TeMPoRaRY FiLe
その部屋は、一見するとありふれたどこかの病室のようにも見えた。
あぐらをかいて座ったベッドから見上げる天井には、充分な光で室内全体を照らすだけの丸いLED灯がいくつも並び、正方形をしたその部屋は、隅々までを隠すことなくさらけだしている。
ただし、あくまでも一見して。
よく見れば、ここが病室……少なくとも普通の病室といったものとは異なることだけは、正常な感覚を持つ人間ならば誰でも分かるはずだろう。
並んで置かれたベッドはふたつ。
大きさはどちらもセミダブルサイズだが、だとすればまずこの部屋の異様さはその異常な広さによって感じられる。
冷静であれば天井を見た時点でも気づく。
ベッドふたつに対し室内はざっと見積もっても300平米を下らない広大さ。
綺麗な正方形をしているうえ、ベッド以外は特に何といったものも置かれていないだけに余計その大きさが際立つ。
窓は無く、頑健な印象を与えるスライドドアがひとつあるきりで、室内には他に何も外界と繋がる個所は見回した限り他に存在しない。
単に眩しいほどの明かりに照らされた灰白色の室内が視界いっぱいに広がるだけ。
とはいえ、外界が窺えないというわけではない。
むしろ、嫌というほど外の様子は眼に入ってきた。
理由は別にクイズにもならないほどの、単純な事実。
部屋の壁……ベッドのある位置から、右の壁にドアがあるのに対して、左側は一面が透明だったのである。
素材は分からない。ガラスなのか、アクリルなのか、またはそれ以外の何かなのか。
ただ、外が見えるという事実だけが現実として目の前にある。
ひどく、現実感の無い風景が。
それは景色と表現するにはあまりに簡素で、馬鹿げていた。
透明な壁の下側は、ここがどれほどの高所にあるのかと自然、考えを巡らさざるを得ない雪原のようにどこまでも続く雲海に埋もれ、辺りは一色で染め上げたような淡い空色。
そして視線の中心には、
そんな雲海を超え、さらに視界の限界を超える空の高みまで伸びる何かの建造物。
そう、それは紛う事無き人工の建造物。
同時に、存在するはずの無い空想の産物。
だが確かに目に映り、そこにある。
それの名は……、
「はーい、桂一さんったら、また心ここにあらずー?」
突然、背後からかけられた声に、ふたつあるベッドの一方へ乗っていた少年が、あぐらをしていた足を崩し、振り向く。
外を見遣るのに夢中で向けていた背に音も無くドアを開け、部屋へと侵入してあまつさえ隣り合ったもうひとつのベッドに腰を掛け、話しかけてきたその声の主へ。
尋常の人間ならば多少の狼狽程度は見せてもおかしくない事態にもかかわらず、不思議なことに桂一と呼ばれた少年は特段の驚きは何とて現さず、かといえ、お世辞にも悠々とした精神状態とまではいえない、複雑な不快さを含む顔をして。
そんな少年の表情を確認しつつ、声の人物は反比例して楽しげに笑顔を浮かべている。
こちらは如何にも少女らしい大きな瞳を細め、口の端を上げ、屈託も無く。
「参りますねー、まだ厳めしい顔して考え込んだままですか? 困ったもんです。もう桂一さんはれっきとした正規プレイヤーなんですから、いい加減で腹を据えてもらわないと付き人の僕に負担が無駄に掛かるんで、そろそろ男らしく諦めてくれませーん?」
言いつつ、少女は深刻さの欠片も無い様子で微笑み続けている。
何が楽しいのか、いや……それ以前、本当に面白くて笑っているのか、腹の内が探れない不気味さを漂わせながら。
また、少女はその様相も不可思議だった。
平凡なブレザーの学生服を着た少年に対し、少女の服装はただ奇抜だとしか表現のしようが無い。
頭には帽子のように豪奢なヴェネツィアン・マスクを赤いリボンで髪に結わえつけ、その結わえつけられた髪もまた同様に、これも赤い。
といっても、それも一部。全体はさらに凄まじい。
マスクの下を飛び出し、肩近くまでボサボサに伸びた髪は、少年から見て右側が赤。左側が緑。前髪の辺りは紫色の、派手派手しいトリコロールカラー。
十五歳前後であろうと思しき外見(もはや仮装の域に達している姿から判別するのは難しかったが)で言えば年相応といった顔立ちも含め、まだ幼さの残る身長と体躯。
それを包む服装は真白な合皮らしきロングコート。
中は逆に、真黒いシャツ一枚。丈の長さを見るに恐らく2、3サイズは大きい。
タイなどは締めておらず、下から4つまでしかボタンを留めていないため、はだけた胸元が露わになって、ブラもつけていないのが嫌でも分かってしまう。
加え、そこを思うと下も履いているかどうかさえ怪しい。
無論、まともな人間の感覚ならそんな馬鹿げたことは有り得ないと即座に想像を却下するところであるものの、困ったことにこの少女は一般常識で動いているようには見えない。
必然的に馬鹿げた想像にも信憑性がつく。
そう思うと、ベッドの端に腰掛けた状態で裸足の両足を上下と無意味にばたつかせている行為がより、正常さを疑わせる。
そんな相手を前、沸き立つ好奇には抗えずとばかり泳ぐ少年の視線がチラチラと自分の姿を捉えているのへ気づきつつも、少女は含みのある一瞥を、巡る少年の眼に向けるのみで済ませて再び口を開いた。
「さーて、では今日も心の準備が出来ていようが出来ていまいが、大事なお仕事が桂一さんには用意されてますよー。まずは東京の羽村市サーバ、次いで千葉の船橋市サーバのふたつ。こちらに溜まってきた能動的でないクズプレイヤーのデータを破壊して桂一さんの大事な寿命を延ばす、楽しいお仕事が今日も始まるわけですねー」
言外に急かしつけるような雰囲気と、宙で人差し指をクルクルと回す仕草を重ねてくる。
しかし、
「……その言い方はよせ……」
一方的に話しかけてきていた少女に向かい、ようやく少年が発した最初の言葉は、傍目にも不愉快に映る焚き付けの言動、態度に対する怒りや苛立ちだとかいったものとは少しく違うものだった。
「彼らは……屑なんかじゃない……【STRaY DiVeR】だと、何度も言ってるだろ……」
怒気というより、苦渋に満ちた声を小さく少年がそう継ぐのを聞き、少女はわざとらしく目を丸くすると、平然とした口調で返す。
「またですかー? 巷で勝手に通ってる俗称。桂一さんにはもう何度も話したはずですけど、サーバ内に残されたプレイヤーデータはあくまでも単体では機能しない不完全なデータなんです。本人の肉体……脳が壊れちゃったからって、人間の身体は機械とかじゃないんですから、もし百歩も千歩も譲って仮の話、外部記憶装置なんかを使ってそんなデータを脳の代替品として繋げたとしても、脳の代わりをさせるのは技術面を無視したって、不可能としか言いようがないですよー。もう説得するのも飽きてきちゃいましたが、それらはもう単なるクズなのに変わりないんです。模擬人格として動かすにも不安定すぎるし、いつ不具合を起こすか分かりません。不完全な残骸を使って元の人間を補おうなんていうのは現実的とはとても言えないですし、またそんなデータを人格や人間だと考えて扱おうというのも、あまりに無理がありすぎますよー」
「……」
「だからー桂一さんの仕事は単に不用品と必要品とを仕分けるだけの分別作業であり、不用品の除去作業なんです。妙な感情移入は作業効率を下げますから、ほどほどにー」
「……だけど……彼らは今も意思を持って動き……」
徐々に伏し目がちになりつつ、それでも力無い反論を少年は試みる。
が、咄嗟。
言い切る前、落としていた自分の顔が顎を掴まれ、強引に持ち上げられるのを感じた。
顎には少女の手が掛かっていた。
持ち上げられた顔の前には少女の顔があった。
皿のように見開いた眼を少年に合わせ、鼻先が触れるほど顔を近づけて。
そして諭すような口調で言う。
「……Cogito ergo sum(我思う、ゆえに我あり)ですか? 残念ですけど、そんな古くて欠陥だらけの命題では何ひとつ証明できませんよ。大体、思うってなんです? 何故、自分は何かを思っていると断言できるんです?」
「……」
「貴方が本当に存在する根拠は? 思っているから? では、思っているという根拠はどこに? 私が存在している根拠は? 貴方が認識しているから? では、認識しているという根拠は? もしかしたら、そのすべてが(そうだと思い込んでいる別存在の思考)なのでは? ひとつのハードディスクの中に複数の【PaRTiTioN(分割領域)】が設定されるように、実は個としての自我は存在せず、どこかの別存在が思考したその情報の流れを、自分だとか自我だとか、自己存在だと誤認している可能性は?」
間断無く発せられる少女の問いへ、ついに少年は口をつぐむ。
口では勝てないなど、そういった低レベルな考えからではない。
現実にそうであるから。
少女の言っている通り、自分は今、何ひとつとして確たるものを示すことが出来ないのだと分かっているから。
そこでふと、少女は威圧的ですらあった双眸を細め、視線を和らげると、近づけていた顔を体ごと少年から離し、同時に顎を持っていた手も放すや、その手を自分の頭に向け、人差し指を突き立てて話を続けた。
「いいですかー? 人間なんてものは所詮、自分が存在するかどうかすら証明する手段を持たないんです。つまり、ひとまず人間の形を留めているのはまだしも、明らかにデータでしかなくなったものを人間だと思って扱うほうが異常なんですよー。精神衛生にも悪いし、作業効率も落ちてく。そんな意味の無いことしてのんびりしてると、あっという間に大切な正規プレイヤーである桂一さんの寿命が尽きちゃう。ほらね? いいことなんて何も無いでしょー?」
言葉を返す気力をも失った少年にそれでも少女は口を止めずに語る。
左右へ身を揺らし、頭へ押し当てた人差し指を回しながら。
「さあ、そうと分かったらお仕事ですよ桂一さん。貴方が本当に存在しようと、存在しまいと。私が存在しようと、存在しまいと。貴方が彼らと呼ぶプレイヤーデータに真実、自我があったとしても。どうせ無知なるものは真理に到達できないんです。だから(そうだろうな)と思うくらいのことで充分なんですよ、人の行動原理なんて。だって、そう思いませんかー? いくらこんな話を重ねたところで結局、私も貴方も……」
一拍置き、少女は、
「ここが現実世界なのか、はたまた仮想世界なのか……ただのそれすらも分かりはしないんですから……」
瞬間、ピタリと動きを止めてそうささやくと、切り捨てるように話を終えた。