イベントの夕
作品タイトル:イベントの夕
作者名:釼鋒 金
凛子と双音を乗せたワゴンがA駅の駐車場に入った。すると、今はメモリアル・シップという名で海に浮かぶ連絡船とともに、それがかつて繋いだ海峡がパノラマで彼女らの目に映った。
「海、海だ。向こうの島が見える。北海道?」一二歳の凛子がパワーウインドウを開け、潮風の中に顔を突っ込ませた。
「あれは北海道じゃなくて半島。北海道はもっと向こうだよ、凛子」隣に座る双音も、外の景色を見ては海の香を嗅いだ。
市街地の国道を通ってきた車や、これまで内陸部を走ってきた電車はA駅で突然海沿いに出るので、人々は本州の最果てにいることをまざまざと認識させられる。二人もその例に漏れなかった。
「凛子は海、見だごどないのか?」双音が尋ねる。その言葉使いは、アイドルとして活動している今も方言のイントネーションを隠しきれないでいる。
「小さい頃に一度行ったっきり。あんまりH市から出たことない」
開けたウインドウから風が押し寄せ、次いで陽光が車内に入り込み、シートから舞い上がる埃の影をくっきり浮かび上がらせた。
陽光は凛子の肌や服の赤みをより際立たせたが、反対に双音は長髪が熱を吸い込むので、愛用している祭の風景が描かれた団扇を取り出して扇いだ。
A駅の構内やバスから出てくる人々は一様に半袖を着ていて、光を浴びては目を細め、手を庇にして駅前の街や海を見る。凛子は群衆と、現れてはすぐに潮風にかき消される陽炎を眺めるや、「来たよ」と双音に知らせた。
中年女性のマネージャーに連れられて、二人のプロデューサーの家尻カシスがワゴンに向かって歩いてきた。凛子がこっちこっち、とワゴンから身を乗り出しそうになったので、すかさず双音がそれを制した。
「お待たせ、今日は私も同行するわ」家尻はレディスシャツにスラックスの活発な出で立ちをしていた。凛子が三列目の座席に移り、空いた場所に座った家尻に双音が言った。
「家尻さんも、サザナミタワーに何か用事が?」
「私も、サザナミタワーがどんなものか見てみたいの。正直言って、H市はアクセスがいいわけではないでしょう? ……そこにビルをまるごと使った遊び場ができるなんて、気になるもの。行きましょう、そね子ちゃんと咲ちゃんも待ってるし……」
家尻はローカルアイドルの排出をもっぱらにする芸能事務所の代表であり、文芸部そね子、森弘咲、津軽凛子、桜双音の「so-network」というH市を拠点にする四人組のプロデューサーだった。普段は東京の事務所で社員やアイドル達に電話で応対をするのがほとんどで、各アイドルが活動する場に顔を出すことは少なかった。
So-networkの四人は今日の夕方に、近々開業予定のアミューズメント施設「サザナミタワー」を先取りして紹介するイベントにゲストとして出演する。A市での仕事をしていた凛子と双音はほかの二人と別行動をとっていた。
ワゴンが動き出し、H市へ向かった。
凛子と双音はイヤホンをつけ、今度の地方番組で新しく発表する曲のデモテープを、口ずさみながら聞きだした。凛子の高く幼い声はソプラノ、双音のこぶしをきかせた声はアルトと、それぞれ違う音程のフレーズが、アスファルトを転がるタイヤの音とともに車内に満ちた。
歌詞の内容は、H市の主流産業である農業や名産品を、家尻がポップスとして書き上げたものだった。家尻は農業や漁業の組合と提携し、広く宣伝する存在としてローカルアイドルをとらえていた。
それだけではなかった。双音は大学で神道を学び、実家の神社の神主になったという話題性も家尻に買われた。今ではH市の観光産業の一角を担っている。
市街地をぬけると、まだ若い実のなっている林檎や、背の高いとうもろこしの木が立ち並ぶ畑の中に、それを育てているらしい農家の家がぽつぽつと建つ、ひなびた風景に様変わりした。
車が出しているスピードの割に景色はゆっくりと流れた。向こうには広い裾野を擁する山があり、それを除けば地平線まで緑が続く。そのためただ一つの山は人々の目には一際大きく見えた。とりわけ開発されることなく農耕を繰り返してきたこの土地に住む人間は、何代も前の先祖と変わらない景色を眺めているのだろう。
「サザナミタワーって、外観はもう完成しているんでしょう? どういった見た目なの?」家尻は外を眺めたまま誰にともなく訊ねた。スイッチを操作して窓を開けたが風が強く、家尻の一つにまとめて横に流した髪をバサバサに揺らしたのですぐに閉めた。
狭い中で無理に足を組んで車内を揺らした双音が答える。イヤホンはもう外していた。
「タワーって言っても下の方はビルで、タワーがくっついてて。展望台も付いてんですよ。一〇〇メートルもあるからどっからでも見えるんです」
「やっぱりタワーみたいな街のシンボルがあると、街が栄えてる証拠みたいに、私思うわ」
それを聞くと双音はぷっ、と吹き出した。
「そりゃあ、地名を冠した名前ならいいけど、サザナミってタワーを建てた会社の名前ですよ。あたしにはなんだか自己顕示に思えて」
「あら、皆がサザナミタワーって呼ぶかはまだわからないわよ。あの山だって、『お山』で通じるじゃないの」
家尻は山頂にほんの少しだけ雪の残った霊峰を見ていた。
*
喫茶店「シュバリエ」には、咲とサザナミタワーの広報担当の男がすでに奥のL字ソファーに腰掛けていた。
入口の扉を開けた凛子がお待たせえ、と声を弾ませて、飛び込むように勢いよくソファーに座った。
次いで双音、そして家尻とマネージャーが店に入る。久しぶり、と家尻に言われ、咲は今日はとやや固くなって挨拶した。
他のテーブルに座っていた人間と話していたそね子も全員が集まったところへ戻ってきた。
「何してたの?」
凛子に訊ねられたそね子は浮かない顔だった。「ちょっとね……」
そね子が言葉を濁らせると、凛子は理由を聞こうともせず、すぐに話題を変えた。
「ほらほら、タワー、ここからも見えるよ」促されて、家尻はマホガニーのサッシで四つ割りにした窓から外を眺めた。
手前には街角を駆けていく子供、自転車で連れ立って走る学生。向こうにはH大学の校舎が住宅の屋根を追い越し、さらに奥には雲を突き刺す尖塔。サザナミタワーだ。シュバリエからでは、小指ほどの大きさに見えるほど遠くにあるのにも関わらず、十三階建てのH大学の校舎と高さはそう違わない。
「本当、どこからでも見えるわ。私、タワーと言えば東京タワーなんだけど、それとはまた別の形ね」
「タワーの形ですか? あれは東京スカイツリーをモデルにしているんです。さすがに高さは、半分の半分もないですが」と、口元と顎に髭を生やした広報の男は言った。
今日はサザナミタワーのイベントだけでなく、商店街が主催の花火大会が行われる。花火は言うまでもなく、so-networkはH市では有名なので、サザナミタワーにもそれなりの客の動員が予想されている。
ソファーには家尻とマネージャー、so-networkの四人。広報の男は椅子を引っ張ってきて、向かい合って腰掛けた。
店主の岸和田はカウンター用の座面の高い椅子に腰を落ち着けて文庫本を読んでいる。暇ならそれもいいといった風だった。やおらカウンターに戻り、コーヒーの入ったポットとカップ、そして凛子の分のジュースを運んできた。岸和田が順番にコーヒーを注いでいく。先に来ていたそね子達の空いたカップも満たし、どうぞ、の手振りをした。
「こちらサービスにしておきます。気が向いたらうちの宣伝お願いしますよ」岸和田はカウンターに戻っていった。
そね子はコーヒーにミルクと、角砂糖を四つ入れた。隣の咲はミルクと角砂糖を二つ。また隣の双音はミルクだけを入れた。
「ところで、そね子と咲は今日どうしてたのさ」
双音の言葉に、そね子はコーヒーをガチャガチャとかき回し始めた。
「いやそれが、……、そねちゃんの猫がいなくなって、二人で探していたんです。ここのマスターの協力や、双音先輩達が来る前にも、あの人らが、ここまで情報を伝えてくれたんです」咲が最前までそね子と話していた集団を小さく指差す。
咲の言葉に間があったのを、双音は気にしなかった。
「そうなんです。うちのタマちゃんだけでなく、この辺にいる猫が全部いなくなっちゃって……」
そね子は砂糖のたっぷり入ったコーヒーを苦々しく啜り、ああノラやノラや、内田百閒も今何処、とぶつぶつ零している。
「元気出してよ。これあげるから」凛子がポケットの中から飴を差し出す。受け取ったそね子は、それをひたすらに口で転がし始めた。
会話が途切れたのを見計らって、広報の男が鞄からプリントを取り出し、めいめいに配った。
「それじゃあちょうど十七時になりましたんで、打ち合わせの方、始めますね。といっても、トークの方はそちらに任せることになっているので、動きだけ説明します」
プリントには、「担当・××」「控え室・××号室」という要項、もう一枚にはサザナミタワー一階フロアの見取り図が描かれ、「ステージ」「舞台袖」などとそこかしこに手書きで付け加えられている。
「十八時十分前に司会に呼ばれてステージに登場、といった流れにしたいので、それまでに袖に待機をお願いします」
「それは、個々で移動する形になるんですか?」双音が訊く。こうした打ち合わせでは、年長の双音が代表して質問することが多い。
「大丈夫です。事前にマネージャーさんにタワー内の図を渡してますので、それにしたがって移動になります」
マネージャーは、タワーに着いたらちゃんと確認しておくからね、と双音達に、ファイルに入れた図を見せて言った。
「よかった。やっぱり初めての場所は分かんねから……」双音はカップを持ち、もう片方のひじをソファーの背もたれに掛けた。
広報の男は、コーヒーで口を湿して、続ける。
「それで、その後少しトークをしてもらって、大きいデジタル時計を用意していますんで、それを目安にして、十八時になる際にカウントダウンをしてください。十八時ちょうどに、タワー内の機器を作動させて、施設を一般開放します。……あとは、お客がバラけるまでステージにいてもらって、私達が頃合いを見てステージからはける指示を出します」
やや沈黙があって、「実はこれで、打ち合わせは終わりなんです」と広報の男ははばかられるように声を小さくした。
「それなら、もうタワーに行っちゃいますか」双音がカップの中身をぐっと飲み干した。
すると、カランカランとドアの鈴が大きく鳴った。そして屈強そうな男達が十人ほど、陽気に店に入ってきた。
「おう、岸和田さん。ちょっと時間までいさせてもらうよ」先頭の男からカウンター席に座っていった。
男達は商店街のロゴが入った赤いポロシャツを着ていた。花火大会の面々らしい。岸和田は男達に合わせた明るい返事をして、洋酒とグラスをカウンターに出した。
「お父さん、なんで今から飲んじゃうの?」途端に咲が一人の男に言った。男達は咲の方を向くと歓声を挙げた。
娘さんがよんでるぞ、と周りに煽られて立ち上がった咲の父は、赤く日に焼けた面長な顔だった。
「森弘さん、お久しぶりです」
家尻が会釈をする。咲の父もso-networkや家尻を見て、ぺこぺこ頭を下げた。
「や、どうもどうも皆さん。ざきが世話になってます」
「ざき?」双音と凛子が口を揃える。二人は家族間での愛称か何かかと思ったが、咲が、ちょっと、と父を咎めた。
「あたし、ここでは『さき』で通してるのに……」
「いいだろうに。何で自分の名前を隠すんだ」
「私、仮にもアイドルとしてやってるんだよ。『ざき』って、何だか残酷な響きじゃない。素直に『さき』でやらせてよ」
色をなした咲と、けろりとした顔の父が言い合う横で、家尻は事態が飲み込めず、キョロキョロ顔を動かしていた。
「咲ちゃん、あなた『さき』って名前じゃないの?」
咲はうろたえ、黙っているので代わりに咲の父が答えた。
「なんだ、家尻さんにも言ってなかったのか。こいつの本名は『ざき』ってんです。苗字とあわせて、『森に、広く、咲く』みたいに名付けたんですが……」
「ざきちゃん」凛子は笑って、ジュースの入っていたコップの氷を口に含んだ。
「そね子は知ってたのか?」
双音に訊かれたそね子は、私はね。付き合いが長いから、と頷く。
「とにかく」咲がショートヘアを乱してため息をついた。
「私はアイドルやってる間は『さき』でやってくから。それで、花火大会の前からアルコール入れちゃってどうするの」
「今日は商店街の一大イベントだ。しかも俺が花火を上げるとなれば、こんなもんだよ」咲の父が、なあ、と周りに同意を求めると、全員が共鳴した。
「今日の仕事、七時には終わりそうか? 花火と、俺の勇姿を見に来いよ」父はグラスを呷った。
「絶対黒焦げになって帰ってくるよ」
咲が溜息とともに呟いてソファーに戻る。すると今度はそね子が、あれ、と声を上げた。
「佐井葉さんも花火、上げるんですか?」
カウンターの末席にいた佐井葉は、長い無精髭に気をつけながら洋酒を舐めていた。
「そね子ちゃんか。おう、上げるよ」
家尻がそね子のもとに歩み寄った。「この方は、そね子ちゃんのお父様じゃ、ないわよね」
「はい。よく行くネットカフェの店長さんです」
「これは、どうも」やおら挨拶をする佐井葉は、四十前にもかかわらず老紳士然としていた。
「俺は商店街の人間じゃないけど、常連に誘われて駆り出されてしまった」
常連と聞いて、そね子は肴もなしに酒を交わしている男達を見回す。
太い腕に突き出た腹。頭頂部の脱毛を誤魔化すスキンヘッド。長年の労働を思わせる黒く焼けた腕と対照的な白い二の腕。全員が壮年といえる年であることは明白だった。
「私、若い人ばかりがネットカフェに行くものだと思ってました」
「でもこいつらはネットなんてやりゃあしないよ」
佐井葉はにやついて常連を指差した。「俺の店を個室ビデオみたく使ってやがるんだ」
男達がわあっ、やめろよと佐井葉の口を封じにかかる。そね子は言葉の意味が分からず、凛子や咲も首をかしげたが、双音だけが大笑いしていた。
「何ビデオ?」
凛子が家尻に訊ねる。危うく興味を持ってしまうと思い、そろそろ行きましょうかと家尻は凛子達をぱっぱと店の外に出そうとした。
「みんな、花火大会、来てくれよ」羽交い絞めにされた佐井葉が、タワーへ向かおうとする皆に叫んだ。
*
控え室に入ったso-networkの四人は、衣装としてそれぞれのトレードカラーに染めた浴衣の着付けをしてもらうと、することがなくなった。
巫女然とした紅白の浴衣の双音は横になってうとうとし始めている。すこしいびきをかきだすごとに、さっきまで着ていた服と同様の、赤の凛子が頭をちょんと小突いてそれを止めた。
そね子は緑の袖をまくり、手帳とペンと取り出して詩の構想を練っているのを、紫を着た咲が横から覗く。
「失礼しても、よろしいですか……」ドアをノックする音とともに男の声。
凛子が双音の上半身を力任せに起こして目を覚まさせる。そね子は、双音が起きたのを確認してから入るように男に言った。
入ってきたのは、糊がきいたスーツを着た眼鏡の若い男。二十五歳の双音と変わらないほどだ。
「初めまして、になるな、おそらく。これを……」四人は男から名刺を渡された。
――――サザナミコーポレーション開発部部長
佐々波龍之介――――
「佐々波? もしかして」双音は名刺に目をやったまま問う。
「はい。社長である父、佐々波源太郎に変わって挨拶に参りました」
横でそね子が、うわ、と改まる。しかし双音は泰然として応じた。こんな大きなタワーに自分らの名をつける輩は、果たしてどんな人間だ、と見定める気があったからだ。
「部長さん、ずいぶん若く見えるけど」
「実は双音さんよりも下でして。満で二十四になります。あと、私もH大の、医学部の院生なんです」
そね子が年齢と学年を数える。留年無しのストレートだ、と今度は咲も言葉を失った。
「へええ。H大って、腐っても国立みたいなところあるけど、医学部の院生ってのは相当なエリートだよな。会社か学校か、どっちかにすりゃあいいのに」
龍之介がうんうん、と首を縦に振る。そんなことは自分が一番よく分かっていると言いたげだった。
「私も、本来は暇を見て開発の仕事を手伝う程度だったんですが、父から急に部長をやれと言われまして。なんだか親の七光りそのまんまで嫌だし、正直なところ部長職なんて学生にさせるものじゃないです」
初対面の、さらに会社の重役に愚痴られて、双音は狼狽した。龍之介を見定めるどころかあらを探す気でいたのに、こうも言われるとどうでもよく思えてきた。どうかその辺でとさえ言いたくなった。
すると、控え室にマネージャーが入ってきて、舞台袖に向かうよと四人を促したので、龍之介の辟易した顔が再びサザナミコーポレーションの社員のものになる。
「それでは、本番よろしくお願いします」
龍之介は入り口の隅に退き、道を空けた。四人は下駄箱に用意してある草履を履いて部屋を出る。
コンクリートがむき出しの、いかにもスタッフオンリーといった素っ気ない通路を、マネージャーを先頭にして進む。すると、後ろから龍之介もついてきた。
「舞台袖までご一緒させてください。一人のファンとして」
それを聞いて双音は笑いがこぼれた。「ステージまでついてくるだけのファンって聞いたことないぞ」
「サインちょうだいって言ってくる人はいるけどね」凛子が付け足す。
龍之介はかぶりを振った。
「いえいえ。私もH市に住む人間ですから。サインをもらうよりは、直接会いに行きますよ」
人間としてはまだ分からないが、ファンとしては非常によくできていると双音は思った。
確かにso-networkは、ほとんど全国的な活動をせずにH市を拠点として活動している。頻繁にメディアに登場するアイドルとは違い、知名度がある範囲は非常に限られる。形に残るもので満足するよりは、やはりこうしたこまごまとした活動を見てほしかった。
マネージャーが突き当たりのドアを開けると、すぐに舞台裏に通じていた。どやどやとした人の声に、マイクを通してサザナミタワーの説明をしているらしい、女の高い声が一気に耳に入ってきた。
「……この後六時より、タワーとビル内の施設を三時間、開放いたします。まだ正式な開業ではないので、プール、温泉等の水回りのある施設とレストランは閉鎖となっています。またネットコーナーにおいては、近日配信予定のバーチャルゲーム『ディメンションダイバー』のβ(ベータ)版を公開しています……」
「あのゲーム、私が発案したんです」龍之介が得意になって双音に言う。
「どんなやつなんだ。凛子分かる?」
凛子は、子供相応のボキャブラリーからか、説明に苦しみひどく考え込んだ。
「……何か、本当にゲームの中にいる感じだって聞いた」
やはり漠とした返答で、それだけでは内容がまるで分かりかねた。疑問符を浮かべる双音に龍之介が被せて説明する。
「自分の精神をですね、ゲームの中に送り込むんです。そうしてあたかも自分が、バーチャルの世界にいる感覚でプレイしていただくというもので……」
それを聞くと双音は、眉をひそめて身震いをさせた。ぞっとしないシステムだけでなく、そうした得体の知れないものでしたり顔をする龍之介も恐ろしく思った。
「げえ、脳でもいじくられそうで怖いよ」
その言葉に対して龍之介は口をつぐんだ。そして、否定どころか意見を同じくした。
「たしかに、今までにないほどに現実性を求めたゲームですから……。技術に飲まれると言いますか、抵抗はあると思います。しかしそこはうちの会社です。その不安をなくすほどの技術も持ち合わせている企業を自負しています」
それではここでゲストの方々を……、とアナウンスが会話に割って入った。
「もう出番ですね。私は、ここから見させてもらいます」
龍之介が後ろに下がり、マネージャーが先頭の双音から舞台に押し出すように、四人の背中をぽんと叩く。イベントの出演に関しては数年でかなりの場数を踏んでいたので、四人はさしたる緊張もなく客前に踊り出でた。
ステージは、新築のタワーと違って簡易な造りをしたものに白い布を掛けた小高いものだ。隣にはさっきの説明に使っていた大きなモニターと十七時五十分のデジタル時計。それらを中心にして、広いフロアに二百人ほどのギャラリーが半円を描いて集まっている。タワー内の開放が始まれば、客の入りはもっと多くなるだろう。
双音は、集まった客の目的が一目で理解できた。半分はゲームコーナーが目当ての十、二十代の若者。残りはタワーからH市を見るらしい子供連れと年配だ。
水が溜まっていない噴水の横で家尻が立っている。ただ四人の活躍を見ている顔をして、このイベントの手ごたえ如何で今後の動向を決めるものではなかった。
皆が双音達を一度は見たことがあるのか、うわあと叫んだりする人間はいない。その代わり、予想はしていたがやはり来たかという期待の顔と、身内をはやし立てるような歓声や指笛にあふれた。
どれほど双音達を知った顔が集まっていようと、まずは自己紹介から始める。
「歌って書けるアイドル、文芸部そね子です」
「乙女に恋する乙女、森弘咲です」
「H市民の妹、津軽凛子です」
「H大、K学院大で神道を専攻し、現在神職についています。ご祈祷、厄払いには私の神社をお願いします。桜双音です」
前の三人が溌剌としているのに対し、双音が長い宣伝でさながら四段落ちにして笑いを取る。四人の結成当時からの通例だ。
双音がちらと舞台袖を見れば、いたのはマネージャー一人だけだ。龍之介は客に紛れて見ているのかとも思ったが、スーツの人間はイベントのスタッフを含めてフロアに一人もいなかった。
――カウントダウンまでの間を持たせるために四人はトークを始めた。アナウンスをしていた社員の質問に答え、そね子が書きかけの小説の構想を語り、双音が重ねて神社の宣伝をした。とりとめのない話であり、多くは書かない。――
時計は五十九分と三十秒を示した。客はフロア中を見回したりうろうろ歩き回ったりと、いよいよ気持ちが急いてきている。
「さて、もうすぐ公開となります。三時間という短い時間ではありますが、どうぞお楽しみ下さい」
アナウンスに続いてそね子が呼びかける。「十秒前になったら、皆さんでカウントダウンをお願いします」
六時になれば、タワー内の電力機器が作動し、エスカレーターやエレベーター、フロア中央の噴水まで一斉に動き出す。客はもちろんのこと、四人もステージをこなす裏で気持ちがはやっていた。
十秒前になる。四人は片方の手を高く掲げ、指を折って十秒を数えていく。全員がそれに同調し、声を合わせてカウントダウンする。
「三、二、一、〇ッ」
ややあって、ごうん、というエスカレーターの動き始める音がして、連れ立った若い客が我先にと走り出した。
しかし、それだけだった。音がしたきりエスカレーターは動かない。噴水にも水を噴き出す気配はなく、デジタル時計も十八時になった途端真っ暗になった。
それからすぐに照明がふっつりと消え、フロアには夏の西日だけが鋭角に差した。
沈黙がややあった後、スタッフが停電です、と叫ぶや、客もスタッフもざわつく。
「嘘だろッ、ここまできて……」
「そんなに電気くったのか……」
「温泉やプールの装置まで作動していたぞッ」と、地下の階から駆け上がってきたタワーの人間。
「予定にないだろッ、誰の指示だ……」
「自動ドアも開かないッ……」
「街中、どこも停電だ……」
四人はなすすべなく呆然と立っていた。残念がり、座り込む人々の間をスタッフが走り回るさまがステージの上から見てとれる。
入場料等のないイベントなので、金を返せといった暴動は起きなかった。しかし電気の通らない正面の自動ドアは開かず、帰ることもできない。
「皆さんッ、申し訳ないです」シュバリエで打ち合わせをした広報の男が四人のもとへ走ってきた。肩で息を切らし、紅潮した顔で舞台袖へ誘導する。
「うちの責任者が、皆さんをお返ししても構わないとのことです。この場は私どもが対応しますので、一旦控え室の方へ……」
広報の男にされるがまま、四人はステージから降りる。すると、人の間をぬってステージまで駆け寄った家尻がそれを制した。
「待ってくださいな。今は混乱した状況です。この子達にできるかはわからないけど、お客さんをまずはまとめましょう」
四人が、私達が? と驚いたが、間髪を入れず家尻がステージに立ち、声を張り上げる。
「皆さん、聞いてくださいッ……」
怒鳴る人間はいなかったので、声はよく通った。客が家尻を見たが、彼らにとっては自分らと同じ客の一人である。誰だという問いが投げかけられる前に続ける。
「so-networkプロデューサーの家尻カシスと申します。現在タワースタッフの皆様が設備回復に向けて尽力している間、少しの時間ではありますが、この場をつながせていただきますッ……」
鶴の一声で、客のどよめきの中にまた明るい声が混じった。戸惑う四人にステージを降りた家尻は口早に言う。
「この前渡したデモテープ、あるでしょう。あれ、もう覚えたかしら? 私が合図を出すから、歌ってほしいの」
双音と凛子がA市からのワゴンの中で練習していた曲だ。それぞれ、頭を捻って歌詞やメロディを思い出す。
私は大丈夫、と頷いた双音に次いで他も了承し、四人は再びステージに上がった。
「新曲です。聞いてくださいッ」
凛子が客に向かって叫ぶと、フロア内はいっそうさっきまでの盛り上がりを取り戻しつつあった。家尻が四人に向かってワン、ツーと指を指揮棒にして振り、四人は歌いだす。
車内では二重唱だった歌が、今度はそね子のソプラノと咲のメゾソプラノも加わって、伴奏が無くとも響きは豪華になった。客が手拍子で応じる。掛け声を入れる若者までいた。
「いやどうも、助かります」広報の男が指揮を続ける家尻に頭を下げる。
「みんなが同じメロディを歌うのはつまらないから、パートを四部に分けたんだけど……。アカペラでこうも役立つとは思わなかったわ。我ながら、いい閃きね」
対処に追われるスタッフも、ステージを時折眺めては耳を傾けている。歌い終わると、客は腕を挙げて拍手をした。四人は手を振って舞台袖にはける。
広報の男が、先導しようと後ろからやってきた。「今自動ドアが機能しないので、裏口の扉をお使いください」
突然、外でどん、と太鼓のような、腹を打つほど大きい音が鳴った。
「何かの機器でも爆発したのか?」双音の言葉に、凛子がこわーい、と擦り寄る。
しかし今度はぱらぱらという音がしたので、花火だと気づいた咲が、思い出して言う。
「停電だけど、お父さん花火上げるのかな?」
「行こう。たぶん今の、停電でも花火はできるってことだと思うぞ」
「じゃあ、花火大会なんだし、この浴衣のままでもいいよね」咲と双音は顔を見合わせる。
本来花火大会が始まる時間まで、あと一時間ある。それまでに電力は復旧するだろうか。双音は思った。
「大学なら、ここほどじゃないけど高いから、そこにしようよ」
そね子の提案に、私は場所分からないから案内してちょうだいねと家尻が返す。
タワーのスタッフが、その騒ぎを首尾よく収められるか、もう露店も用意しているであろう商店街に人がくるかは分からない。
「あの部長さん、どこいったんだろうね」
凛子が気づくと、そね子や咲もそういえば、と暗い通路を見渡す。花火の音がもう一発、どおんぱらぱら、とコンクリートの壁に吸い込まれた。 (了)