#1-1.グロス?
藍花商事 営業一課 それが俺・野神瑞貴の職場だった。
「おや、のっち。ずいぶん早いな」
3階にある営業部フロアーにある一課に戻ると昼休みだと言うのに、同期の藤堂一弥がパソコンに向っていた。
「会社でのっちは止めろ」
「なんだ、寝不足か? 野神は」
同僚の藤堂はパソコンから視線を外さないまま顔も見ずに聞いてきた。
とりあえず藤堂はいつもこんな感じで仕事に集中している時は人の顔を見ないで受け答えをする。
それでもきちんとした答えが返ってくる。
一度で良いから頭の中を見てみたい。
「普通の脳みそが詰まっているだけだ」
もとい、藤堂はエスパーだった。
「顔を見ないで判るのか?」
「見ているよ、それに声だな」
「起こされた」
「誰に、それにお前を起こす奴なんていないだろ」
「いたんだよ、確かに」
「誰が?」
「侍?」
俺がそう言うと藤堂がキーボードを叩く手が止まった。
「ミス侍か?」
「たぶん」
「何で?」
「俺が知りたいよ」
俺が溜息を付くと藤堂が茶に付き合えと言うので、仕方なく通路の喫煙スペースの横にある自販機に向った。
すれ違った女子社員が俺の顔を見て笑いながら走り出した。
藤堂と一緒に居ると時々こんな事が起きるので俺は別段気にしなかった。
「お前はミルク抜きだよな」
「ああ」
そう言って紙コップを渡される。
目覚ましに丁度良い、珈琲の香りが立ち込めた。
2人で長椅子に腰掛けると通路の先を代表取締役の後ろを秘書の女性歩いているのが見えた。
「噂をすれば影だ。彼女に間違いないのか?」
「たぶん」
秘書課の一ノ瀬凛子それが彼女の名前だ。
長い黒髪をポニーテールにして黒いスーツを着ている。
端正な顔つきに切れ長の大きな目、そしていつも背筋を伸ばして歩く姿から『ミス侍』と呼ばれている。
クールビューティーで社内人気ナンバーワンらしい。
そんな事はどうでも良い事だった。
俺には関係ない。
毎日の仕事を小さな歯車の様にして、平凡で穏やかな生活がしたくて大きな商社に入社したのだ。
「まぁ、何かの間違いだろう」
「間違いね、その頬に付いているグロス落としておけよ」
「はぁ? グロス?」
「リップグロス」
藤堂に言われて慌ててトイレに駆け込んで鏡を見ると頬に薄いピンクの跡が残っていた。
藤堂の奴は性格が悪い……
間違いなく、笑われていたのは俺だった。