悲嘆の果てに 1
一面を白く染め上げられた柔らかな世界。
けれどそこは何者の生存も拒む潔白にして純白な場所。
虚ろな瞳を彷徨わせ極寒の大地を行く人影がひとつ。
肌を突き刺す冷気は立ち寄る者をじわじわと弱らせていく毒である。にも関わらず、人影は速度を緩める様子もなく雪原を歩き続ける。
視界は吹きすさぶ吹雪によって遮られ、まともに視認することすらできまい。
珍しく浅く積もった雪は踏む度に足跡をくっきりと残していく。しかし浅くとは言っても膝下当たりまで積もっているのだ。普通の人間ならばまず積もった雪に体力を奪われ、さら外気によって体温を失い、弱っていくのは必定である。
ここは人が立ち入っていい場所ではなく、ましてや人影のような冬場の街を歩くような軽装では立ち入ることすらできまい。
というのにやはり人影は速度を緩めることがなく淡々と歩いて行く。
「いたぞ! 女を見つけた!」
突如聞こえた男の声と同時に無数の光が人影を包み込む。
この中では最小年だろうと見られる青年が息を呑む。
照らし出された人影は外套をただ羽織っているだけだった。この自殺行為とも言える装いに驚くとともに青年は恐怖を覚えた。自分は何重にも防寒対策をしてやっとここに入れるというのにただそれだけで何故生きているのか。あまりにも常軌逸している。
人影が青年を見る。
虚ろな瞳には感情という色が稀薄だった。
「確認した。全員目標に一斉射撃!」
瞬間、いくつもの光が瞬いた。
無数の凶弾は遠慮なく、そして微塵の容赦もなく人影へ放たれていく。
男は思う。このあとにはきっと無惨な光景が待っているであろう。血に塗れた穴だらけの死体が。
しかし、青年の想像した光景が目に映ることはなかった。
「ありえない……」
銃声が鳴り止むとともにそう男が呟いた。いや、他の男達も口々に呟いている。それには現実を無理にでも否定しようという暗示じみた響きがあった。
そう。彼らはただ恐れているのだ。自らの内の常識を壊す目の前の超常を。
穴だらけになった外套が雪の上に落ちた。
人影の全容が明らかなになるとともにその場にいた全員が目を見張る。
それもそうだ。なにせ現れたのなんとも可憐な十代半ばと思わしき少女だったのだから。
「……どうしてそう、死にたがるの?」
感情を殺した、というより始めから存在していないような無機質な声で、ボソリと少女はそう言った。
その声に男達はビクッと肩を震わせる。
当然だ。いくら見た目が可憐な少女といってもこの場にはあまりに似つかわしく存在だ。加えて少女は男達が放ったあれだけの銃弾をすべて受けて無傷。ここに畏怖以外のどのような感情が当てはまるだろうか。彼らの反応は至極当然。通常の人間として問題なく機能している。ただこの場における異常が少女なだけなのだ。
膝下まである雪をはね除けながらゆっくりと少女が歩き出す。
その目が彼らに始めて気づいたとばかりに彼らを見据える。けれどやはりその瞳は虚ろなままだ。そこに感情の色はない。まるでその辺に転がっている石ころを見ているようだ。
「く、来るなああああああああ!」
一人の男が恐怖から、機関銃を少女に向けて再び放つ。狙いの定まらない銃身はけれども少女に数十発の弾丸は当てるには十分な数だった。
しかし、それを受けても傷つくのはやはり少女の衣服のみ。依然歩みを止めぬまま、少女はさらに近づいてくる。
「ぜ、全員構え! う、撃てぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
先に撃った男に触発されたのか、男達を統率していると思しき男が慌てたように叫ぶと同時にいくつのも銃口が火を噴く。
外れた弾が当たりの雪を巻き上げ、少女の周囲を覆う。そしてさらにそこに何人かの男が背負っていたグレネードランチャーを打ち込んでいく。
辺り一面をさらに巻き上がった雪が染めていく。ただでさえ吹きすさぶ雪で視界が悪いというのにこれではもはや何も見えない。
だが、これで構わないのだと主張するように男たちは先ほどの取り乱し様から一転してため息を吐いていた。それは仕事終わりに誰もがするような緊張の解けを表すような安堵のものだ。
これで雪煙が収まればきっと無惨な少女の亡骸が転がっているはず。いや、もしかしたら辺りに吹き飛んでいるかもしれない。などと青年が考えているといきなり悲鳴が聞こえた。
「ああああああああああああああああああ!」
あまりに生々しい叫び声。それは間違っても雪の上で転んだから、などという理由で出せるものではない。切羽詰まって、それこそ命の危機に関する実害を持ってして初めて出せるような声だ。
「腕が……腕がぁぁぁぁぁ……」
声はさらに小さくなり、そして聞こえなくなった。
何が起きたんだ、と現状を把握しようとする青年だがそれを妨げるように新たな悲鳴が上がる。
それは連続したものではなく、聞こえたと思ったらは消え失せ、さらに別の悲鳴が聞こえたと思ったらは消えるという一回終わったら次の悲鳴が上がるという繰り返しだ。
悲鳴が聞こえ始め、一貫の繰り返しが十三回目を迎えた時、ことここに至って青年はようやくこれが何なのか理解した。
悲鳴が聞こえ、消えるのはただ殺されたから。次の悲鳴が聞こえるのは少女が次の対象を殺すから。
ただそれだけのことに考えが至らなかったのは、青年が正常な思考能力を有していなかったわけではなく、きっと突然の断末魔に思考することすら忘れていたからだろう。
となると理解した青年に待っているのはただの恐怖。途切れ途切れの断末魔が何を意味しているのかなんてことは簡単だ。
――――殺される。たったそれだけ。
その意味を悟ったと同時に青年の体が大きく吹き飛んだ。
転がる体。
慌てて体を起こして逃げようとするけど、そこで青年は気づく。
「俺の足は……」
いつもあるはずの足が無い。手で触ろうとするが手は空を切るだけ。そこには何も無い。
見ると先ほどまであった胸から下が無くなり、代わりにどろりと粘ついた赤い液体が雪の上を白く染めていた。
「あああああああああああああああああああああああああああああああ!」
激しい激痛が青年を襲う。
理解したくないのに現実が否応なしに真実を青年に突きつける。
そう。青年の体は二つ別れた。
それは決して鋭い刃物のような物で切断されたのではなく、ただ力業でなぎ払われたにすぎない。そのようなことは普通の人間には、それも武装も何もしていない人間には到底無理なことだ。しかし、それは普通の人間での話。常人の常識は少女には通じない。なぜなら少女は異常の体現者。常人の常識に当てはめようという方が間違っている。
見ると近くにいた少女の足がべっとりと血に濡れていた。
この少女が行ったことは青年の体をただ一蹴しただけ。ただそれだけのことで青年の体は別れたのだ。
何と脆い、と断末魔を上げながら青年は自らの無力さ恨んで涙を流し始めた。
雪を踏む音がどんどんと青年の方に近寄って来る。そしてちょうど青年――――上半身がある辺りで止まった。
もはや死を待つだけの体を動かして青年は少女を見上げる。
ちょうど少女も青年を見下す形で手を伸ばしてきている最中だった。
少女の伸ばした手が青年の頭を掴む。
驚くことに掴んできた手は柔らかく、そして滑らで、なんら世に溢れる年頃の少女のものと変わらなかった。
そのことに驚きつつも、当然の如く死にたくないという気持ちが湧き上がってくる。様々な悔恨や後悔が思い出となって青年の中を駆けていく。
けれどこれは避けようのない死だ。それは青年もとっくに分かっている。
だから青年は自らの生をせめて最後良いものにしようとこう思うことにした。
――――まあ、天使のように可憐な少女を最後に見て死ねるのは幸せかな?
金色に輝く虚ろな瞳を見ながら青年の頭蓋は潰された。