第8話 ここに残る者
太陽暦二六三八年一月一〇日。
ガルたちが住む村にある浮遊車駅に、一団の人だかりがあった。
「じゃあ、行ってらっしゃい。
試験が終わったら、一度は帰ってくるんでしょ?」
浮遊車の中でチェルがレグルに言った。
「ああ、すぐまた帝都に戻るけどな。
一度帰ってくる」
レグルは、自分が試験の落ちるなどとは、欠片ほども考えていない。
「しっかりと勉強して、恩賜の短剣いただいて来い」
父が、最後の発破をかけた。
士官学校の卒業時、成績優秀者の上位一割程度に皇王からの恩賜の品が与えられる。
現在は短剣が下賜されているが、かつては銀時計や双眼鏡であったりもした。どんな物であれ、恩賜の品は将来を約束する証でもあった。
砂海軍三顕職を目指すのであれば、恩賜の品はなくてはならない物と言える。
簡素なプラットホームには、村長をはじめとした村の主だった者たちが、ソル皇国国旗を手にそのときを待っていた。
ローカルな路線であり、運転手もチェルの宿に泊まる常連だったためか、乗車券無しで見送りの人々が車内に入ることを黙認している。もちろん狭い車内にすべての人々が入れるはずはないので、両親と妹のリーン、恋人であり事実上の許嫁であるチェル、幼馴染みのガルとエルミだけだ。
その五人が浮遊車から降り、定刻になって浮遊車がゆっくりと浮き上がる。
期せずして挙がる万歳の声に、レグルへの期待が込められていた。
誰もレグルが士官学校の受験に落ちるとは、露ほども考えていない。一位とまでは思ってないにせよ、中堅どころは死守するだろうと見ていた。レグルの出世は村の誇りとなり、周囲の村々に対して優位に立てるという大人の思惑も当然入り込んでいる。
車外の喧騒に、レグルは窓を開けて手を振った。
大人の思惑など、どうでもいい。自分の立場が揉め事の解決に役立つなら、自身の常識に照らして動けば良いだけだ。レグルは利用だけはされまいと、固く心に誓っていた。
浮遊車は殊更ゆっくり走り出す。
レグルが座る窓を追いかけるチェルたちが、走らなくて済むように速度を抑えている。今さら掛ける言葉のないガルたちは、帝都を案内しろだの、いつ帰省するだの、他愛のない言葉の遣り取りをしていた。
短いプラットホームは、浮遊車が通常の機動をすれば、あっと言う間に端まで行ってしまう。
運転手は、たっぷりと時間を掛け助走をしていた。予め他の客にはこうすることの同意を得ていたため、文句を言う者などひとりもいない。誰もが少年と少女たちの可愛らしい遣り取りを、自身の甘酸っぱい記憶や、枕に顔を埋めてのたうち回りたい記憶に重ねてみている。
やがて、プラットホームが尽き、ガルたちは取り残された。
浮遊車を見送る三人は、短い別れであるにも拘らず万感の思いを胸に浮遊車を見送った。
ガルは、一〇日後に迫った高等学校の試験に思いを馳せ、エルミも同様に二週間後の飛行士官試験のことを考えている。チェルは恋人の無事と仲間の成功を願い、胸の前で掌を組み合わせていた。
三人が浮遊車を見送る視線の先は、広大な砂漠が広がっている。
もちろん、大東砂海ほどではないが、それでも徒歩で踏破するには命の危険が付きまとう広さだ。頻繁に吹き荒れる砂嵐は砂漠の砂を舞い上げ、吹き降ろし、常にその表面を流動的にしていた。一歩でも踏み出せば、蟻地獄に落ちたかのように脚が沈み込み、もがけばもがくほど抜け出すことは困難になる。僅かに歩行可能な部分であっても、快晴であれば太陽が容赦なく人々を日乾しにし、砂嵐が吹けばあっという間に埋め尽くす。村の周囲は魔鉱石が作り出す見えない障壁で守られているが、それがなければ激しい砂嵐がオアシスに吹き込み、人々の生活は成り立たなくなってしまう。
先人の英知が、現代の人々に文化的な暮らしをもたらしていた。
砂漠が人々を拒むもう一つの理由がある。
俗に砂漠の民と呼ばれる生物が、広大な砂海のあちこちになわばりを持っていた。
二足歩行である点は、ガルたちや他国に住む人種と同じではあったが、言語を持たず、知性も低いと見られていた。好戦的で、万が一行き会えば集団で襲い掛かってくる。戦闘というよりは、砂漠の民の行動は狩りといった方が適切だった。
事実、砂海で遭難した浮遊車や浮遊船の乗組員や乗客の多くが、砂漠の民に狩られ食われていた。
偶然なのか、人類とは違う知性や魔力を有しているのか、魔鉱石で砂上を浮遊しているのか、違う力なのか、砂漠の民は砂に沈むことがない。
太陽と砂嵐から身を守る衣服は着用しているが、遭難者から奪ったぼろばかりだ。武器の類も携えてはいるが、戦技を身に付けているわけではなく、剣にせよ銃器にせよ力任せに叩き付けてくるだけだった。
武器というより、道具といったレベルだ。
彼らがなぜオアシスに侵攻しないのかは謎だが、魔力か魔鉱石の効力が反発し合って近寄れないのではないかと推測されている。
遭難者や冒険者のみを襲い、浮遊車や浮遊船には一切手出しをしてこないことから、そう考えられていた。
皇国や他の国家でも、国土の中に遍在する砂漠の民には手を焼いているが、オアシス間に横たわる砂漠に踏み込まない限り人的被害がないのであれば、積極的に討伐する理由を見出せずにいた。
鉄鉱石や魔鉱石といった資源採掘のために砂海に出る際には、当然魔鉱石による防護障壁を用意する。そうなれば砂漠の民は、手出しはできない。警告を無視して砂漠に出た者は、自業自得だ。困った存在ではあるが、事実上国家にとって障害でなければ討伐の理由はない。彼らも食うために遭難者を襲っているだけであり、侵略を意図していたり、人類に限って危害を加えているわけではなかった。
それより、資源や国土を狙う他の国家の方が、よほど脅威だった。
オアシス間は浮遊車路線でつながれており、帝都まではいくつもの路線を乗り継いで約半日の行程だった。
レグルは時折襲う砂嵐による浮遊車の揺れに身を委ね、将来に思いを馳せている。砂海軍に入り、艦隊勤務を命じられたなら、この砂嵐の中に身を晒すこともあるかも知れない。障壁や浮遊車の窓越しにしか見ることのない砂嵐がどんなものか、身を以て体験してみたかった。もちろん、今窓を開けるなどしたら、周囲の乗客から袋叩きにされた上に、次の駅で放り出されるだけだ。
レグルはそうなったときの自分の姿を想像し、小さく笑みを浮かべていた。
浮遊車は一時間ほどの行程で次のオアシスに到着した。
ここで別の路線に乗り換え、帝都への大きなターミナルがあるオアシスへ向かう。レグルの持っている切符は、村長が好意で買い与えた全線の座席指定券だ。それ故に乗り遅れなどしてしまえば、そこで身動きが取れなくなってしまう。分刻みのスケジュールを頭に叩き込み、プラットホームを間違えないようにしなければならない。
レグルは、ふと来週帝都に出るという、脳天気な幼馴染みが心配になっていた。
レグルを見送った後、駅舎から吐き出される人の波に、ガルとエルミは流されていた。
チェルは昼時の仕込みがあるため、一足早く宿へと戻っている。浮遊車が見えなくなるまで見送った後、将来に不安と期待を抱いているふたりにちらりと羨望の視線を送ったが、それに気付いた者は誰もいなかった。
レグルは五年と期限を切ってチェルを迎えに来ると言っている。
その頃にはアレイが宿の戦力として、充分な働きができるはずだ。そうなればチェルがレグルに嫁ぎ、帝都へ出ることに障害はなくなっている。
だが、それは取りも直さず、アレイをこの田舎町に縛り付けることに他ならない。アレイは、まだ無邪気に宿を継ぐと言っているが、使命感や義務感から言っているわけではない。この世界で長男が家業を継ぐことは、常識ではある。だが、中等学校で広い世界の知識を学んだとき、彼が何に夢を抱くかまだ未知数だ。現に、田畑を他人に売り払い、帝都へ出る長男は多数いる。
しかし、チェルが家を出ることが確定した今、アレイは夢を見ることすら禁じられてしまったも同然だった。現状でチェルの宿が廃業することは、ここ以北への足がなくなることを意味していた。朝は早く、客の都合次第で休みも碌に取れない仕事に、それも帝都から遠く離れた辺鄙な田舎町で、わざわざ就こうという者がいるとは思えない。
宿に戻り、昼の仕込みを手伝いつつ、チェルはそのことばかりが気になっていた。
そして、チェルはもうひとつ、気付いたことがある。
自身に明確な未来図がないことだ。
レグルを好きな気持ちは変わらない。レグルの傍にいたい。レグルを支えたい。そういった気持ちが強いことは、確かだった。だが、自身が何かを為したい、何かになりたいといった夢がないことに気付いてしまった。
レグルが艦隊勤務になれば、一年のほとんどは砂海上で過ごすことになる。
訓練の間は、艦艇に寝泊まりすることが当たり前だ。整備のため帰港していても、部署によっては艦艇から離れられない。休養の期間も当然当直任務はあり、艦艇に寝泊まりしなければならない。
いったい、一年のうち何日を共に過ごせるのか、その間何を心の支えにすればいいのか、その間何をすればいいのか、チェルはレグルが帝都へ出て行ったときから不安に襲われていた。
漠然とした不安が集中力を奪い、コンロの火力を上げられないだけでなく、細かい包丁傷をあちこちに作ってしまった。
魔鉱石による火の発現があるおかげで、薪を用いずとも調理が可能だった。
オアシスの数少ない樹木を燃料にするわけにはいかないため、火の魔法に呼応する魔鉱石は生活にはなくてはならないものだ。
使用者の魔力に呼応して火を燃え上がらせる魔鉱石が、この日に限ってはくすぶったようにしか熱量を発しない。魔力の使用量に応じて行使者は水分を必要とするが、チェルは喉の渇きを感じていなかった。それは魔力が正しく行使されていないことを意味し、チェルの傍らに置かれた水桶がいつまで経っても補給を必要としないことが証明している。
「チェル、今日は休みなさい。
いや、休め。
そんなことでは、人様にお出しできるものは作れない。
気にするな。
そんな日も、ある」
大きな鍋に油を熱し、その中に素材を通しながら父が言った。
「お父さん、大丈夫よ。
できるわ」
だが、父の言葉に心を乱されたチェルのコンロは、完全に火が消えてしまった。
いくら精神を集中したつもりになっても、魔鉱石は反応せず、火が熾ることもない。魔力の行使に伴う水分の消費もまったくなく、身体が水を欲することもなかった。
「姉ちゃん、大丈夫?
あとは俺が手伝うよ」
下校してきたアレイが調理場に入ってくる。
「大丈夫よ、アレイ
まだ遊んできていいわよ」
チェルは必死になって魔鉱石に精神を集中しようとしながらアレイに言うが、火は少しも反応してくれない。
「どうしたの、姉ちゃん?
いつもなら、すぐ手伝えって言うのに」
アレイは驚いたような顔で厨房に入り、チェルを押し退けるようにしてコンロの前に陣取った。
余程チェルの心は乱れていたのか、アレイの才が開花しようとしているのか、交代しただけで魔鉱石が反応し、赤熱を始めている。
それを見たチェルは、肩を落としてアレイに場所を譲った。
「気に病むな。
さっきも言ったが、そんな日もあるんだ。
特に今日みたいな日は、な。
そろそろ食堂の方を開けるぞ。
チェル、今日はそっちをやってもらおうか」
父はチェルをからかうように言った。
今の状態は火を熾せない分、まだ救いがある。
これで火の暴走でも招いたら、厨房が焼けるくらいでは済まないかもしれない。チェル自身まだ気付いていないが、父はチェルの魔力の大きさを把握している。数ある魔法の属性の中でも、特に火の魔鉱石と相性がいい。まだ子供といって良い年齢故に充分に制御し切れていないが、いずれ魔鉱石を完璧に制御できるようになれば自分を遥かに超える料理人になれると、父は見ていた。
レグルが帝都に出ることは、チェルが帝都で店を持つチャンスが巡ってきたと父は考えている。
父が制御できる火力では、一般的な家庭料理の延長しか作れない。
母の魔力はそれを遥かに上回り、メディエータの料理法に匹敵する火力を作り出すことができた。だが、生来の体の弱さがその魔力に耐え切れず、現在ではほとんど寝たきりの状態だ。チェルとアレイには、父の頑強さと母の魔力が都合よく受け継がれていた。特にチェルは、魔力に特化した才能を持っている。アレイの才能も楽しみだが、チェルには帝都で料理人として勝負できるだけの才能があると、父は信じていた。
もし、アレイも出て行きたいというのなら、宿と食堂は人を雇えば良い。
絶対に家業を継がなければならないなどという決まりは、父は作っていない。いずれ村の誰かが引き継ぎたいというのであれば、チェルやアレイが後を継がないのならそれもいいと考えていた。ここ十数年の技術の発達には、目を見張る物がある。観光名所でもなく、各地への乗り換えでもないこの村が、長距離路線の通過駅にされるであろうことは、ほぼ確定のことだろう。
需要がなくなる宿をたたんで、駅舎に食堂を出すことを、父は考えている。
「不安は分かる。
どうだ、ひとつ料理を本気で勉強してみないか?
ま、今すぐというわけにはいかんがな。
アレイがもう少し体力が付いて、そうだな、中等学校に上がったらだな」
その夜、宿の夕食の後片付けが終わったあと、翌朝の仕込みをしながら父はチェルに声を掛けた。
そう言って父は仕込みの手を休め、宿の裏庭にチェルを誘った。
冴え冴えとした冬の星が今にも降り出しそうな空を見上げ、父は懐から出した安タバコに火を点ける。
チェルは父の仕草を見ながら、父の真意を探ろうとしていた。
「昨年の開戦で、帝都の隣にあるオアシスから、多くのメディエータ人が国へ帰った。
あのオアシスには、メディエータ料理の名店がたくさんあったんだ。
父さんの料理は、比べるのも恥ずかしいが、メディエータ料理を手本にしているのは知っているな?
この宿であの料理を作れていたのは、母さんの魔力あってのものだからな。
いつか、お前をどこかの店に修行に出したい、そう、母さんと話しているんだ。
残念ながら、父さんの魔力では、あの火力を出すことは無理だ。
母さんの体力で、あの火力に立ち向かうのも無理だった」
父は、大きくタバコの煙を吸い込み、溜め息のように吐き出した。
チェルは言葉を挟むことなく、父の話を聞いている。
「お前は、その両方をうまく受け継いだ。
溢れる魔力と、かさばる体力だ」
チェルの深刻そうな顔を見て、父はわざとくだらない物言いをするが、見事に滑った。
「メディエータと開戦したが、それでも残ってる店もあれば、ソル人が後を受け継いだ店もある。
人同士が憎しみ合おうと、旨いものは美味いんだ。
チェル、メディエータ料理を本気で勉強してみないか?
もし、お前が望むなら、洋食でも同じことだ。
ここにいても、野菜以外に碌な物は手に入らん。
父さんより才のある『お前たち』には、もっと腕を磨いて欲しい」
チェルは父の言わんとしていることを、理解できていない。
あまりの急展開に、意識がついていけなくなっていた。
「帝都にいる仲間に、話を付けておく。
そんな長くは出してやれないが、ひと月くらいならいいだろう。
レグルと一緒に、行ってこい。
来月は、毎年暇な時期だからな。
父さんひとりでも、なんとでもなるさ」
父がタバコをもみ消したとき、チェルの啜り泣きが聞こえてきた。
「ガル、自信はどうだ?」
夕食の後、父がぼそりと訊ねた。
「大丈夫だよ、父さん。
でも、特待生までは期待しないでくれよな」
教科書から目を離さず、ガルは答えた。
この世界において、高等学校への進学率は一桁を切っている。
高等学校、大学校、技術専門学校は、エリートの養成機関と位置付けられている。そのため、誰でも入れる明るい学校であっては、権威が伴わない。入学試験に難問奇問の類は出ないが、並みの頭脳では制限時間内に全回答することが困難なほどの問題数が出される。高得点での争いになるため、一問でもケアレスミスがあれば、即不合格に繋がるような状況だった。
そしてもうひとつ、庶民階層にとって高等学校への進学を躊躇わせる理由があった。
学費が高額。
エリートは良家の子女であるべきという理由と、良質な教師を企業に引き抜かれないようにと高額な報酬を保障するためだ。
もちろん、授業に使われる教材も安いものではなく、その都度徴収される。外国へ出た際に恥を掻かぬよう、給食には世界各国の料理が饗され、テーブルマナーを学ぶことも重要視されていた。結果として、年間の学費が庶民階層の年収を遙かに超え、経済的な理由で進学を諦めざるを得ない者が多数を占めていた。
当然、野に埋もれた人材を発掘するため、特待生や奨学金といった制度も用意されている。
だが、特待生は適用基準が入試の結果という数字でしかないため、事実上試験結果の上位者への報奨制度になり果てていた。つまり、家庭教師を雇えるか、最近台頭してきた受験予備校へ通わせることのできる裕福層への経費還元システムへと成り下がり、庶民階層から優れた人材を発掘するための制度としては形骸化されている。
試験で上位の成績を取ればいいのだが、受験のためのテクニックを教わった者の壁は厚かった。
授業料が存在しない騎兵軍や砂海軍の士官学校に、庶民階級の子女が殺到することは必然といえる。結果として、士官学校は三〇倍近い倍率になり、合格率は数パーセントの超難関校になっていた。
ガルが父に言ったことは、そういったことが背景にある。
もちろん、ガル自身は特待生とまではいかないが、奨学金は狙っていた。奨学金には、返済無用から短期返済まで、様々な形態がある。運営母体のほとんどが、裸一貫から財を築いた庶民階層出身の財閥や、開国前から財を蓄えていた貴族階層だ。自らの苦労を省みて慈善事業として行っている財閥から、税金対策としている財閥や貴族など、理由は様々だが、将来優れた人材を配下に確保するためという動機は共通していた。
ガルが狙っているのは、審査が比較的緩く、高等学校なり大学校、専門学校を卒業後、運営母体の企業で数年間給料から天引きで返済する形態のものだった。
ほぼ終身雇用が当たり前の世の中であり、その財閥の系列企業に就職すれば、定年までに払い終えればよいため、月々の返済額はそれほど大きくない。もちろん、繰り上げての返済も可能だ。
財閥としては優秀な人材を確保できるメリットがあり、苦学生にとっては給料が一割程度安くなるだけで高等教育を受けられるメリットがあった。
財閥の系列企業に就職せずとも、返済額は変わらない。
先んじる列強各国に追いつき追い越せという、開国以来の気概はまだ健在だった。さすがにライバル関係の系列に就職すれば良い顔はされないが、それでも皇国の技術力や経済力の底上げに繋がるならと敢えて禁止にはしていない。
逆に起業は奨励され、財閥の系列に加えたり、取引先として優遇したりの恩恵があった。
ガルの場合、鍛冶職人や鉄鋼の研究職として就職するより、家業を発展させ財閥の取引先となることにメリットがあると考えられた。
ガルたちの村では手に入り難い材料を買うことができ、製品は確実に買い上げてもらえる。
この村に新たな産業を、呼ぶことができるかもしれない。そうなれば人口も増え、商店は潤い、浮遊車路線の主要駅に格上げされ、チェルの宿も客で賑わうことになる。もちろん人口が増えれば治安は当然悪化するだろうし、居住地を増やすため周囲の自然を切り開かなければならない。重工業の工場が進出してくれば、オアシスの水源が不足したり汚染される可能性も捨てきれない。良いことずくめというわけにはいかないが、それでも天秤にかければ寂れた村にとっては利益の方が大きい。
そのためには腕を磨かなければならないし、経験や勘だけでは『製品』は作れない。新しい技術はもちろんのこと、製品管理や規格など勉強すべきことは山ほどあった。
レグルが帝都へ行ってから五日が過ぎた安息日の前日、一月一五日の昼過ぎに、ガルはチェルの宿へ昼食を取りに行った。
いつもは母が食事の用意をしているのだが、この日は気分転換でもと言われていた。最も忙しい時間を外したのは宿に対する気遣いもあるが、チェルと話がしやすいという目論見が当然ある。あわよくば、昼時の片付けの後、お茶を一緒に飲む時間くらい取れるのではないかという期待もあった。
レグルのいない隙に、などという大それた期待を抱くほどガルは自信家でもなければ自惚れ屋でもない。だが、普段よりはチェルと過ごせる時間は、増えるだろうという期待は持っていた。
昼時の喧騒が引いた食堂に、チェルとエルミが向き合って座っている。
チェルの前には湯飲みが置かれ、エルミの前には定食のトレイが置かれていた。ふたりはテーブルを挟み、ああでもない、こうでもないと皿をつつきながら話し込んでいた。よく見るとエルミの前に置かれたトレイは、他の客に出され定食とは構成が異なっている。ソル皇国で主食とされる米を炊いたものか盛られた丼と、味噌汁の椀が並んでいることには変わりはない。しかし、違う吸い物が入った椀や小皿や小鉢がいくつも並び、メインとなるはずの皿がない。
ガルが食堂に入ったことにふたりは気付かなかったが、チェルの父が発した客への歓待の言葉に入り口を振り向いた。
エルミの姿を認めたガルは、ふたりきりになれないことに僅かに落胆の表情を見せた。
もちろん、エルミを嫌っているわけでは決してないのだが、滅多にない機会を潰しやがってという自分勝手な感情が自然と溢れている。
「あ、いらっしゃい、ガル。
どうしたの、何か難しい顔しちゃって?」
ガルの気持ちなど欠片も知らず、脳天気にチェルが聞いた。
「あ、いや、その定食が気になってさ」
エルミに不快な思いをさせてしまったのでは、という軽い後悔を抱きつつ、ガルは表情を無理矢理変えた。
「チェルが新しい料理作ったんだよ。
私が来たから。
いいでしょ」
ガルの表情の変化を読みとり、エルミは精一杯の強がりを見せた。
「へぇ、今度食堂に出すヤツ?
宿の晩ご飯?」
ガルはエルミの感情などお構いなしに、ふたりの横の席に腰を下ろし、エルミの前に置かれた皿から料理を一切れ摘んで口に放り込む。
「あ、今作るから。
もう冷めちゃってるから、しょっぱいよ」
チェルは慌ててガルを止め、厨房へと入っていってしまった。
「美味いじゃん。
弁当に良いいんじゃない?」
エルミに問うようにしながら、チェルに声を掛ける。
「そうなんだよねぇ。
できたてだと、ちょっと物足りなかったんだけど。
塩じゃなくて、牡蛎油とか辛味を足した方がいいかなって私は言ったのよ」
エルミがガルと同じ皿から一切れ野菜を摘み、口に入れた。
チェルが新しく料理を作っている間、ガルとエルミは残った皿の料理を摘んでいる。
豚肉とキャベツ、長ネギを軽く油通しして、ショウガをよく炒めた後にすべての材料を順次炒め合わせ、メディエータの酒、牡蛎油、味噌に砂糖を加えて醗酵させた甘み調味料、そして空豆と唐辛子を醗酵させた辛味調味料と味噌で味を調える。僅かに感じる程度の甘みが、辛さを引き立たせ炊いた米とよく合う一品だ。
となりの皿には、魚を主体にした料理が載っている。
この村の近くにある塩湖で採れる白身魚に片栗粉をはたいて揚げ、片栗粉でとろみを付けた鶏がらから取ったしょうゆ味のスープを絡め、そこに炒めた青菜を混ぜ合わせたものだ。こちらは牡蛎油を使っているが、辛味は押さえ気味で胡椒で軽くつけてある程度だった。これは本来白米に欠けて食べる丼物で、忙しいときなど手早く食べられ重宝しそうだった。
次の皿には、一口では食べられない肉の塊が鎮座している。
豚の三枚肉を下茹でし、醤油、酒、砂糖とメディエータの香料、ショウガやネギといった香味野菜とともに脂身がとろとろになるまでじっくり煮込こみ、辛子をたっぷりと添えたものだ。
もう一つの皿には、魚が丸のまま横たわっている。
大鍋に湯を沸かし、その上に蒸篭を置いて作った蒸し物だが、ショウガとネギの香りが効いている。仕上げに熱したごま油がかけられていて、それが冷めてしまった今でも食欲をそそる香りを残していた。
味噌汁の横にふたつ並んだ汁椀には、それぞれ違った色のスープが入っていた。
鶏がらのスープはほぼ透明で、酒と塩で味が調えられ、青菜と溶き卵が散らされている。卵がきれいに散るようにスープにはとろみが付けられていて、これはまだ暖かさを保っていた。
もう一つの椀には、白濁した汁が張られている。
豚骨から取った濃厚なスープに、酒と塩、僅かに醤油で味を調え、こちらの具は戻した乾燥キクラゲと炒った白ゴマ、刻みネギだけだった。スープ自体には豚骨と一緒に煮込んだ玉ネギ、ニンジン、キャベツの芯などの野菜の甘みが溶け込んでいて、あれこれと具を入れる必要がないほど複雑な味になっている。
どれもチェルの父が持っているメディエータ料理の本に載っているものだ。
この日は厨房にある材料で作れそうなレシピを試作しただけだったが、チェルは本格的にメディエータ料理に挑戦するつもりになっていた。
やがて……
「あっ!」
厨房からチェルの悲鳴が聞こえてきた。
「どうした!?」
「何、何かあったの!?」
ガルとエルミが同時に叫ぶ。
「あの、ごめんなさい。
辛味調味料の入れ物を、鍋に落しちゃって。
もうちょっと待っててね、作り直すから」
厨房からチェルが申し訳なさそうな顔を覗かせた。
後ろではチェルの父が苦笑いしている。
「驚かさないでくれよ。
勿体無いから、それ持ってきて」
ガルはそう言うが、ちょっと格好のいいところを見せてやろうという下心が覗き見える。
「でも、食べられる分量じゃないのよ、落しちゃったの」
チェルが厨房から言い返す。
「いいじゃない、ガルがそう言うんだから」
半分呆れたような、怒ったような口調でエルミがけしかける。
「じゃあ、ちょっとだけ。
無理なら言ってよ」
チェルもエルミの言いように触発されたのか、鍋の中身を皿に移して運んでくる。
「なんか、匂いだけで汗が出てくるよう、これ」
エルミが顔をしかめて、セリフを棒読みするようにチェルに言う。
「どれどれ。
大丈夫だよ、これくらい」
平然とした表情を努めて保ちながら、ガルが豚肉とキャベツ、長ネギの味噌炒めを口に入れる。
数瞬後、ガルは咀嚼する余裕すらなく、盛大に口の中身を噴き出した。
「なにすんのよぉっ!
汚いなぁ、ガルはっ!
だから言ったでしょうよっ!」
小さくなってエルミの罵声を聞いているガルは、炎天下の砂漠で数時間過ごした者のように大量の汗を流し、口すら利けなくなっていた。
結局、作り直したチェルの料理を堪能した後、ガルはお茶を飲みながらふたりと雑談に興じていた。
ようやく形になってきたそれぞれの将来や夢、それに向かっての努力、不安、話し始めれば終わりはない。個人個人の将来もそうだが、ソル皇国自体の将来にも不安を抱えている。メディエータとの終わりの見えない戦争や、それに横槍を入れてくるオリザニアとの関係、このままでは世界から孤立してしまうのではないかと不安が募る皇国の政治家たちや軍部の振る舞いと、辺境の少年少女にはどうしようもないことまで三人は話していた。
チェルは、将来に直結する試験を間近に控えた二人の言葉を、以前は羨ましいという感情とともに聞いていた。
だが、今ははっきりとした将来の夢が見えている。それをいつ言おうか、ふたりの言葉が途切れるタイミングを測っていた。
「俺が大学校か専門技術学校を出たらさ、この村に仕事を引っ張れるように頑張るよ。
そうすれば、チェルの宿にも出張の客が今以上に増えるぜ。
期待していてくれよ、チェル」
瞳を輝かせてガルは言った。
「うん、そうなるといいね。
あたしは帝都で料理店を開くから、お父さんとアレイに頑張ってもらわなきゃ。
でも、本当にそうなってくれたら、お父さんも宿をたたまなくていいから、ガル、頑張ってね。
あれ、ガル、どうしたの?」
心底嬉しそうにチェルが言った。
だが、ガルはチェルまで帝都に行ってしまうことに、すべてが崩れ去るような衝撃を受け言葉を失っていた。