唖然となって見つめた英也が疑問を抱くよりも早く、具体的な回答はおこなわれる。
当の【DaWN QueeN】によって。
「欲しいと望めば、大抵の物は出せますの。もっとも、申し上げた通り(大抵のもの)に限りますけれど」
「そりゃあ……また、えらい手品ですね。して、そのタネは? まさかマジシャンの常套句でもなし、『タネも仕掛けもございません』なんて言ってお茶を濁すのは勘弁してくださいよ」
「そんな下らない意地悪を言うつもりはありませんわ。けど……結果的には同じことになってしまいます。何せ、こうしている私自身、どういうわけでこんなことができるのやら分かりませんので……」
本来なら自分がすべき残念そうな表情を、【DaWN QueeN】に先を越されてしまい、英也は余計にどうしたものかと思いつつ、頭を掻きながら椅子を横へ回転させると、【DaWN QueeN】に向き合った。
有益な答えが返ってこなかったのは身を入れて聞いていなかったからではないかと、少し迷信じみた考えが頭をよぎったのもあるが、どちらにしても話は続けなければならないと思ったからというのが大きい。
「またまた分からない……ですか。厭味のつもりで言うわけではありませんが、そろそろその台詞も食傷気味ですね……」
前置きはしたものの、やはり客観的にも皮肉と聞こえてしまう自分の言葉に、英也は一向改善されない情報不足の状況と、それが起因となって反比例し、少しずつ確実に余裕を失ってきている己を自嘲するような、複雑な笑みを浮かべる。
自身、杜撰な誤魔化し方だと自覚しながら。
しかし、【DaWN QueeN】はそれを気にする素振りも見せずに話を続けた。
事実、気にしていないかどうかは別として、少なくともそう見えるというだけで内心、英也が救われたことも含めて。
「お気持ちは分かりますし、そうした苛立ちも当然でしょう。けど、分からないことは分からないとしか言えませんが、分かることなら話すことができます。そして、私にも分かることが……もしくは精度の高い推測ができることがいくつかはあります」
「と、言われると……たとえば?」
「中尉は先ほど最初に見た【NeuTRaL FLooR】を明確な仮想空間だったとおっしゃいましたけれど、その判断が必ずしも正確とは言えないということです」
「……それは、どういった根拠で……?」
ただでさえ不確定なことが多いところへ、さらに自分の考えを横から否定される格好となり、さしもの英也も言葉の出が悪くなる。
だが逆に、だからこそかもしれない。
恐らくは善意から。【DaWN QueeN】は英也がこれから一時、抱くであろう苦悩も致し方無しとばかりに説明を始めた。
「たとえば中尉のおっしゃる説の場合、目に見える事象であってもまず、ここが……この場所が現実であるという前提が確立していなければ成り立ちません。つまり、このモニターに移る映像を信じるためには、前提として今いるこの場所が現実なのだと証明しなければいけませんけど、私たちにはその手段がありませんわ。しかも、あの忌まわしい【NiGHT JoKeR】の【HiDDeN】の効果を足して考えれば、たかだかモニターに映し出される画像程度はいくらでも改竄ができるはず。そう思うと、そもそもの話として現実と仮想現実の区別をおこなえる要素自体が存在しないと言い切ってしまってもよいのではないかしら?」
言われて、あからさまに英也の表情が曇る。
無理も無い。
これまで思い込んでいた現実の欠片が、あっさりと砕けて霧散してしまったのだから。
首の皮一枚で繋がっていた認識の境が、ちぎれて飛べば誰しも顔のひとつも曇る。
とはいえ。
繰り返すが【DaWN QueeN】も英也をわざわざ落胆させるためにこんなことを言ったわけではない。
重要なのはこの先であった。
「そこで私はむしろ、どこからが現実でどこからが仮想現実なのかという思考そのものを放棄すべきだと思っています。中尉、ご自分の左手をごらんなさいな。もしここが現実だとしたら、そんな奇妙な数字が手のひらに浮かび上がったりするとお思いになります?」
この質問に英也は自然、左手を見る。
確かに。
これがある以上、ここもまた現実と考えるのは難しい。
となると。
では。
どうすればいいのか。
どう判断すればいいのか。
言われるまま、自分がどこにいるのかを考えることすら諦めるべきなのか。
【DaWN QueeN】が予測していた通り、英也の頭が苦悩に押し潰されそうにそのなった時。
それを妨げるように【DaWN QueeN】は言葉を継いだ。
「ですが、誤解なさらないでいただきたいのは、何も私は中尉へ恒久的に今いる場所の特定をお止めなさるようにと申し上げているのではありませんわ。ただ、今はその時ではないと申し上げているだけ。今後、状況が変わって判断材料が増えたなら、そこで改めて考え始めればいいと、そう言いたかっただけですのよ」
「……」
応答もせず、無言でモニターと【DaWN QueeN】との間で視線を往復させつつ、英也は無意識に自分の顎を指でさすりながら、しばらく思案すると、
難しい顔をして頭を平手でぽんぽんと二度、叩いて、
「……困ったことに、正論ですな……ご婦人。証明に必要な情報が手に入らない現状、無用な労力を割くのは危険に過ぎる。それこそ冗談ではなく、まさしくゲームで命を落としかねない。ここはご助言を有難く受け止め、今は目先のゲームを生き延びることへ神経を集中するといたしましょう」
言って、英也は椅子から身を起こす。
向かい合っていたモニターを覗き込むために。
映し出された、豊洲サーバで確保した兵力。一般プレイヤーたち。
【DaWN QueeN】の言葉を借りるなら、【STRaY DeaD】の群れ。
集団心理はコントロールが出来ないと極めて危険だが、一旦その手綱を掴んでしまえばおとなしいものである。
この時点で英也は知る由も無いが、加西市サーバで【NooN JaCK】が用いたコントロール方法……最もシンプルで効果的な、恐怖によるコントロールは、【DaWN QueeN】もおこなった。
ただし。
【NooN JaCK】が実質ひとりの犠牲だけで済ませたのに対し、【DaWN QueeN】は英也の目の前で9人を立て続けに殺害したという違いはあるが。
以前とは違う、だが同じような【NeuTRaL FLooR】へ詰め込まれ、自分などとは比べものにならないだろう恐怖で行動が硬直化し、薄気味が悪いほど皆、静かにコンクリートの床へ座り込んでいる。
「しかし……あの惨事はいろいろとひどかったですな……正直、あそこまで殺す必要があったのかと思いましたが……」
「そこはそれ。中尉のお立場を考えれば仕方がありませんわ。元々あそこのエントランスは256の定員限界まで入っておりましたので。そして中尉は現在、【DuSK KiNG】に256あった所有階層のうち、9階層を奪われていますから、徴兵限界が247になっています。となれ自然、9人はあそこに残してゆくほかないわけでしたし、それならどうせタイムオーバーで死なせるよりも、中尉のお役に立って死んでもらおうと考えただけのことです」
そう答えて、【DaWN QueeN】は自分の左手を広げて英也に向けた。
意味はすぐに分かる。
それだけに、英也は複雑な気分で自分の左手を見つめた。
30。
本来なら徴兵コストの5時間と、経過時間を合わせて7時間がマイナスされているはずの時間である21時間より9時間も多い。
理由は、言うまでも無い。
死んだ彼らが英也の生存猶予期間となったのだ。
【DaWN QueeN】曰く、一般プレイヤーを殺すことでひとりにつき1時間が正規プレイヤーに加算されるという。
殺すのは同盟した管理者か正規プレイヤー自身か、もしくは正式に徴兵したプレイヤー。
徴兵された一般プレイヤーにも恩恵はあり、殺したプレイヤーの持ち時間がそっくりそのまま自分の生存猶予期間となる。
その代わり、正規プレイヤーと一般プレイヤーとでは、同じ生存猶予期間であっても時間単位のレートがまったく違う。
正規プレイヤーが得られるのは、殺した一般プレイヤーの持ち時間が何時間であろうと、一律でひとりにつき1時間。
一般プレイヤーは持ち時間の多いプレイヤーを殺すのと、ほとんど残っていないプレイヤーを殺すのとでは、大きく価値が変わってくるので、この点が最も大きな差異だろう。
「それにしても……本当に自分が生きるために他人を殺さなければならないというのは、仕事柄、ある程度は慣れている小官でも、多分にこたえますな……これを、あの少年と睦月巡査のふたりがこなせるかどうか……本来、人の心配をしている余裕などないのですが、やはり気になるところです」
「ですわね。特に女性の方には厳しいと思いますわ。正義感が強い人ほど、道徳観が強い人ほど、ああして殺した行為が現実か現実でないかだけでも精神が侵されてゆくでしょうに、真実を知ったら正気を保てないかもしれません」
言葉を交わしつつ、英也は計画通りに兵力を運用できるようにと各階層のチェックをおこない、【DaWN QueeN】はそんな英也をただ見守っていた。
その時。
作業の合間、ふと心が揺らいだ英也はやにわに。
「……ところで」
「何です?」
「先ほど……こちらへ戻ってきた時に言っていた(死んだり殺されたりしたプレイヤーの真実)というのは……」
「もちろん、お約束した通り。中尉にそれを聞く覚悟がお出来になったのなら、いつでも話して差し上げますわ」
「……それは、他のふたりの管理者も同じ考え……なんですかね……」
「【NooN JaCK】については間違い無く。ですが【NiGHT JoKeR】に関しては分かりません。何せ、あれは前のプレイヤー……同盟者を自殺に追い込んだようなろくでなしですから。どういった行動に出てもおかしくはありませんわね」
「そう……でしたね……」
聞いて、英也は力無く【DaWN QueeN】へ相槌を打つ。
すると。
「それで、中尉はまだ覚悟がお決まりになりませんの?」
急に【DaWN QueeN】は、どこか急かしつけるような口調で問うてきた。
「差し出がましいと承知で申しますけど、この先のことを考えれば出来るだけ早く真実は知っておいた方がよろしいかと思いますわよ。実際、その手にかけてしまう前に真実を知っておいた方が、少なくともその後になってから聞くよりも精神的ダメージは少なくて済むと思いますし……」
言われたものの、情けないが英也は咄嗟に返事を出来るほど腹は据わっていなかった。
経験則でしかないが、これだけ大掛かりな罠にはまった以上、抜け出すには長期戦になるだろうと想定される。
となれば必然、それだけ脱出までの間に多くのプレイヤーを殺さねばならない。
そこを考えると、如何に英也でも真実を聞く勇気は容易に湧いては来なかった。
で、あるが。
【DaWN QueeN】の言い分が正しいのも分かる。
ゆっくりと毒を吞むのか。
それとも、後になって一気に吞むのか。
同じように見えても、まるで受け止め方は異なってくる。
だからこそ。
英也は息をする音さえ消してしばし考え込むと。
「……ご婦人」
意を決して声を張り、
「了解しました。ここはひとつ度胸を出して、毒を喰らわば皿までと参りましょう」
はき、と言い切り、その目を真っ直ぐ【DaWN QueeN】の瞳へ向けた。




