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掘り下げる

作品タイトル:掘り下げる

作者名:桐倉


 彼女を惹きつけ、(とりこ)にしたものは、墓に納められていた。

 確かなことは名前だけで、その男の生涯は何も知らなかったが、彼女は墓を磨きあげ、花をたむけていた。休日になれば墓のそばに横たわり、彼の名前を何度も舌でころがして、その語感をむさぼりながら夜を明かした。

 はじめの頃はそれでも満足できたが、次第に食い足りないと感じるようになった。いくら男の姿を思い浮かべても、何も知らないのだから曖昧な像を結ぶことしかできない。ひどく気配を欠いたそれはつまらなかった。

 そうして彼女は調べはじめた。古い電話帳をめくって住所を探し当て、実際に男の家まで行ってみた。すでに売却されて他人のものになっていたが、隣家の女性に訊ねると、つい最近になって新しいひとが来たのだと答えてくれた。そして少し楽しそうにして、何年か前に旦那さんと奥さん共々、交通事故で亡くなったの、と言った。

「幼稚園にいた娘さんだけ残されてね、とても可哀そうなの。いまは小学生で、それで施設にいるらしくて。どうも祖父母との折り合いが悪くて、引き取り手がないって噂でね。そういえば旦那さんは安念建設の社員だったっけ。え、家の外観ならそのまま変わっていないけれど」

 彼女はそのことだけ手帳に記すと、男の家を何枚か写真に収めた。かつて男がいたことがありありと感じられた。写真の映りを確認してから、笑みを引き攣らせた女性に軽く頭をさげて、彼女は立ち去った。

 写真は壁に張りつけ、目を凝らして細部まで味わい尽くした。片流れの屋根が引く斜線も、壁のごつごつした質感も、窓枠にちらつく錆びさえも伝わってきた。それが彼女を喜ばせ、ほの暗い情熱をますます高ぶらせた。

 そのうち、この内部にあったはずの家具や衣類はどうしたのかという疑問がわいた。処分されずに売られたのなら、収集できるかもしれない。

 箪笥(たんす)や本棚のたぐいはすぐに見つけられた。男の家の近くにある店にまとめて売りに出されていたからだ。彼女は迷わず買い取った。それから身内だと偽って、店主に他の家具がどこにあるか知らないかと訊いてみた。いくらか疑わしげなようすだったが、他人の家具をほしがるような奇特な奴はいないだろうと思ったのか、店名をいくつか紙に書いてくれた。

 彼女は仕事の合間をぬって、そして休日には日が暮れるまで店を回り、男の残したものを集めていった。すこし古い型の冷蔵庫、いくらも使われていない上等の革靴。中には買い手がついて行方の分からないものもあった。さすがに購入者の名前まで訊くことはできなかった。

 衣類はほとんどが捨てられていた。妻の着物だけは見つかったが、買わなかった。そこに男の痕跡はなかった。

 彼女は、この作業に夢中になっていた。生きていた頃の男が触れたもの、開けたもの、閉めたもの、点けたもの、その全てに彼女は魅入られた。部屋はあっという間に埋め尽くされ、以前に使っていた自分の家具を売り払ってさえ、まともに生活できる状態ではなかった。

「大丈夫か」と上司に言われたのは、その頃のことだ。

 夜遅くまで家具の一覧を作っていた疲れで、いつの間にかまどろんでいた。すいませんと言ってふたたび仕事に取りかかると、ため息をつかれた。

「しっかりしろよ。忙しい時期なんだから」

 その口調で、話が長くなることはわかった。彼女を含め、事務のほとんどが揃っているから、吊し上げて見せしめにするには格好の状況だった。

「タワーに入るテナントさんに連絡したのかよ」

「いいえ、まだです」

「何でそんなに遅いんだよ。店内の工事、遅れているって言わないと、また大変だろうが。それと、下請けの安念建設の手違いのせいだって、絶対に強調しておけよ。サザナミの失敗にされるのは堪らない。うちが馬鹿にされるんだぞ」

 彼女は大人しく、はい、と言った。眠りかけたのは事実だし、これで場の空気が引き締まるのも確かなことだ。両隣の事務はやや気まずそうにしながらも、素早く仕事をこなしていた。

「しかし安念建設担当の部署もかわいそうだな。左遷されたら大概はあそこだ。ひどい所だよ」

「はい」

「聞いているのか」

「はい」

「そうか、すばらしい集中力だ。仕事中におやすみできるくらいだからな。まあ左遷されないように気をつけておけよ」

 それからの彼女は、仕事を休みがちになった。

 古びた家具に囲まれて暮らす哀れな気のおかしい女だと、普通の目には見えただろう。働いていることが彼女をある一線にとどめてはいたが、それさえも危うい均衡の上にあるのだと。

 だが彼女にはその程度は気がかりですらなかった。肝心なのは痕跡を拾い集め、頭のなかで男の姿を組み立てることだけだった。他には何も必要なかった。

 だから行きづまったときには動揺した。

 男に関する文書は身内でなければ渡せないと、役所からは言われた。いくら頼みこんでも不可能なので、いっそ古物商の店主と同じように騙してしまうかとも考えたが、証明を求められたら答えようがなかった。怪しまれるだけだろう。

 そのときは呆然として、逃げるように帰宅した。木製の椅子に腰かけると、背もたれが乾いた呻きをあげた。これも男が残したものだ。汗でぬめった背中が、ゆっくりと冷やされていくのが心地よかった。

 しばらくして落ち着くと、いい方法を思いついた。どうして気づかなかったのか不思議なほどだった。

 いくつかの審査を終えて、男の娘を引き取るまでには結構な時間と手間がかかった。施設側と何度も面談をおこない、適正かどうかを判断された。結果として夏休みのあいだだけ預かることになったが、彼女にはそれで充分だった。あくまでも娘は手段に過ぎなかった。

 面談の最中に娘はまったく表情を変えず、特にしゃべりもしなかった。施設の職員から考えを訊かれても、別に構いませんと返すだけだった。

 部屋に来た翌日、どうして引き取ったのかと娘は訊いた。

「目的はわたしではないんでしょ」

 彼女は少し考えてから、ええ、と答えた。

「それで、本当は何のために」

「あなたのお父さんが好きなの」

「もう死んでいるけれど」

「知っている」

 娘は怪訝(けげん)そうな顔をしたが、すぐに思い直したらしく、そういう人もいるんだ、と呟いた。

「あなたがいれば、役所にある文書も見られるから」

「なるほどね。だからわたしか」

「そうなの。傷つけたらごめんなさい」

「別にいいよ。もともと期待してはいないから」

 一緒に役所まで行くと、文書は簡単に手に入った。

 彼女はそれらをノートに書き写して、男に関する情報をたぐり寄せながらひとつの形へとまとめていった。言葉から余分なものを削ぎおとし、生々しく直截(ちょくさい)なものが現れるのを待つ作業は、ひどく消耗するが楽しかった。

 その様子を娘はぼんやりと見つめていた。

「あなたが働いているのってサザナミだよね」

 書き写しながら、彼女はそうだと答えた。

「それでサザナミタワーを作っているのが、父さんの勤めていた安念建設か。何だか因縁じみているね。それで今日は、仕事に行かなくていいの」

「わたしを心配しているの」

 娘は笑いながら否定した。

「ひとりになりたいだけ。施設でもこの部屋でも、なかなかなれないからさ。自分の家とはどうしても違うものだし」

「そのことなら大丈夫。すぐに、ひとりになれる」

 娘は目を丸くして、あなた死ぬつもりなの、と訊いた。

「いいえ。もうすぐ仕事に行くという意味」

「どういうこと」

「安念建設に関する部署に左遷されたら、行くつもり」

「それは父さんの作った書類とかが目的なの」

「そう」

「そのために仕事を休んでいたの」

 娘はまじまじと彼女を見つめて、吐息をもらした。そこで会話は途切れた。

 彼女は手を動かしながら、これがどこまで続くのかと考えた。いつか資料が尽きたとき、無数の痕跡が結びついて完全に統合された何かは、男を象っているのだろうか。書き連ねた文字が、集めた家具が、自分を振り払って動きだすほど明確なものを生むときが来るのか、彼女には分からなかった。

 気がつくと、机に顔を伏せて眠っていた。暗いので照明をつけようとしたが、明るくならなかった。

「停電みたい」かたわらにいた娘がそう教えた。

「部屋が散らかっているからさ、動けないんだよね」

 部屋は暗闇で満たされて、目の前のものさえ定かでなかった。無理に動いても、ただ迷うだけだろうと彼女は思った。

 しばらくの沈黙のあとで、娘がためらいがちに、父さんについて訊いてもいいかな、と切りだした。

「あまり覚えていないから、知りたいんだ」

 彼女はうなずいて、話しはじめた。

 まずは男の名前、それから住んでいた場所や仕事の説明が続き、ゆっくりと細部へ移っていった。それらは彼女にとってなじみ深く、たやすく言葉にできた。娘は黙って耳を傾けていた。

 彼女はごく自然に、呼吸するように、言葉を続けていった。滑らかに継ぎ合わされた言葉は、ひとつの連なりになって娘の耳に響いた。おそらくそれは、もう実際の男とは異なっていた。

 娘は震える声で、これが父さんなの、と訊いた。

 分からない、と彼女は言って、暗闇のなかを見つめた。そこにはただ、例えようもない全てがあるだけだった。

 



 

 







 

 




 



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